主の祈りについて



「主の祈りについて」

ルカ11113

皆さん、今日の福音は「主の祈り」についてです。当時のユダヤ教のグループには、それぞれのグループの特徴を表す典型的な祈りがあったようです。弟子達は、ヨハネに教えられたという祈りの言葉を教えて欲しいとイエス様に願いました。

イエス様は、弟子達に「主の祈り」を教えられた後で、不思議な例え話をされます。それは、真夜中に隣人の家族をたたき起こしてでもパンをせがむ「あつかましさ」を描きながら、何かを祈る、または願う時は、主に向って祈るべきことを、求め続けなさい、捜し続けなさい、叩き続けなさいと表現しました。ドアを叩き続けた結果、パンを借りることができたのは、神様が喜んで答えてくだっさということなのかもしれません。

「主の祈り」について最も大事な事は、私達がこの祈りをどのような思いで祈っているか、この祈りがどのように私達を支え、導いていてくれるかということです。イエス様が望んでおられることは,私達が絶えず悪に抵抗し,義にかなった生活を送るよう努めながら,神様の助けを祈り求めることです。私達は時々、神様への祈願(お願い)を「祈り」と考えますが、祈願は祈りではなく、祈願は祈りの一部です。

「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見つかる。門をたたきなさい、そうすれば開かれる。」この御言葉も大変有名な言葉ですが、残念ながら「必ず願いが叶う方法」は存在するとも、しないとも言えません。一つだけ確かなのは、努力無くして成就はないということです。神様へご自分の要求を押し付けるような祈りではなく、最大限の努力をした上で、「御心の通りにしてください」という祈りをする必要があります。

たとえどの様な悪い結果だとしても、そこから学びを得て反省をする。そして「良い選択」として、それを素直に受け入れるという行動が求められます。「祈っても自分の思い通りにはならなかったけれど、何かが変わった」「気づきがあった」という体験もあるかもしれません。もし祈りの中で、少しでも自分の中の小さな変化に気がついた時、たとえそれが自分の思うものとは違っても、結局一番「良い物」が与えられたということなのかもしれません。

 どうぞ皆さんも祈りを通して、ご自分の「心の成長」に気づいていただきたいと思います。「主の祈り」で大切なことは「私の祈り」ではなく「私達の祈り」であることです。全人類のための祈りとも言えます。どうぞ皆さんご一緒に祈りましょう。

主の平和


(吉祥寺教会、2022724


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