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Showing posts with the label 分かち合い

私は天から降ってきたパンである

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  「私は天から降ってきたパンである」 ヨハネ 6.41-51   皆さん、今日の福音書は、天から降ってきた「命のパン」についてです。イエス様は「私は天から降ってきたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである」と仰いました。「命のパン」は私達にとって”魂の食べ物”です。 「命のパン」は、決して目に見えるものではありません。それは、見える出来事の中に、見ることのできない神様のお導きやご計画を感じる、または見るということです。例えば、今まで偶然であると思っていたこと、または自分の努力だけで成功したと信じていたことは、神様が導いてくださったと思えるようになることです。その最たる例が信仰です。 その信仰は、神様の御言葉、ご聖体をとおして、成長します。信仰そのものがなければ、私達がいただく聖体は全く意味のないものとなってしまいます。なんでもいいから、ご聖体を食べれば、効き目があるというものではありません。 ご聖体を頂くときは、ご自分の信仰はイエス様の求めに値するのか、イエス様は私達の為に何をしてくださったのかを、心に刻んで、改めて、イエス様を心の中に感じながらご聖体をいただきたいと思います。 イエス様の「命のパン」の信念は、ご自分の為ではなく、他の人達への「命のパン」であることも意味しています。もし、困っている人がいたら、ぜひ彼らの声に耳を傾けてください。苦しんでいる人達に寄り添い、心の痛みを分かち合うことも、「命のパン」の分かち合いになります。本当の幸せとは自分だけが幸せになることではありません。共に苦しみを分かち合い、共に幸せを分かち合うことだと思います。どうぞ皆さん、多くの人々へ「命のパン」を届けてくださいますように。 今週もお元気にお過ごしください 主の平和

神様の奇跡について

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  神様の奇跡について ヨハネ 6.1-15   今日の福音書では、イエス様は 5000 人を養うという奇跡を行われました。空腹と不安でいっぱいな弟子たちに、草の上に座る様に命じて、感謝の祈りを唱えると、次から次へとパンや魚を取り出して弟子たちに渡しました。配ってもパンと魚は増えていきます。弟子たちは本当の奇跡の体験者となったのです。 私達はイエス様をもっと近くに感じたい、イエス様の奇跡を弟子達の様に体験したいと思います。ですが、思い願うだけでは奇跡は起こりません。そこには強い信仰が必要です。私達は弟子達の様な体験は出来ませんが、その代わり、主日のたびに、神様の御言葉を与えられ、御聖体を授かる事が出来ます。私達がどの様な困難にあっても、生きる力と勇気、そして希望の光を与えていただきます。それらは誠の救いとして私達を導いてくださいます。つまり私達の信仰は神様から与えられた、万能の薬、奇跡なのだと思います。 今週もお元気にお過ごしください。 主の平和  

祈りと慈愛の心について

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  祈りと慈愛の心について マルコ 6.30-34 皆さん、今日の福音は弟子達の伝道報告と祈り、そして慈悲の心についてです。イエス様は弟子達の苦労を労いながら、静かな所に行って、祈って、休むように命じられました。つまり祈るという事は心を休める事を意味しているのだと思います。 私達はどんなに幸せでも、心が満たされない時があります。そういう時こそ、「祈って休む」ことを実践してみてください。神様との語らいの中で、救いを求める時、困った時は、是非教会に来て、沈黙の中で神様の意志を求め、祈って心を休めていただきたいと思います。 もう一つの教えは、慈悲の心についてです。イエス様は私達に、見捨てられた人を見るために目を開け、そして苦しんでいる人達の悲しげな叫びを聞くために耳を傾けるように教えられました。私達は忙しい事を理由に自分のことを中心に考えがちですが、救いの手を求めている人が沢山います。今日、多くの人が困っています。自分のできる範囲で構いません、愛を持って分かち合い、支え合いながら一日一日を過ごしましょう。勇気を持って救いの手を差し伸べてみてはいかがでしょうか。 どうぞ祈りを通して、心の休息をとり、慈悲の心で、愛のある日々を過ごしていただきたいと思います。今週もお元気にお過ごしください。 主の平和

困難は学びのチャンス

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  困難は学びのチャンス マルコ 6.7-13 皆さん、今日の福音書は伝道者としての生き方についてです。イエス様は 12 人の弟子を 2 人ずつ一組にして伝道の旅に送り出しました。食べ物、お金、下着も持たず、杖だけを持つことを許されました。六組に分かれた弟子達は、困難の連続の中で、共に励まし合い、支え合って伝道の旅を続けたのだと思います。 今日の福音を読みながら、私はオーストラリアでの自分の置かれている状況を考えてみました。宣教者や学生、そして司祭として生きていくことが難しいと感じることがあります。ある日、 私は一人の先輩にアドバイスを求めました。その時、彼は言いました。「皆人生に一度や二度本当に苦しい時がある。でも必ず他の道があるはずで、全てが終わったわけではありません。今この苦しみこそ、成長のチャンスです。学びのチャンスです。」この彼の言葉を聞いて、私は皆さんに福音を通して、同じアドバイスをしてきたことを思い出しました。そして、私は初めて心の底から、苦しみや悲しみは神様からの恵みであると理解しました。幸せであることだけが神様の恵みでは無いという事を実感しました。 私達の人生も、弟子達の伝道の旅のようなものです。一人一人、異なる困難の中で、それぞれの義務と責任を持って生きていかなければなりません。時には 1 人で苦しみや悲しみの中で悩むこともあります。そのような時は、勇気を持って救いの手を求めましょう。支え合い、助け合うことで、そこには愛や希望が見出されるのではないでしょうか。私達は一人で生きているわけではありません。あなたを心配してくれる家族がいます。友もいます。そして、いつも神様は愛と希望の光で、導いてくださいます。 迫害の中で、神様を信じ命をかけて信仰を守り抜いてくださった 12 人の弟子達の勇気と信仰の深さを思うと、私も同じ様な志を持って生きていきたいと改めて思います。 私達の人生の旅は、神様から与えられ、神様によって終わります。困難な時こそ、小さな努力を重ねながら、神様を信じ、全てを委ねる勇気を持って、信仰の中に生きていきましょう。 主の平和

困難はチャンスの時-DIFFICULTIES ARE PRECIOUS OPPORTUNITIES

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  困難はチャンスの時 マルコ 4.35-40 私は人生は海を航行する船のようなものだと思います。時々スムーズに航海する時もあれば、ひどい波にあって沈みそうになる時もあります。皆さんはどう思いますか。 興味深いことに、今日の福音書は、湖の真ん中で弟子達がイエス様と一緒に航海した時の体験について語っています。嵐の中で弟子達は「先生、私達がおぼれても構わないのですか」とイエス様に叫びました。イエス様は風を叱り、湖に向かって「黙れ。静まれ」と言われました。すると、風はやみ、すっかりなぎになったのでした。 今日の福音を振り返る時、私は南山大学で日本語を学んでいたことを思い出しました。例えば思っている事を日本語でうまく話せなかったり、漢字を読めなかったり、インドネシアの料理が懐かしくなったり多くの困難に直面しましたが、神様の祝福と皆さんの祈りのおかげで、その困難を乗り越えることが出来ました。その経験があるからこそ、今モナッシュ大学で何とか勉強について行くことが出来るのだと思います。困難は私に忍耐することの大切さそして神様の救いの業を教えてくれました。 困難や痛み、危険の脅威を経験した時私達は動揺し、落ち着きがなく、不安になります。それは当然の感覚です。ですから、嵐に直面した時の弟子達のイエス様への叫びは、私達が生活の中で困難な状況に直面した時の私達の叫びと同じです。私達は何事もなく普通に生きている時、それが当たり前と思って、神様に感謝することを忘れがちになります。どうして神様は助けてくれないのか ? と不平不満を訴え始めたりします。私達は時々とても身勝手になることがあります。 しかし、私達がどのような状況にあっても神様はいつも私達と共におられます。そして、希望の光を私達に常に注いでくださいます。私達が困難を乗り越えた時、「あーあの時も神様は私を守ってくださった。神様は私を支えて、導いてくださった。」と思える時が必ず来ます。皆さん、静かな祈りの中でイエス様の御言葉を聞きましょう。「安心しなさい。私だ。恐れることはない。」 主の平和   DIFFICULTIES ARE PRECIOUS OPPORTUNITIES My dear brothers and sisters in Christ, life is like a ship sai

信仰という種を育てる- SOW THE SEEDS OF FAITH AND LOVE

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信仰という種を育てる マルコ 4.26-34 皆さん、お元気ですか。メルボルンは寒くなってきましたが、私は元気に過ごしています。 今日は神の国についてお話をしたいと思います。イエス様は神の国は地にまかれた種のようなものだと話されました。「人が土に種を蒔いて、知らぬ間に種は目を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は分からない。土はひとりでに実を結ばせる」と仰いました。 このからし種の成長のように、神の国というものは、神様の力によって芽を出し、成長して、実を結ぶのです。種を蒔いた人の力で実を結んだわけではないのです。神様の超越した力が為す技です。神様のこの無限大の力は私達の生活の中に、確実に存在して働いています。そしてその働きは未来へと続いていきます。私達の人生は、神様の働きと切り離されることはありません。 私は今日の福音を通して、今まで経験してきたことは神様が私に与えてくださった特別な祝福であると気づきました。共同体での生活から学校での活動まで、毎日の生活を当たり前のように過ごしてきましたが、こうして健康に、不自由なく、勉強に励むことが出来ること全てが神様からの贈り物です。神様の祝福は喜びだけではありません。苦しみや痛みも、その全てが祝福であると、私は心の底から気付いたように思います。神様が私に蒔いてくださった種をこれからも大事に育てていきます。本当に神様に感謝いたします。 私達の人生は神の国の種を蒔くようなものです。救いを求める人に手を差し伸べる、分かち合いの会話を持つ、慰めの言葉をかけるなど、その全てが種まきなのだと思います。皆さん、ぜひご自分の生活の中に、神様の存在を感じてください。苦しみや悲しみを全て受けとめ、常に平和と愛で満たされた生活を目指していきましょう。 それでは皆さん、今週もお元気にお過ごしください。 主の平和   SOW THE SEEDS OF FAITH AND LOVE Hello everyone, how are you? I hope you are doing well. I'm doing well too even though it's getting colder in Melbourne. Today's gospel is about the K

イエス様の御心は無限大-THE INFINITE HEART AND LOVE OF JESUS

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  イエス様の御心 は無限大 皆さん、お元気ですか。皆さんの応援と祈りのおかげで、私は元気に過ごしています。一日があっという間に終わり驚いています。 さて、今日は、イエス様の御心の祝日です。イエスの御心は、人間に対する神様の愛の象徴です。 聖書では、ゴルゴダの丘で、兵士の一人が槍でイエス様の脇腹を刺した時、溢れるように水と血が流れ出たと伝えられています。私はイエス様から流れ出た血は、死の血であると同時に、命の血でもあったのではないかと思います。 命の血とは、罪を犯して死んだ人々に、再び命を与えるために、イエス様が流した血のことです。キリストの血のおかげで、罪のために死んだ人間は贖われ、生き返ることができるのです。それこそがイエス様が導いてくださる永遠の命と愛です。 今日の祭日を振り返る時、 2017 年 6 月の助祭叙階式のことを思い出しました。あの時、私はレダレロでの助祭叙階式に父と母を呼びませんでした。アタンブアから遠いという理由もありましたが私は自分が生まれて育ったアタンブアで行われる 2017 年 10 月の私の司祭叙階式に出て欲しいと心から思ったからです。私は一人で助祭叙階式に出ました。少し寂しい気がしましたが、父と母が心の中で誰よりも喜んで祝ってくれていることを感じることができました。父と母はいつも私の為に祈り、私の決断を支えてくれました。私はいつも両親の愛を感じて生きていることも神様の恵みだと思います。 イエス様の御心はとても誠実で、純粋です。いつも私達の罪を赦し、愛してくださいます。 イエス様の御心、愛は海のように広く深く、私達の理解の限界を超えた愛です。イエス様はこの無限の愛の有り難さを、両親の愛を通して私に教えてくれました。皆さんは、イエス様の無限の愛を感じて生きていますか。イエス様からの御恵みをしっかり受けとめていますか。どうぞ、イエス様の愛を、改めて感じとっていただきたいと思います。 それでは皆さん、今週もお元気でお過ごしください。 主の平和   THE INFINITE HEART AND LOVE OF JESUS   Dear brother, how are you? Thank you for your support and prayers, I am doing well. I was sur

祈りと共に神様に繋がる-RELATING TO GOD THROUGH PRAYER

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  祈りと共に神様に繋がる マルコ 14.12-16,22-26 南半球にあるオーストラリアはずいぶん寒くなってきました。皆さんは夏に向かっていると思うと不思議なものです。今日、私達はキリストの聖体の祝日を祝います。今日の福音は、最後の晩餐について語っています。イエス様が弟子達と共にした晩餐は、特別な食事でした。 「これは私の体である」という言葉と「これは多くの人のために流される私の血、契約の血である」というイエス様の言葉は、弟子たちに向けたイエス様の究極の愛の表現です 。それは、人類のためにイエス様がご自分を完全に捧げたことを意味しています。 イエス様は「友人のために命を捨てることをいとわない愛に、勝る愛はない」と言ったことを実現したかったのだと思います。 イエス様は、ご自分の体と血を私たちに与えることによって、私達が「飢える」ことがないように望まれました。そして、 イエス様は私達が強く、熱意を持って祈りと共に生き続けることを望んでおられます。イエス様のご聖体に授かることによって、私達はイエス様の愛を感じながら、イエス様と一つになります。 今日の祝日は、 2017 年、私の司祭叙階を思い出させました。叙階後、私はいつもミサを捧げ、日本にいる人々を含む全ての人のために祈り続けています。ミサや祈りは私が肉体的、そして精神的に成長する為にも役立っています。特に、日常生活の中で、他の人と愛を分かち合う事は、霊的な成長を促します。私は教会でミサに参加する時にも、同じ決意を持って参加しています。 イエス様は最後の晩餐をどのようなお気持ちで過ごされ、弟子達に御言葉を与えられたのでしょうか。どうぞイエス様の私達に対する祈りと永遠の愛を今日の福音を通して感じていただきたいと思います。神様の愛と救いの中で、私達の信仰は強められていきます。どうぞ祈りの内に、今週もお元気にお過ごしください。 主の平和   RELATING TO GOD THROUGH PRAYER Dear brothers and sisters. Australia, located in the southern hemisphere, is experiencing quite cold temperatures. It's strange to think th

三位一体の主日-ABOUT THE MOST HOLY TRINITY

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  三位一体の主日 マタイ 28.16-20 皆さん、お元気ですか。私は皆さんの祈りと支援のおかげで元気に過ごしています。今日私達は三位一体の主日を迎えました。父は王座に座した姿、子は父の右の座に座した姿、聖霊はハトの姿などに表されます。この父と子と聖霊-三位一体の神様の共同作業を行って私達の真の幸せの為に計らってくださいます。 父なる神様、子なるイエス様、そして聖霊が、いつも私達と共にいて、関わり、支えて導いてくださることによって私達は無限の愛の絆で神様と結ばれるのです。イエス様はどんなに辛い時にも一緒にいてくれる、どんなに悲しい時にも希望の光を与えてくださいます。 ところで、 1 週間があっという間に過ぎたように感じます。私は宿題がたくさんあるので、やってもやっても終わりません。ですが朝のミサと一日の終わりの祈りの時は、いつものように三位一体の父と子と聖霊の御恵みによる愛を感じます。この祈りの時間は私にとって何よりも大切な時間であり、心の支えです。この御恵みによって、私は修道院と学校の生活を続けていけるのだと思います。どんなに忙しくても、いつも神様の愛が心の中に感じるからです。どうぞ皆さんも神様から守られて生きているという事をいつも感じて頂きたいと思います。辛い時こそ神様の愛を感じてください。心のそこから勇気が湧いてきます。 メルボルンは寒くなって来ました。日本はこれから梅雨になりますが、皆さんお元気でお過ごしください。 主の平和   ABOUT THE MOST HOLY TRINITY Hi everyone, how are you? I wish you all the best in life. May success find you. I am also doing well because of your prayers and support. Today we celebrate the mystery of the Holy Trinity. The Father is depicted sitting on a throne, the Son is depicted sitting at the right hand of the Father, and the Holy Spirit is depic

聖霊降臨-ON PENTECOST

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  「聖霊降臨」 ヨハネ 15.26-27;16:12-15 皆さん、日本はいよいよ暖かくなってきたと思います。お元気ですか?メルボルンは冬に向かって、寒くなっていますが、皆さんのお祈りのおかげで私は元気です。先週の日曜日、インドネシア人の家族が日本料理を作ってくれて、私と友人 3 人を招待してくれました。 その家族は、とんかつや味噌汁、抹茶味のお餅を作ってくれました。とても美味しくて、吉祥寺のとんかつ屋さんで食べているような気分になってとても幸せでした。 さて、今日は、約束の聖霊が弟子達の上に降ったことを記念する聖霊降臨日で、昔から「教会の誕生日」と言われてきた祝日です。イエス様 は天に帰られる前、弟子達に、「聖霊が与えられるまで、エルサレムで待ちなさい」と仰いました。弟子達はイエス様の言葉に従い、共に集まり、祈って、待ちました。イエス様はいつ聖霊が与えられるのか全くおっしゃらなかったので、弟子達はとても不安だったと思います。しかし、その 10 日後、五旬祭の日に 弟子たちの物語が大きく動きます。 一同が集まっていた時、突然、激しい風のような音が天から聞こえ、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、弟子達一人一人の上にとどまりました。それが「聖霊降臨」です。 弟子達は、この神秘に満ちた聖霊の働きを受けて、イエス様のことについて、公に語り始めました。そして異なる様々な国から来た者達へ、イエス様の御言葉、福音を述べ伝えたのでした。 この福音から私は 2018 年 7 月に来日した時のことを思い出しました。私はその時、日本語はまったく話せませんでした。挨拶すらできませんでした。しかし、聖霊の働きがいつも私と共にあったことは確かで、日本語を学んでから約 3 年間、吉祥寺教会で元気に働くことができました。人にはそれぞれ与えられた仕事があると思います。時々難しそうな仕事であったり、簡単そうな仕事もあります。どのような仕事でも、聖霊の導きがあり、私達の日々の生活に活力を与えてくれます。私は今でも聖霊に導かれてメルボルンで学業に励んでいます。楽しいこともあり苦しいこともたくさんあります。ブログのタイトルのように紙ひこうきの様ですが、全てに感謝して飛び続けようと思います。 皆さん今週も元気でお過ごしください 主の平和   ON PENTECOST

辛い時こそ主と共に生きる-GOD'S LOVE IS ALWAYS WITH US EVEN IN DIFFICULT TIME

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  「 辛い時こそ主と共に生きる 」 ヨハネ  17.11b-19 皆さん、お元気ですか。私は、皆さんの祈りとサポートのおかげで、メルボルンで元気に過ごしています。月曜日から金曜日まで大学のキャンパスで過ごし、週末は司祭や神学生達と共に過ごします。毎日楽しく生活できるのも神様の私に対する大きな恵みと愛によるものです。 さて、今日私達は主のご昇天を祝います。使徒言行録によると、復活したイエス様は 40 日間弟子達に姿を現した後、天に召し上げられました。そのようなことから、主の昇天の祭日は復活祭後 40 日目の復活節第 6 木曜日に祝われることになりました。ただし、日本のようにキリスト教国でない国では日曜日 ( 復活節第 7 主日 ) に移して祝われています。 イエス様はご昇天に先立って弟子達に聖霊が降ることについて語られました。そして教会に聖霊降臨が告げられ、聖霊の働きによって弟子達は力を受け、イエス様の証人となり、福音を全ての人に宣べ伝える使命を与えらました。 イエス様は弟子達に言われました。「全世界に行き、全ての人を私の弟子にしなさい。私は世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる。」イエス様の創られた教会、日本やオーストラリアにも、イエス様はいつも私達と共にいてくださいます。 私も今聖霊の働きによってメルボルンで学生そして司祭として生活をしています。やっと日本語を覚えたと思っていたのですが、今度は英語で勉強をするのは、簡単ではありません。これから英語だけではなく本格的な勉強が始まります。私は勉強に集中したいと思います。私は神学院では司祭や宣教者として規則に従い、できる限り活動に参加したいと思っています。この二つの生活を両立させるのは大変難しいと感じていますが、やってみます。色々な困難や辛い経験の全ては神様が私に与えてくださったミッションです。そのミッションを成し遂げるために色々な困難を乗り越えなければなりません。辛い経験は自分が成長するチャンスです。神様が与えてくださったこのチャンスを生かして、先ずは大学での学びに集中したいと思います。 私を日本からメルボルンへ送ってくださった日本管区長や先輩司祭のご期待に添えるよう、一生懸命勉強します。そしてこれからも、共同体の一員としてできる限り共に過ごし、信仰を更に強めていきたいと思います。まだま

互いに愛し合おう-LET US LOVE EACH OTHER

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  互いに愛し合おう ヨハネ 15.9-17 私はメルボルンでさわやかな朝を迎えています。皆さんはお元気ですか。私達は5月最初の主日を迎えています。 今日の福音の中でイエス様は「私があなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」と教えておられます。つまり、神様に繋がるとは神様の愛に留まり、その愛で他者を思いやり愛し合うことです。私達は残念ながら罪人であり、自己主義で愛に満たされない人間です。しかし、神様はいつもご自分の方から「私もあなたがたに繋がっている」と仰ってくださいます。神様が私達に繋がってくださるからこそ、私達は全ての罪を許していただき、反省する機会を与えられるのです。神様の愛に留まるからこそ、他者を赦し愛し合うことが出来るのです。そしてそれはイエス様が私達に求めておられることです。 広島平和記念資料館の館長であった畑口實さんという方がいます。彼はお父さんを原爆で亡くし、自分の館長室にお父さんの形見の懐中時計を展示していました。お母さんが被爆した時、畑口さんはお母さんの胎内にいました。お母さんは原爆の後遺症のためにお亡くなりになりましたが畑口さんは自分がいつ発病するか分からないと不安そうに言っていました。そんな館長さんが一番感謝しているのは、被爆したお母さんが自分を産み、育ててくれたことだそうです。私はこの話を知ってとても感動した事を今でも覚えています。 今日の福音と畑口さんの物語から、私は戦争で逃亡を余儀なくされる人々について考えました。私が 10 歳の頃、西ティモールのアタンブアには東ティモールからの難民がたくさん逃げてきました。彼らは戦争によって家を失い、食べ物もなく、テントで暮らしていました。彼らのために援助はあっても、とても少なく彼らは大変苦しんでいました。突然、全てを失うことはどんな理由があっても正当化できません。愛と平和の中で生きることは人間として最低限に認められるべきだと思います。今も世界中で自国を離れ幸せを求めて彷徨う人々が沢山います。どうぞ彼らの為に祈ってください。 世の中には、限りない愛情が色々な世界の中で息づいています。勇気を持って困っている人に手を差し伸べてください。私達もまた、日々の生活の中で互いに愛を分かち合うことができますように。そして隣人愛がいつか難民を救う愛情となりますように、心