「金持ちとラザロ」

 


「金持ちとラザロ」

ルカ16.19-31

皆さん、今日の福音書は「金持ちとラザロの物語」についてです。「人が死んだらどうなるか」は、多くの人々の関心事です。しかし、誰にも分りません。今日の物語は、死後の世界を描く貴重な個所です。イエス様が例え話をなさる中で、登場人物に名前を付けているのは、実はここだけです。何か特別なメッセージが示されているように思われます。

ラザロとは「エリアザル」の短縮形、「神様の助けを必要とする人」という意味です。ラザロは何も無いがゆえに神様を頼りにして、そのラザロの願いに神様は答えられ、彼を「助けられました」。ところが、金持ちは富を頼りにして、その結果、神様の救いから洩れてしまいました。もし金持ちが生前のラザロを気に掛け、食卓に招いていたならば、彼もラザロの内に神様がおられることを知り、何かを為すことができたかもしれません。

この物語は私達に因果応報を教えたものではありません。「今は貧しい人も来世では豊かになるから、現世の苦しみを耐えなさい」と言っているのでもありません。また、「金持ちは金持ちゆえに地獄で苦しむ」ということでもありません。問題はこの金持ちは富を自分のためだけに用いたことです。神様から与えられた富を自分のためだけに使ったこと、イエス様は、これらの行為は良いことではなく、 責任を問われることだと言われたのです。ここでの金持ちの罪とは「何かをした」ことではなく、「何もしなかった」ことです。

今日の福音を読みながら、私は6年前に 論文を書いていた時の事を思い出しました。その時、一人の先輩司祭と私はインドネシアのフローレス島のマウメレでエイズ(HIV/AIDS)患者と1年間ほど毎週の土曜日を一緒に過ごしました。彼らは、通常の生活から排除されて、大きな精神的苦痛と共に生きていました。ある人は、彼らを生きる死体と言いました。肉体的には生きているが、社会的には死んでいると考えられていたからです。エイズ患者達は私達と同じ人間ではない、と思われていました。彼らはまさしく、今日の福音のラザロそのものでした。

ある時、その先輩が私に「アンディ、あと一年であなたは司祭になります。『良い司祭とは、信者が直面している問題をよく聞くことができなければならない。人を愛するとは相手に関心を持つこと、相手が困っていればそれを自分の問題として考えることです。自分の心を開き、自分の時間を割く』ことです」と言われました。残念ながら、その先輩は2ヶ月前に亡くなりましたが、彼のメッセージは今でも私の心の中で生き続けています。

今日の福音を通して、私達は思いやりの心を持って、助けを求める人の声を聞いて寄り添わなければならないことを教えられました。私達はいつも誰かに支えられ、助けられています。困った人を助けるのは人として、当然の事です。私達は「為すべきことを為しうる限りに」行えばよいのです。

皆さん、私達もお金を持つ、持たないにかかわらず、ラザロです。私達はミサを通して、神様の声を聴きたい、神様とつながりたいです。神様の恵みによって今生きている喜びを感じたいのです。私達は皆「神様の助けを必要とする人」ラザロなのだと思います。

「永遠の命」は、自分に都合のいい相手に対する良い行ないの報いとして与えられるのではありません。誰に対しても分け隔てのない愛情を注ぐからこそ、そして、悔い改め、立ち返り ながら生きた結果として、イエス様からの恵みとして与えられます。今日のこのミサを通して、私達は心を清め、「新しい命」を頂くという恵みをしっかりと受け取ることができるように、清らかな心でイエス様をお迎えしましょう。

ところで、皆さんの前にある大きな十字架をご覧ください。 皆さんにとって、十字架とは何を意味しますか?私達は 十字架について様々な見方をします。でも一つだけ、共通するものがあります。それは愛です。この大きな十字架は愛です。 イエス様は私達を深く愛してくださり、私達のためにお亡くなりになりました。今日の福音とこの大きな十字架を通して、イエス様の愛の教えを実行し、一日一日を大切に生きていただきたいと思います。皆さん、ご一緒に祈りましょう。

主の平和

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