絶えることなく祈る 

 


絶えることなく祈る 

(ルカ18.18)

皆さん、今日の福音は、「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」という教えです。「やもめと裁判官」の例えが取り上げられていますが、旧約聖書の中では、やもめは自分を守ってくれる人がいない社会的弱者の代表でした。彼女は彼女を困らせる相手を裁いてもらうために、裁判官のもとにひんぱんに通っていました。誰かが彼女から亡き夫の財産を不正に奪おうとする、というような状況があったのかもしれません。彼女が求めた「裁き」には「悪を断罪する」という面だけでなく「善悪をはっきりさせ、弱い人を守る」という意味があります。彼女は正しさを求めるために訴えなくては生きていけないという現実があったのではないかと想像します。

福音書の中で、この裁判官は、「神を畏れず人を人とも思わず」として描かれています。強い者にこびへつらい、弱いものを踏みつけるような態度を取っていたのでしょう。やもめの正当な訴えもなかなか取り合ってもらえませんでした。しかし、彼女はそのような現実の中で絶えず求め続けたのです。その結果、裁判官は彼女のために裁判をしました。ここでイエス様は、祈りについて、やもめが自分の権利を弁護するよう裁判官に絶え間なく祈り、要求することの大切さを、お示しくださいました。

今日のイエス様の例え話を読み、私は詩編22編を思い出しました。この詩編の冒頭にある言葉「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。」この言葉は、イエス様が十字架の上で、言われた言葉として有名です。まさに死が迫っている時にも、イエス様は終末を感じながら、祈られました。イエス様御自身が、気を落とさずに絶えず祈ることがどういうことなのかということを、弟子達、そして私達にお示しになったのだと思います。

日々の生活の中で、私達は何か本当に困ったことが起きる度に必ず祈ります。例えば、時々「私は祈った。一週間祈った。二週間祈った。一ヶ月祈った。三ヶ月祈った。半年祈った。一年祈った。しかし事態は少しも変わらない。事態が良くならないばかりか、ますます悪くなり、深刻化していきます。神様は私の祈りなんか聞いてくれていないのではないか。そもそも神様に私の祈りは届いていないのではないか。」更には、「神様などいないのではないか。」そんな思いが心に湧き上がり、私達の心を支配することがあるかもしれません。それこそが「信仰の危機」というものです。この様な信仰に対する考え方は、とても悲しいものです。

先週も真の信仰についてお話ししましたが、「信仰」とは「苦難の中にあって絶えず祈り続ける姿勢」のことではないでしょうか。このやもめのように、苦しみの中にあって、神様以外に頼るものがない人が、必死の思いで神様に向かう姿勢そのものが、私達の追い求める「信仰」であると思います。

残念ながら、私達人間はとても弱い人間です。信仰に対して疑問を持つこともあるでしょう。そんな時こそ、私達の神様は誰一人切り捨てず、全ての人を救うために、寄り添っていてくださると言う事を、皆さんに思い出していただきたいと思います。

私達の神様は誰一人切り捨てず、全ての人を救うために、もっとも貧しく弱い者を選ばれます。神様の救いを待ちながら、絶えず祈りましょう。

神様は私達の希望の源です。神様の救いを待ち望み、神様の栄光が現れる日を信じ、祈り続ける人は幸いです。神様は、最高の助け、最上の解決を備えておられる方です。神様を信頼して祈り続けましょう。

ところで、ようやくコロナ感染も収まりつつありますが、まだ戦争、自然災害、飢餓など平和とは言えない状況が続いています。世の中の動きに振り回されることなく、イエス様の再臨による神様の国の完成を信じて、目の前の現実に失望せずに、絶えず祈りましょう。


 カトリック荻窪教会

2022年10月16日


主の平和

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