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Showing posts from November, 2022

「目を覚ましていなさい」「用意していなさい」

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  「目を覚ましていなさい」「用意していなさい」 マタイ 24.37-44 皆さん、今日私達は待降節第一主日を迎えます。言葉どおり、主の降誕を待つ節目の期間となります。 「人の子の現れの日」 であるイエス様の再臨の時をじっと待つことの大切さを学ぶ期間です。 今日の福音書では、イエス様は「目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰ってこられるのか、あなた方は分からないからである。あなた方も用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」と弟子達に仰いました。 皆さん、ここで言う 「目を覚ましていなさい」「用意していなさい」 とはどういうことでしょうか。私は今日の朗読の箇所にその答えが説明されているように思います。 第一朗読では、預言者イザヤは「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」と言われました。第二朗読では、パウロはローマの信徒に「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を見につけましょう」と述ています。まさしく、「主の光の中を歩む」「光の子として歩む」「光の武具を身につける」等の教えは 私達の信仰の要 であり、神の再来を待つための準備についての教えです 。 私達はイエス様の再来がいつかは分かりません。ですから、いつどんな時においでになっても、イエス様を迎えることができるように 準備して待つこと が必要です。つまり、私達は常に 祈りながら 待つようにと求められている のだと思います 。私達の 「待つ姿勢」 とは良い行いをしながら、イエス様の到来を待つことです。救い主がおいでになるのですから、何かが必ず変わるはずです。ここで、 「自分の中で、何かが変わる」「私達の教会で、何かが変わる」 そういう心構えで主の降誕を待つのがよいと思います。 残念ながら、私達は新型コロナウィルスの状況の中で、主の降誕を迎える準備をするのは、今年で 3 回目となりました。コロナと共に生きていく事が日常的になってきていることに、不安を感じます。 私達はこれまで、経済が発展して、暮らしが豊かになること、便利になることを最優先に生きてきました。そして、その結果、地球温暖化を生み、自然災害に苦しんでいます。戦争で、人と人が傷つけあっています。残念ながら、私達にも責任があります。私達は改めて地球に、そして人にやさしい生き方をしなければならない時が来たと思います 。 私達が何

王であるキリストから学ぶ

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  王であるキリストから学ぶ (ルカ 23.35-43 ) 皆さん、今週は年間の最後の主日、「王であるキリスト」の祭日です。私達の生活が、イエス様を王として認める生活になっていたか振り返る日です。つまり、イエス様が全てにおいて全てになる、終末における 救いの完成 ということになります。 今日の福音書は、「ユダヤ人の王」と書かれた「すて札」をつけられて処刑されるイエス様が、み国において最高の権限を持っている方であることを示しています。十字架は暗く恐ろしいイメージがありますが、私達キリスト者にとって、それはイエス様の救いの業の頂点です。無力な十字架のイエス様の中にこそ、愛によって本当の意味で暴力に打ち勝ち、暴力の連鎖を断ち切る道を見つけることができると思います。 今日、私は皆さんと分かち合いたい言葉があります。 「自分を救ってみろ」 という言葉です。イエス様が十字架の上にはりつけられた時、議員達がイエス様をあざ笑って言いました。「選ばれた者なら、自分を救うがよい」。さらに、十字架にかけられていた犯罪人の一人がののしりました。「お前はメシアではないか。メシアなら自分自身と我々を救ってみろ」。 私は、人間の耐え難い苦痛のなかに 「侮辱される苦しみ」 があると思います。イエス様は、十字架の上で、誰も救ってはくれないことを悟りました。イエス様は「自分を救わない」あるいは「救えない」とは、「暴力によって苦しむ全ての人、力のない人」と同じ体験をされたと思われたかもしれません。その結果、 イエス様は全てを受け入れ、愛を持って全てを赦し、人の王として、御自分の命を投げ出されました。 私達が今日の福音書から学ぶことは どれだけイエス様の歩みに倣って生きていくことができるか ということです。イエス様は、無私無欲で人々に仕え、真の幸せとは何かを説き続けました。ある時には言葉で人々を慰め力づけ、ある時には、その人の信仰のためになるのであれば奇跡を行い、身体の障害や病気を癒しました。イエス様のように全てを行うことは、私達にはできませんが、イエス様の愛を持って生きていくことは可能です。 今、私達は至る所で自己責任を求められています。ある意味当然であると理解できる事もありますが、本当に自己責任だけを求めている社会はとても寂しいと思います。どんな状況にあっても、困っている人に

神様の意思を継いで生きる

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  神様の意思を継いで生きる (ルカ 21 . 5 - 19 ) 皆さん、気がつくと 11 月も半ばになり、教会の典礼暦による 1 年も終わろうとしています。今日の福音書では、イエス様がエルサレムで群衆への最後の説教について語られています。この説教は、エルサレムとその民に対する別れの言葉でもありました。 イエス様は世を去る前に、将来起こるであろうことについて語りました。神殿の崩壊やエルサレム滅亡、それに伴う種々の印、例えば、迫害、戦争、暴動、民族紛争、大地震、飢饉、疫病、などです。 今日のイエス様の教えには 2 つの面があると思います。一つ目は、厳しい迫害や大きな苦難の中にあっても神様を信頼するようにという 励ましのメッセージです 。イエス様は「私の名のために、あなたがたは全ての人に憎まれる、しかし、あなた方の髪の毛の一本さえも決してなくならないでしょう。忍耐によって、あなたがたは命を勝ち取りなさい。」 「髪の毛の一本」はごくわずかなもの、ほんの小さな物の例えですが、それは私達を意味しているのかもしれません。神様の私達に対する愛が確かなもの、大きくて、また細やかであることを強調しています。 このイエス様の励ましの言葉は、私達がどんなに危害を加えられたとしても信仰を奪われることはないということを証明しているのではないでしょうか。例え私達が試練と混乱、迫害の中にあっても、命を失うことになったとしても、神様の内にあって失なわれる物は何一つないと断言されました。 私達の信仰とは慈しみ深い神様への信仰であり、その掟とは愛の主であるイエス様の「互いに愛し合いなさい。」という掟です。ですから、耐えて、ひたすら神様を信頼して終わりの日を待ち望みましょう。 もう 1 つは、 警告のメッセージという面です 。聖書の終末論は、目に見える全てのものは「過ぎ去るもの」「滅びゆくもの」であること、何が本当に永遠のものであるかを私達に気づかせてくれます。 今日の福音書を黙想しながら、私は今、世の中で起きていることを考えてみました。この新型コロナウイルス感染のさなかで、世界の多くの人々は戦争や紛争に巻き込まれて、多くの人々の命が脅かされています。自然災害はもっと激しくなり、地球の環境はますます悪化し、良くなるようには見えません。多くの人々が真の平和と正義を望んで

死者の復活について

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  死者の復活について (ルカ 20.27 - 38 ) 皆さん、今日の福音書は死者の復活、そして復活を信じた人間の生き方についてです。イエス様の時代、人が亡くなった後、復活するかどうか、意見が分かれていました。例えば、サドカイ派の人々は復活を否定していましたが、人は死んで復活するのではないか、と考えている人もかなりいたようです。 当時、サドカイ派は経済的にも社会的にも満ち足りていた人々の集まりでした。彼らにとって神様との関係は、神殿の祭儀の中で正しいいけにえを捧げているだけで十分で、死を越えて神様に期待するものなど何もなかったのかもしれません。ですから、今日の福音書の中でサドカイ派は 「復活」 という考えの矛盾を指摘して復活を否定しようとしたのだと思います。 それに対してイエス様は、 終末に人々がどうなるか、復活した神の子達は新しい存在であり、この世のあり方とは全く違うのだ と仰いました。さらに、イエス様は、 私達の神様は死んだ者の神様ではなく、生きている者の神様なのだ、 ということを教えられました。 生きている者の神様とは、生きている人間の支えとなり、希望となり、力となる神様だ とも言えるでしょう。私達全ての人は、神様と共に生きています。 今日の福音書を読みながら、私は五年前のことを思い出しました。ちょうど司祭になった時、地元の教会で 学校の教員として経験豊かな方 の葬儀をすることになりました。その時、どうやって遺族の悲しみを慰め、希望を持ってもらうか、大変悩みました。親しい人の一生がこの世だけで終わるということは、なかなか受け入れることはできないものです。 この難問について、イエス様は問いかけています。「 この世において、今の苦しみと絶望的な未来しかないと感じられる時、それでもなお神様を信頼し、人を愛し、希望を持って生きることができるかどうか 」そして、次のようにお答えになりました。「 復活の命とはこの世の命の延長線上にあるものではなく、全く違うレベルの命なのだ。 」 復活とは 100 パーセント、「神様によって生きる」 ことなのです。 残念ながらこの世では、全くもって不条理なことがたくさんあります。幼くして死んでいく命や、事件や事故、戦争や権力者の犠牲になる弱い立場の人々がいます。例えば数日前、韓国のソウルで、ハロウィーンを楽しもうと