「自分の持ち物を一切捨てないならば、 あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」

 


「自分の持ち物を一切捨てないならば、

あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」(ルカ14.25-33

皆さん、今日の福音の中で、イエス様は「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人として私の弟子ではありえない」と仰っしゃいました。イエス様は弟子達に弟子たる者の心構えと幸せについて示されました。イエス様が私達に「弟子」として求める覚悟について考えてみたいと思います。

私は以前、聖アントニオの生き方について読んだことがあります。聖アントニオはある時、「全てを捨てて私に従え」というイエス様の御言葉に導かれて、文字通り全てを捨てて砂漠へ行きました。すると彼のもとには彼の聖徳を慕って、多くの人々が訪ねてきました。ある時は、重大な問題を耳にし解決するために、彼はわざわざ砂漠から出向いて問題を解決したこともありました。聖アントニオは、人々に仕えることによって、逆に世に身をさらしていたとも言えます。彼にとっての「出家」とは「身を世に捨てる」ことだったのだと思います。

私達はカトリック信者として、洗礼によってすでに「世を出る」恵みを受けています。「世を出る」とは、聖アントニオのように世から距離を置きながら、逆にキリスト者として身を世にさらす生き方です。つまり私達は「出家者」、「世にあって世を出た」人と言えます。「世を出る」生き方は司祭や修道者などの特別な生き方ではありません。もちろん、厳しさも苦しみもあります。人から誤解されたり、拒絶されたりすることもあるでしょう。しかし、自分の選んだ生き方ならば、私達は、どんな人にも、どんな事にも振り回されることがないはずです。皆さん、物事に執着したり、縛られたりするのではなく、全てを神様に委ねて生きてはみてはいかがでしょうか。

マザー・テレサの『日々の言葉』という本の中に次のような言葉があります。「よく電線を見ますよね。細かったり太かったり、新しいのや古いの、安いのや高そうなの。でも、電流が流れていない限り、電線は役に立たず、明かりはともらないのです。電線はあなたや私、そして電流は神様です。私達は、私達の中に電流を流すことも、それを拒んで、暗闇が広がるのを許すことも出来るのです」。私はこの言葉を読むたびに、これからのキリスト者としての信仰のあり方、そして信仰の無限の力を感じます。

ところで、今月は「全ての命を守るための月間」です。2019年に日本を訪れたフランシスコ教皇様は神様によって作られた全ての命を手助けするために、長崎や広島を訪れ核兵器の廃絶を訴えました。教皇様は核兵器がもたらす「恐怖」について語り、核兵器は世界平和にとって「解決策」ではないと述べました。この教皇様の訴えはとても大切で、強く心がけていただきたいと思います。

今日の福音書や聖アントニオの生き方、マザーテレサの言葉、教皇フランシスコの訴えを通して、私達のイエス様の弟子としての覚悟を見つめ直しましょう。 

 

 

呟き

 私達一人一人が置かれた個々の状況の中で、神様に従うとよく言いますが、実行することは簡単ではありません。だからこそ、私達は「まず腰を据えて」聖書を読み、祈りの中で神様の導きを求め続けるのです。

 

カトリック荻窪教会、202294

 

アンディ

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