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Showing posts from September, 2022

「金持ちとラザロ」

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  「金持ちとラザロ」 ルカ16.19-31 皆さん、今日の福音書は「金持ちとラザロの物語」についてです。「人が死んだらどうなるか」は、多くの人々の関心事です。しかし、誰にも分りません。今日の物語は、死後の世界を描く貴重な個所です。イエス様が例え話をなさる中で、登場人物に名前を付けているのは、実はここだけです。何か特別なメッセージが示されているように思われます。 ラザロとは「エリアザル」の短縮形、「神様の助けを必要とする人」という意味です。ラザロは何も無いがゆえに神様を頼りにして、そのラザロの願いに神様は答えられ、彼を「助けられました」。ところが、金持ちは富を頼りにして、その結果、神様の救いから洩れてしまいました。もし金持ちが生前のラザロを気に掛け、食卓に招いていたならば、彼もラザロの内に神様がおられることを知り、何かを為すことができたかもしれません。 この物語は私達に因果応報を教えたものではありません。「今は貧しい人も来世では豊かになるから、現世の苦しみを耐えなさい」と言っているのでもありません。また、「金持ちは金持ちゆえに地獄で苦しむ」ということでもありません。問題はこの金持ちは富を自分のためだけに用いたことです。神様から与えられた富を自分のためだけに使ったこと、イエス様は、これらの行為は良いことではなく、 責任を問われることだと言われたのです。ここでの金持ちの罪とは「何かをした」ことではなく、「何もしなかった」ことです。 今日の福音を読みながら、私は6年前に 論文を書いていた時の事を思い出しました。その時、一人の先輩司祭と私はインドネシアのフローレス島のマウメレでエイズ (HIV/AIDS) 患者と 1 年間ほど毎週の土曜日を一緒に過ごしました。彼らは、通常の生活から排除されて、大きな精神的苦痛と共に生きていました。ある人は、彼らを生きる死体と言いました。肉体的には生きているが、社会的には死んでいると考えられていたからです。エイズ患者達は私達と同じ人間ではない、と思われていました。彼らはまさしく、今日の福音のラザロそのものでした。 ある時、その先輩が私に「アンディ、あと一年であなたは司祭になります。『良い司祭とは、信者が直面している問題をよく聞くことができなければならない。人を愛するとは相手に関心を持つこと、相手が困っていればそれを自分の問

富の正しい用い方

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  「富の正しい用い方」 ルカ 16.1 - 13 皆さん、今日の福音書は「不正な管理人」の例え話です。「富に対する態度」について 、お金の建設的な使い方などについて考えてみたいと思います。 この管理人のした事は決して褒められることではありません。それは不正です。まず、彼は主人の財産を自分の喜びや楽しみのために使い込んでいました。しかし、彼はそのことが発覚していよいよ首になろうという危機の中で、自分に預けられている富の用い方を変えました。主人に借りのある人の借金を減額して助けてやることで、自分を迎え入れてくれる友達を作るというずるい考えを思いついたのでした。それもまた、明らかに不正なことです。しかし、興味深いことに、管理人は残された僅かの時間と機会を有効に使って、次の人生のための備えをした賢さ、それを主人は褒めたのでした。 イエス様は管理人の行った詐欺的行為そのもの、不正そのものを褒めたり、勧めたりしているのではありません。誉められた点は「抜け目なく行ったこと」です。「抜け目なさ」とは洞察力、思慮深さ、賢さを意味しています。 管理人は知恵の限りを尽くし、必死に次々と手を打って「行動して」備えをした賢さで、ほめられたのです。 さらに、イエス様は富の在り方についても教えてくださいました。 富は、神様と隣人との交わりを築くための手段として与えられているということです。自分が喜び楽しむためだけに富を用いるなら、富は人を支配し、自分の思いを遂げるための手段となります。そういう生き方をすることによって私達は人との交わりを失い、孤独に陥いるかもしれません。放蕩息子が全財産を使い果たした時、食べ物をくれる人は誰もいなかった、という先週の福音の話がそれを表しています。 私達は神様から様々なもの「お金、財産、時間、賜物・能力、人脈、所有物、そして福音」を預けられました。私達は神様が造られた世界を正しく管理する管理者なのです。だからこそ、私達は神様から預けられた全ての物を管理しなければならないと思います。 今日の福音を読んでいると、マザー・テレサのことを思い出しました。マザー・テレサは若い頃からインドを拠点に貧しい人たちへの奉仕活動を献身的に行い、ノーベル平和賞を 受賞しました。 その時、マザー・テレサは「私はノーベル平和賞にふさわしい者ではありません。けれど世界中の貧しい人々に代わって

憐れみ深い神から学ぶ

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  「憐れみ深い神から学ぶ」 ルカ、 15.1-32 皆さん、今日の福音書の中でイエス様は、悔い改めた「徴税人と罪人達」を「迷い出た羊、見失った銀貨、放蕩息子」に例えられて、「見失ったものを見つけ出した者の喜び」という憐れむ心を教えられました。 イエス様は例え話の結論として「悔い改める一人の罪人は、悔い改める必要のない九十九人の正しい人よりも大きな喜びが天にある。」と仰って、限りない憐みの心をお示しになりました。そして、ファリサイ派や律法学者たちに対し、「徴税人や罪人が救われるのは、神にとって羊飼いが見失った羊を捜しあてたような喜びである。」と言われ、さらに身分の差無くして一緒に喜ぶことを求められました。 これらの例え話から、私達はイエス様の御心の本質を知ることが出来ます。イエス様は、「一匹の羊、一枚の銀貨、一人の息子」を見捨てず、見つかるまで捜し求められる方であり、小さな喜びでも皆一緒に喜びを分かち合われました。イエス様は罪人が滅ぶのではなく、生きることを望まれたのです。イエス様は罪によって自分から離れ、ボロボロになり、滅びかけようとしている人を、探し、待ち続け、見つけて連れ戻すことを喜びとする方なのです。 イエス様は弟子達に「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである(ルカ 5 : 32 )」と仰いました。常に弱き者、小さき者、悔い改めた者たちを勇気づけ、愛してくださる方であることを、皆さんにも感じていただきたいと思います。 私達も自分を「 99 匹の羊」や「九枚の銀貨」、「兄」と感じる部分がだれの中にもあるかもしれません。あるいは、「迷子の 1 匹」、「無くした一枚の銀貨」、「一人の息子」と感じることもあるでしょう。私達も皆、日々、様々な立場を経験しています。このコロナ禍だからこそ、更なる憐れみの心と愛を持って日々過ごしていただきたいと思います。 私達キリスト者は、神様に見つけていただき、憐れみの心を授けられ、そして導かれて、今この教会に集まっています。この神様の恵みに感謝して、共に喜びを分かち合いましょう。  今日の福音について黙想した時、私は次の詩篇の言葉を思い出しました。「主は憐れみ深く、恵みに富み忍耐強く、慈しみは大きい。永久に責めることなくとこしえに怒り続けられることはない。主は私達

「自分の持ち物を一切捨てないならば、 あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」

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  「自分の持ち物を一切捨てないならば、 あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」 (ルカ 14.25-33 ) 皆さん、今日の福音の中で、イエス様は「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人として私の弟子ではありえない」と仰っしゃいました。イエス様は弟子達に弟子たる者の心構えと幸せについて示されました。イエス様が私達に「弟子」として求める覚悟について考えてみたいと思います。 私は以前、聖アントニオの生き方について読んだことがあります。聖アントニオはある時、「全てを捨てて私に従え」というイエス様の御言葉に導かれて、文字通り全てを捨てて砂漠へ行きました。すると彼のもとには彼の聖徳を慕って、多くの人々が訪ねてきました。ある時は、重大な問題を耳にし解決するために、彼はわざわざ砂漠から出向いて問題を解決したこともありました。聖アントニオは、人々に仕えることによって、逆に世に身をさらしていたとも言えます。彼にとっての「出家」とは「身を世に捨てる」ことだったのだと思います。 私達はカトリック信者として、洗礼によってすでに「世を出る」恵みを受けています。「世を出る」とは、聖アントニオのように世から距離を置きながら、逆にキリスト者として身を世にさらす生き方です。つまり私達は「出家者」、「世にあって世を出た」人と言えます。「世を出る」生き方は司祭や修道者などの特別な生き方ではありません。もちろん、厳しさも苦しみもあります。人から誤解されたり、拒絶されたりすることもあるでしょう。しかし、自分の選んだ生き方ならば、私達は、どんな人にも、どんな事にも振り回されることがないはずです。皆さん、 物事に執着したり、縛られたりするのではなく、全てを神様に委ねて生きてはみてはいかがでしょうか。 マザー・テレサの『日々の言葉』という本の中に次のような言葉があります。「よく電線を見ますよね。細かったり太かったり、新しいのや古いの、安いのや高そうなの。でも、電流が流れていない限り、電線は役に立たず、明かりはともらないのです。電線はあなたや私、そして電流は神様です。私達は、私達の中に電流を流すことも、それを拒んで、暗闇が広がるのを許すことも出来るのです」。私はこの言葉を読むたびに、これからのキリスト者としての信仰のあり方、そして信仰の無限の力を感じます。 ところで、今月は「全ての