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Showing posts from March, 2023

神様への祈りーBELAJAR DARI SERUAN MARTA; TENTANG BERDOA KEPADA TUHAN

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  神様への祈り (ヨハネ 11.3-7,17.20-27.33b-45 ) 今日は四旬節の第5主日です。今日の福音書は洗礼志願者がイエス様との出会いを深め、信仰の決断をするのを助けるために選ばれています。キリスト者にとって祈るとはどうあるべきかを問いかけている、とても大切な物語です。 今日の福音書はラザロの復活の話についてです。このラザロの物語で私が注目したのは、マルタの訴えです。「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょう。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、私は今でも承知しています」そう言ってマルタはイエス様に不満をぶつけました。 自分の思いを率直にイエス様にぶつけていくマルタの姿勢、ここには私達の祈りのためのヒントがあるかもしれません。それは、マルタがラザロの為に祈り尽くしたうえで、イエス様に心から訴え、願いを叶えてほしいとすがる場面です。マルタの信仰の強さ、純粋な心、そして勇気を感じ取ることができます。神様は私達一人一人の想いや行動を全てご存知です。そのうえで、救いの働きに繋がるのです。このことを私達は学び、実行していかなければならないと思います。 もう一つ注目すべき点は、イエス様はラザロが重体であると知らせを受けたにもかかわらず、イエス様が実際かけつけるのは、ラザロが葬られてから四日後でした。なぜ、イエス様はこのような決断をされたのでしょうか。それは、イエス様の無関心さや冷淡さから来るものではなく、あくまでも愛から来る遅れだったのではないでしょうか。それは人間的には遅れに感じても、神様の目から見れば、ベストタイミングだったのかもしれません。神様のなさることは、全て時にかなって美しいのです。 神様は全てをご存じで、もっともふさわしい時を備えておられます。ですから神様はちゃんとマルタの努力と彼女の深い祈りを理解されたうえで、ラザロを復活させる時を待たれたのだと思います。 私達は願いがある度に神様に祈ります。ですが、自分の都合だけで、神様に祈っても、願いが叶うというわけではありません。神様には正しい時があります。私達はその正しい時を待ちながら希望を持って努力を続けて、祈りの日々を重ねていきましょう。 イエス様は心からラザロを愛しておられました。そして、イエス様は私達をラザロと

神様の光を心で見るーMELIHAT CAHAYA TUHAN DENGAN MATA BATIN

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  神様の光を心で見る (ヨハネ9 .1 、6-9,13-17、34-38) 今日は四旬節の第四主日です。 聖書朗読のテーマは「神様の光」です。第1朗読では 「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」という言葉、第二朗読では使徒パウロの「以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれ光となっています。光の子として歩みなさい」と言う言葉が示されました。 そして、今日の福音では目の見えなかった人がイエス様によって見えるようになったという奇跡の業の話を通して、目の見えている人達でも心からイエス様を信じることの出来ない人は、罪人であり、心の目を閉じているのと同じだという事を教えてくださいました。 当時の社会には「病気や障害は罪の結果である」という考えがありました。それに対し、イエス様は個々の人の罪とその人の病気や障害の関係をはっきりと否定されました。イエス様の関心は「今、神様はこの人に何をなさろうとしておられるか、自分はこの人に何をすることができるか、どう関わるべきか」というところに注目されました。それは、皆さんが本当にイエス様を信じているのかを試されているという意味でもあります。 イエス様は目が見えるようにしたという癒しの業を行いましたが、それは私達への教えではありません。私達がいかに霊的な目と耳でイエス様を救い主と感じ、そして信じることが大切であると教えてくださっていると思います。 私達は本当にイエス様の光を感じながら生きているでしょうか。私達が心からイエス様を信じ、イエス様を礼拝するようになるまでには時間がかかります。しかし、どんなに時間がかかっても、どんなプロセスを通ろうとも、今日の福音のように「主よ、信じます」と告白し、イエス様を礼拝する者になりたいと思うことこそが、洗礼をうける為の絶対条件になります。 キリスト者として、私達は洗礼を通しイエス様の光を受けて、イエス様を身近に感じ、イエス様の御言葉を生活の中で実行することができれば良いのです。霊的な目と耳を持ってイエス様の愛の中で生きて行きましょう。 教皇フランシスコは「イエス様との友情を育てる方法は、主のみ言葉に耳を傾けることです。主イエスは私達の良心の深いところで語られ、聖書をとおして、また祈りの中でも語られます。主イエスのみ前で、沈黙の内に聖書 とくに福音書を読んだり黙想したりして

イエス様の渇きに心を寄せる-MENANGGAPI RASA DAHAGA YESUS

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  イエス様の渇きに心を寄せる ヨハネ 4.5-15,19b-26,39a,40-42 皆さん今日の朗読は、古代から伝わる洗礼志願者のための福音朗読の一つで、洗礼志願者がイエス様との出会いを深め、信仰の決断をするのを助けるために選ばれた箇所です。洗礼をすでに受けておられる方も是非、洗礼を頂いた時の事を思い出しながら聞いて頂きたいと思います。 今日の第 1 朗読では、エジプト脱出後、荒れ野でイスラエルの民がどのように渇きをいやしたかが、語られました。モーセは神様に叫び、祈り、水の奇跡が行われ、人々はいやされました。水はまさに命のシンボルとなりました。 第 2 朗読の中で使徒パウロは、私達の心に与えられる聖霊について語りました。私達は主イエス・キリストによって神様との間に平和を得ています。そして信仰によって今の恵みに導かれ、神の栄光にあずかる希望が与えられます。私達は渇き求めるように神様の愛を求めるのです。それは信仰によってこそ満たされると思います。 今日の福音書ではサマリアの女性とイエス様の出会いが描写されています。旅に疲れたイエス様は水を汲みにきたサマリアの女性に、「水を飲ませてください」と ​ 仰い ​ まし ​ た。 これ ​ を ​ 聞い ​ て ​ 女 ​ は ​ 非常 ​ に驚きまし ​ た。なぜ ​ なら、イエス ​ 様は ​ ユダヤ ​ 人 ​ で、サマリア ​ 人 ​ の女に話しかけられたからです。イエス様の時代、サマリア人はユダヤ人からは当然のように差別されていました。しかし,イエス様 ​ は彼女に対して「水を飲ませてください」と言って彼女と関わり持ちました。それは「あなたも渇くし、私も渇く」という身分の垣根を超 えた連帯感を表しているように感じます。 この女性はイエス様と会話を交わす内に、自分と話している男性がメシアーキリストであると気づきます。彼女はイエス様を心から敬い、信仰への道を歩み始めます。そして町へ行き人々にイエス様の教えを広めました。私はこれこそが洗礼の恵みであり、洗礼を受けた者の福音を伝えるという使命であると思います。 イエス様は彼女と出会うために、一人の喉の渇いた旅人となってくださいました。イエス様はけっして、私達が訪ねてくるのをただ黙って待っておられるお方ではありません。疲れ果てた私達の傍らに座り

神様との出会いの実り-BUAH PERJUMPAAN DENGAN TUHAN

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  神様との出会いは実り マタイ 17.1-9 皆さん、今日は四旬節第2主日です。古代からの伝統に従い、毎年「イエス様の変容」の場面が読まれます。山の上でイエス様の姿が光り輝いた、この変容の出来事は、ただ単に「偶然ある時、イエス様の栄光の姿が現された」のではなく、「イエス様が受難と死を受けることになる栄光の姿が前もって示された」という出来事です。ここには、「イエス様の受難・死・復活にあずかる」という四旬節全体の根本的なテーマが示されています。 今日の福音ではイエス様は12人の弟子の中からペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を選び、高い山に登って祈りました。そこに、旧約聖書の預言者であるモーセとエリヤが現れました。すると、イエス様の顔が変わり、姿はこの世のものではない純白の輝きに包まれました。イエス様はモーセとエリヤとご自分の最期の時のことについて語り合いました。その中で、イエス様は御父の深い愛、託された使命を感じられたのだと思います。 三人の弟子は、イエス様たちの会話を全く理解出来なかったものの、神様の存在を目の前で感じて、畏敬の念で心がいっぱいになりました。そして、御父の「これは私の愛する子、私の心にかなう者。彼に聞け」という声が響きました。三人の弟子は御父の「彼に聞け」と言われた言葉に恐れながら耳を傾けました。 この出来事からの学びは、イエス様の声と呼びかけを聞くということです。神様と出会う者は新たに使命を与えられます。人間は新たに生まれ変わり、新しい使命と共に、自分の中の心の変化を感じることができるでしょう。それこそが変容です。神様との出会いや神様に与えられた使命を感じることこそが神様の声を聞くと言うことだと思います。 私も司祭になろうと決心した時、祈りと黙想、聖書を読むことで、神様と向き合い、神様の御意志をよく聞きました。そして、私は神様と共に体験したことの実りを 1 人でも多くの人に伝え、自分が受けた恵みを分かち合いたいと思って司祭になりました。神様に出会った弟子達も、イエス様の変容を目にして、信仰を固めて、後に来る幸せを信じ、その幸せを多くの人と分かち合いたいと思ったのではないでしょうか。 もう一つの学びは、イエス様が素直に御父が定めた苦難に満ちた運命を受け入れられたという事です。神の子でありながらも苦しむしもべの姿で、その道を歩ま