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心の貧しい人は幸いである-BERBAHAGIALAH ORANG YANG MISKIN DI HADAPAN ALLAH

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  心の貧しい人は幸いである   ( マタイ 5.1-12a) 皆さん、今日の福音書は有名な「真福八端」の言葉についてです。「真福八端」とは、イエス様の「山上の説教」の冒頭部分の、「心の貧しい人は、幸いである、天の国はその人達のものである」という言葉から始まる教えを示しています。 イエス様は弟子達や不安や苦しみを抱えた人々、病人や困難な状況にある人々に向けて言われました。「心の貧しい人は幸いである。」これは、とても不思議な言葉です。普通は「心の豊かな人々は幸い」と言いますが、イエス様は全く逆のことを言われました。 なぜ貧しいことが幸いなのでしょうか。イエス様が話された幸いは私達の考える幸せとだいぶ違います。私達はある程度の物があり、欲求が満たされている時に幸せを感じます。何も持っていなければやはり不安や心配におそわれます。ですがイエス様は、自分で心が貧しいとか、自分の弱さ、足りなさを謙虚に認めることができる人こそが、幸せなのだと言われたのだと思います。なぜならば、そうする事がイエス様と共に生きていけるからです。 私が神学生の時、 AIDS/ H IV という病気の人達に何回も会ったことがあります。 彼らは侮辱されることが多く、他人から不当に扱われながら生きています。しかし、彼らは人生のどん底で生活をしているのにもかかわらず、「この病気であっても、神様が私達に与えてくださった人生に本当に感謝します」と言っていました。このように私達が不幸であると思っている人達でも自分自身の状況を受け入れ、神様に感謝の気持ちを捧げていました。これこそが、イエス様が示された本当の幸いなのではないでしょうか。 ところで、 1 月 29 日は聖ヨゼフ・フライナーデメッツの記念日です。彼は最初の神言修道会の宣教者でした。 1879 年、彼は中国に上陸して、宣教を始めました。 彼は中国からの初めての手紙に、「中国は私の第二のふるさとになりました」と書いていますが、この言葉は彼の宣教スタイルを非常によく表しています。彼は中国で文化、習慣、言語など様々な勉強をしましたが一番大切なことは、「この国の人を愛すること」だったと言っています。そのために彼は中国の人々と同じ服を着、同じ帽子をかぶり、同じようにひげを伸ばし、同じように頭を剃り、同じものを食べ、同じような生活をしました。

私について来なさい-MARI, IKUTLAH AKU

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「私について来なさい」 マタイ 4.12-23 皆さん、今日の福音書はガリラヤでのイエス様の宣教活動開始の場面についてです。イエス様は 40 日間の荒れ野での悪魔の試みにうち勝った後、ガリラヤに帰ります。 今日の朗読によると、ガリラヤ周辺の町は「暗闇」とか「死の陰の地」と表現され、そこに住む人々もマイナスのイメージで受け止められていたようです。イエス様はあえて暗闇の地から活動を始めます。 イエス様の最初の言葉は、「悔い改めよ。天の国は近づいた」というものでした。この言葉によって、人々の間に新しい希望が広がったのではないでしょうか。荒れ果てた地で、腰をすえて宣教を始めようというイエス様の力強い思いが、そしてイエス様の澄んだまなざし、一歩一歩をしっかりと歩むその姿まで見えてきます。 イエス様は宣教にあたり、人間の協力を求められました。シモンとアンデレに「私についてきなさい。人間をとる漁師にしよう」と仰って、次にヤコブとヨハネもお呼びになりました。彼らは「すぐに従った」とあります。 彼らは、イエス様の姿、まなざしを見て、声を聴いたその瞬間、「大きな光を見、光が射し込んだ」という体験をしました。そこには弟子達の都合や思い煩いなど入る余地のないほどの、神様からの強い招きと聖霊の導きがあったのだと感じます。 イエス様があなたをご覧になって、あなたを呼ばれたらあなたはどうしますか。弟子達のように、全てを投げ打ってイエス様についていく覚悟がありますか。「イエス様に従った」という言葉は、あなたの心にどう響くでしょうか。  コロナ感染症、戦争、災害の中で生きている私達は日々の 生活の中で、共に生きてくださるイエス様と出会う恵みを願いながら、今こそ聖書を開き、御言葉に耳を傾ける静かな祈りの時を持つことが必要なのだと私は思います。 そして「私についてきなさい」というイエス様の声が聴こえたら、聖霊の助けを願いながら、すぐに従いましょう。祈っていてもイエス様と出会えない日々が続くかもしれません。ですが、長い間漁師だった弟子達がごく普通の生活の中で、大きな光を見て、イエス様の光が心の中に射し込まれるという体験は、今日、あなたにも訪れるかもしれません。 今日の福音を通して、私達は信仰を持って、自分の心を開いて、イエス様の呼びかけを聞いて、イエス様に出会いましょう。イエス様と出会うことは何より大切な

イエス様を証する-BERSAKSI TENTANG YESUS

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  「イエス様を証する」 ヨハネ 1.29 - 34 皆さん、今日の福音書のお話は、洗礼者ヨハネがイエス様について証言するお話です。洗礼者ヨハネはイエス様を見た時「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と多くの人々に伝えました。この言葉は、皆さんもご存知のように、ミサの中でも唱えている言葉です。この言葉の背景にはどのような意味があるのかご一緒に考えてみたいと思います。 洗礼者ヨハネにその時何が起こったのか、私達には分かりません。ただ、私達にも分かることが二つあります。それは、この洗礼を通して、イエス様が神様から特別な使命を与えられて世に来られたことです。そして、洗礼者ヨハネにとっても、この体験こそがイエス様こそメシア=神の子であることを確信する決定的な動機になったことです。 先ほど唱えた「栄光の賛歌」の中で「世の罪を取り除く主よ、慈しみを私達に」、そして、御聖体拝領の前に唱える「平和の賛歌」でも、「世の罪を取り除く神の子羊、慈しみを私達に」と、私達は唱和していますが、多くのイスラエル人の罪の赦しと平和を願ったように、私達も神様への賛美と感謝を捧げましょう。 今、私達が当時の奴隷のイスラエル人と同じ状況にあると想像してください。いつも自分のことが大事であり、自分を基準にして毎日を生きています。誰かが私達をけなした時、私達はその人を憎みます。誰かが私達より良い生活をしていれば、私達はそれを妬みます。私達が誰かを愛するのは自分が愛されるためであり、私達が誰かに従うのは、それによって利益を得るためです。残念ながら私達の愛は見返りを求めることが多いです。 これらの感情は罪です。常に注がれている神様の愛を忘れて、自己中心的な感情を持つことが罪なのです。この罪を取り除かない限り、救いはありません。そして、この罪を取り除くために、イエス様が来られたとヨハネはここで証をしているのです。 ここには洗礼を受けている人が多いと思いますが、洗礼は信仰の完成ではありません。水の洗礼を受けても、私達が完全になるわけではないし、罪を犯さなくなるわけでもありません。それは信仰の始まり、救いの第一歩となるだけです。 皆さん、どうぞ罪人になるような感情を持たずに、愛を持って生きてください。そしてまだ洗礼を受けてない方がここにおられましたら、ぜひ洗礼を受けてキリストに繋がる者と

神様の導きの光、CAHAYA TUNTUNAN SANG ILAHI

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  神様の導きの光 マタイ 2.1-12 皆さん、今日私達は主の公現の祭日を祝います。主の公現とは主なる神が御子イエス・キリストを諸国の民に示された、という神様の御業を表すと言う意味です。つまり、イエス様が全ての人の救い主としてお生まれになったことが広く、異邦人の世界にも知られたことを記念して祝う日と言うことになります。 イエス・キリストの降誕によって、神様が私達人類と共におられることが明らかにされましたが、それは闇の中に光がさしこむような出来事でした。その光こそが、神様をずっと待ち望んでいた人達にとって、生きるための希望となったのです。皆さんもその光を感じながら生きていただきたいと思います。 今日の福音書は「神様の光に関する」お話です。占星術の学者達は生まれたばかりのイエス様を探していました。同時にヘロデ王もイエス様を探していました。彼らにはそれぞれの目的がありました。 学者達は星の観測をしているうちに、不思議な光る星を見て救い主の誕生を知り、祝福をするために遠くから黄金、乳香、没薬などの贈り物を持ってイエス様を探しました。 ヘロデ王は救い主であるイエス様の誕生の話を聞いて、驚き、怒り、恐れを感じました。 そして、すぐに祭司長や律法学者達を集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただしました。残酷であることで有名なヘロデ王は、あらゆる手を使って、生まれたばかりのイエス様を殺害しようとしたのでした。 しかし神様は全てのことをご存じで、「ヘロデのところに帰るな」という夢のお告げをされました。そのお告げに従って、学者達は別の道を通って自分達の国へ帰って行きました。 私は、この「別の道」という言葉を霊的に説明したいと思います。学者達は神様の夢のお告げを通して、別の道を選ぶことで、もはや経済や権力の中心を目指す学者ではなく、神様によって与えられた新しい命で生きる道を歩み始めたのかもしれません。生まれたばかりのイエス様を見て、彼らの心の中に真の信仰と希望の光を見出したのではないでしょうか。 さて、学者達は東方から来たと言われていますが、さらに東にあるこの日本にもメシア = キリストの光が届きました。その結果、私達も御子キリストの光を受けて、その輝きを感じながら、キリスト者として生きています。  皆さん、神様は私達にどのよ

神の母聖マリアから学ぶ-BELAJAR DARI SANTA MARIA BUNDA ALLAH

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神の母聖マリアから学ぶ ( ルカ 2.16 - 21) 皆さん、明けましておめでとうございます。 2022 年は皆さんにとって、どういう年であったでしょうか。楽しいことや悲しいこともあったでしょう。沢山笑ったこと、辛くていっぱい涙を流したこともあったかもしれません。ある人は、新しい命の誕生の喜び、大切な人との死の別れ、ストレス、不安を抱えたことなど色々な事があったと思います。 私は年末にインドネシアの家族や友達から沢山のメッセージをもらいました。その中で、最も記憶に残っているのは、一人の友人からもらったメッセージです。それは、「未来は自分の夢を信じる者のためのものだ」というメッセージです。このメッセージによって、私は励まされ、 2023 年を気持ちよく始めることが出来るような気がしています。 もし 2022 年に願いが叶わなかった人がいたら、 2023 年は、叶うように努力しましょう。自分の夢を心から神様の手に委ねて、努力を重ねる事ができたならば、その夢を必ず実現できると私は信じています。 今日、私達は全教会と共に神の母聖マリアの祝日を祝います。今日の福音書は、イエス様の誕生の状況について語っています。 羊飼い達は、イエス様の誕生の喜びの知らせを最初に受け取りました。彼らはマリア、ヨセフ、そして幼子イエスに会いました。そこでヨセフとマリアは興味深い話を羊飼い達から聞きました。 それは主の天使が近づいて、「今日ダビデの町であなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそメシアである。飼い葉桶に布にくるまって寝ている乳飲み子を見つけなさい。」この話を聞いた後、マリア様はこれらの出来事を全て心に納めて、思い巡らしていました。 聖母マリアは、神様には人類の救いのための美しい計画があると信じたのだと思います。ぜひ、私達もこの聖母マリアから神様の計画を受け入れることを学びましょう。毎日の生活の中で、どのような状況にあっても神様の声に耳を傾け、心から受け入れてください。 私達は喜び、そして悲しみにあっても、常に神様と共にいます。常に心を整えて、神様のみ言葉に耳を傾け、神様の御意志を受け入れてください。その為にも私達はマリア様のような心を持つ事を求められています。聖母マリアのように、私達は試練の多い人生の中で 多くのことに耐えなければなりません。

クリスマス:愛と平和を人々と分かち合う時- NATAL: SAAT UNTUK BERBAGI KASIH DAN DAMAI

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  クリスマス:愛と平和を人々と分かち合う時 ヨハネ 1.1-18 皆さん、クリスマスおめでとうございます。今日の福音書は、ヨハネの福音書ですが、大変格調高い表現をもって、神様とイエス様との深い関係を表しています。特に、神の御子であるイエス様のことを「言葉」と呼び、「始めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。言葉は肉となって、私達の間に宿られた。」ですから、クリスマスとは神様が人間と出会い、共に生き始めたという、最大のイベントの始まりなのです。つまり、イエス様の誕生によって、神様は私達の間にいてくださることになりました。これこそが、クリスマスを祝う、最も大切な理由です。 毎年、私達は必ずクリスマスを祝います。私のインドネシアの地元では、 多くの人が教会に行き、クリスマスツリーを飾り、贈り物を交換し、一緒に食事をし、盛大にお祝いをします。今日私は沢山の友人にメールやラインでクリスマスの挨拶を送りました。皆さんにも、それぞれのクリスマスの過ごし方があると思いますが、今は改めてクリスマスの本当の意味を思い出していただきたいと思います。 皆さんの前に馬小屋があります。この馬小屋をご覧ください。世界の全てを創造され支配される神様は、厩の飼い葉桶に眠る小さな命として、私達と共にいてくださいます。 イエス様の誕生の物語に登場する人達は貧しい状態に置かれている庶民です。マリアとヨセフは、田舎から出てきて出産のために宿屋を借りることも出来ない無力な人でした。羊飼いたちも当時の社会では最も低い立場の人々でした。ここでのイエス様の誕生は、貧しい人達や苦しんでいる人達に喜びと希望、そして生きる勇気を与えました。貧しければ貧しいほど、イエス様は、彼らにとって特別な希望の星であったに違いありません。 私がまだ神学校にいた 2003 年頃に読んだ「マザー・テレサ日々の言葉」という本の 12 月 25 日の箇所にこんな言葉があります。「クリスマスの日、私達は、弱く、貧しく、幼い乳飲み子としてのイエス様を見ます。彼は、愛し、愛されるために来られました。私達は今日の世界で、どのようにイエス様を愛することができるのでしょうか。夫を、妻を、子供達を、兄弟や姉妹を、周りの人達を、そして貧しい人達を愛することによってできるのです。イエス様は全ての人の中におられるのです