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Showing posts from July, 2022

足ることを知る

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  「足ることを知る」 ルカ 12 . 13 - 21 皆さん、今日の福音書は「愚かな金持ちの話」についてです。ある時、群衆の一人がイエス様に「先生、私の兄弟に、遺産を分けてくれるようにおっしゃってください」と頼みました。その人は遺産相続のことで兄弟と争っていたのかもしれません。その男にイエス様は「誰が私をあなたがたの裁判や調停人に任命したのか。どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」と仰いました。 ここで、イエス様は、私達にとって財産とは何か、大切なものは何かを教えてくださいました。人が沢山の財産を持っているからといって、その人が本当に祝福されたとか、幸せな人生を送るというわけではありません。私達はどんな富を持っていても、心が満たされない時があります。それは「もっと欲しい。もっともっと欲しい。」と思う心です。富に心を奪われるとさらに富を求めて、心を病む人もいます。私達は信仰において「足ることを知る」ということを学びました。もしお金や名誉、様々な誘惑に心を乱されそうになった時には、イエス様の御言葉「足ることを知る」を思い出していただきたいと思います。 さらにイエス様は、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」と言われました。神様の前に豊かになるということは、信仰において豊かになるということです。信仰の豊かな人は、神様の恵みの中に生かされていることをよく知っている人、自分の富からも自由になることが出来る人なのだと思います。 さらに言えば自分の富を助けを求めている人達に使うことはもっと素晴らしいことだと思います。世界の中で困っている人達が沢山います。 私達も出来る事を行い、祈りの中で一人でも多くの人の幸せを願いましょう。愛は一方通行ではありません。深い心のつながりこそ、最高の富なのではないでしょうか。 残念ながら、コロナ感染者数は増加し続けています。イエス様は私達の生活の全ての恐れ、心配、苦しみをよく理解していらっしゃいます。いつでも、どこでも、イエス様の元に行き、数々の欲から解放されて、沈黙のうちに、静かに祈って神様のメッセージをしっかりと受け取りましょう 。 主の平和

日本での4年間の思い出-PADA SEBUAH KENANGAN

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  日本での 4 年間の思い出 人生は旅のようなものであり、色々な思い出を作ってくれます。 2018 年 7 月 26 日にインドネシアを出発して、 2018 年 7 月 27 日に日本に到着しました。つまり、今日で日本に来てちょうど 4 年間になります。 初めて日本の土を踏んだ時、不安と希望で胸が一杯になりました。私は当時の事を今でもはっきりと覚えています。私が日本に着くと、 3 人の先輩、 Frans Moruk 神父、 Inzen Elam 神父、そして現在ポーランドの宣教者である Rio Poa 神父が迎えに来てくれました。先輩たちの顔を見た時、安心しました。 その後、私は日本語を YWCA ( Young Woman ’ s Christian Association )で 2 週間、南山大学で 4 学期+サマープログラム)勉強しました。それに加えて、名古屋で 2 ヶ月間と北海道で 10 日間ホームステイプログラムに参加しました。 日本では全て日本語を話さなければなりませんが、私の日本語の知識はゼロで、挨拶さえできませんでした。ある朝、ザビエルハウスの庭を散歩しながらた神様に問いかけました。   「主よ、日本で私に何を望みますか?」 今、最もよく覚えているのは、 YWCA での初めての日本語の宿題です。 当時、「マンゴー 2 個+マンゴー 3 個の合計は?」という質問がありましたが、文章の意味が全く分かりませんでした。やっと答えが分かった時、今まで勉強した哲学とか神学は、簡単な日本語の質問に答えるために、全く役に立たないということに、気がつきました。 2 年間、名古屋に住んだ後、 2020 年5月 30 日、私は吉祥寺カトリック教会に派遣されました。 ちょうどコロナウイルスのパンデミックが始まった時でした。日曜日だけではなく、毎日多くの人は教会にお祈りをしに来ました。カトリック信者だけではなく、信者ではない一般の人達も教会で祈ってました。それは私の故郷では見たことのない状況です。私はその光景を見てカトリック信者ではなくても、あの人達も素晴らしい信仰を持っていると感じました。 色々な経験を経て、日本に 4 年間滞在できたことに、私は感謝します。沢山の人達との思い出も出来ました。この 4 年間に自分なりの成功も失敗もありましたが、その全ては、神様の祝福と愛と切

主の祈りについて

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「主の祈りについて」 ルカ 11 . 1 - 13 皆さん、今日の福音は「主の祈り」についてです。当時のユダヤ教のグループには、それぞれのグループの特徴を表す典型的な祈りがあったようです。弟子達は、ヨハネに教えられたという祈りの言葉を教えて欲しいとイエス様に願いました。 イエス様は、弟子達に「主の祈り」を教えられた後で、不思議な例え話をされます。それは、真夜中に隣人の家族をたたき起こしてでもパンをせがむ「あつかましさ」を描きながら、何かを祈る、または願う時は、主に向って祈るべきことを、求め続けなさい、捜し続けなさい、叩き続けなさいと表現しました。ドアを叩き続けた結果、パンを借りることができたのは、神様が喜んで答えてくだっさということなのかもしれません。 「主の祈り」について 最も大事な事は、私達がこの祈りをどのような思いで祈っているか、この祈りがどのように私達を支え、導いていてくれるかということです。 イエス様が望んでおられることは,私達が絶えず悪に抵抗し,義にかなった生活を送るよう努めながら,神様の助けを祈り求めることです。私達は時々、神様への祈願(お願い)を「祈り」と考えますが、祈願は祈りではなく、祈願は祈りの一部です。 「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見つかる。門をたたきなさい、そうすれば開かれる。」 この御言葉も大変有名な言葉ですが、残念ながら「必ず願いが叶う方法」は存在するとも、しないとも言えません。一つだけ確かなのは、努力無くして成就はないということです。神様へご自分の要求を押し付けるような祈りではなく、最大限の努力をした上で、「御心の通りにしてください」という祈りをする必要があります。 たとえどの様な悪い結果だとしても、そこから学びを得て反省をする。そして「良い選択」として、それを素直に受け入れるという行動が求められます。「祈っても自分の思い通りにはならなかったけれど、何かが変わった」「気づきがあった」という体験もあるかもしれません。もし祈りの中で、少しでも自分の中の小さな変化に気がついた時、たとえそれが自分の思うものとは違っても、結局一番「良い物」が与えられたということなのかもしれません。  どうぞ皆さんも祈りを通して、ご自分の「心の成長」に気づいていただきたいと思います。「主の祈り」で大切なこと

人生、サッカーとリオネル・メッシについてーTENTANG HIDUP, SEPAK BOLA DAN LIONEL MESSI

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人生、サッカーとリオネル・メッシについて 時々私はサッカーを見ていると、それが芸術の様だと感じる時があります。特にメッシの様な有名なプレーヤーを見ると、そう思います。   ある時はミュージシャンのようにドリブルをします。そして常にチームメイトをサポートします。彼の熱心で、情熱的な表情は彼の心や魂を映し出します。彼ほどサッカーを愛している人はいないかもしれません。 彼は試合中に多くのテクニックを使います。常に相手の弱点を分析し、   相手を乗り越える方法を考えながらゴールします。それが彼は他のプレイヤーと違う理由です。本当に素晴らしいサッカー選手です。 私はメッシの試合を見るといつも学ぶことがあります。メッシの観察力、分析力、行動力です。私もメッシのように、どんな困難な時にも挫けず、自分の目標に向けて努力し続けていきたいと思います。   (吉祥寺 - 東京、 2022 年 7 月 21 日) TENTANG HIDUP, SEPAK BOLA DAN LIONEL MESSI : Sebuah Catatan setelah menonton pertandingan antara Paris Saint Germain (PSG)  Vs  Kawasaki Frontale di Stadion Nasional Jepang, 20 Juli 2022   Acapkali, anda mesti menikmati sepak bola sebagai sebuah seni. Apalagi menonton sihir pemain bola sekelas Messi. Tentang Messi,  tak ada lagi kata diskusi. Tak ada seorang pun yang selevel dengannya. Sampai kapan pun saya akan terus menjagokannya. Lionel Messi ibarat seorang musisi yang selalu memainkan nada yang tepat dalam situasi yang tepat. Kemampuannya dalam menggiring bola, memanjakan reka

良い方を選ぶ

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良い方を選ぶ ルカ 10 . 38 - 42 皆さん、今日の福音はイエス様がマルタの家に迎えられたときの出来事についてです。マルタは食事の準備で大忙しですが、妹のマリアはイエス様の話をただ聞いているだけです。手伝わないマリアにいらだちを覚えたマルタは、イエス様に訴えました。 もし皆さんがこのような状況にあったら、どう思うでしょうか?マリアはマルタを手伝うべきだとか、マルタは、もっと簡単なおもてなしをして、一緒にイエス様の話を聞けばいい、などと思うかもしれません。 イエス様はマルタに向けて、このように諭しました。 「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。   しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」 。 このイエス様の御言葉は、皆さんが今生きていく上で 、何を大切にしているのですか、という問いかけでもあります。 その答えによって皆さんの人生観や、生き方が大きく変わります。その価値観次第で、私達は同じような環境の中にいても、幸せに生きられるか、不幸だと感じるかという事まで変わってくるものです。 私は小神学生の時、寮で生活をしていました。聖堂では毎朝、同級生、先輩、後輩、司祭、先生達と一緒に祈りやミサを行いました。一日の労働、講義を終えた後も、聖堂でまた、皆が集まり、祈りや聖書の輪読会が行われます。時々、辛い試練の日々の繰り返しの中で、自分勝手な感情や疑問が生まれたこともありました。ですが、聖書を読むたびに、自分の乱れた心を正し、祈りを通してイエス様と共にいる喜びを感じることができます。 私達は、日々の忙しい生活の中で、マルタのように、思い通りにいかない状況下で苛立ちを感じたり、押しつけがましい要求をしてしまったりすることがあります。 ですが、そんな私達にイエス様は、すべきことは“ただ一つ”、私達に柔軟な生き方や考え方へと転換しなさい、という教えをくださったのです。     確かにある人は、他の人よりもよく気が付いて、要領よく物事をこなすことができるかもしれません。でも、全ての人が同じことを出来るわけではありません。ある人は他の人と異なる事を立派に成し遂げる能力を持っていることもあります。つまり、私達の問題は、ついつい自分を基準にして他の人たちを比べてしまう事です。もし私達が、自分と同じようではな

東京の空ーLANGIT DI SUDUT TOKYO

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  東京の空 友よ 今の東京は薄曇り 君の心はどう   再びコロナ感染者増加 君の心には様々な叫び声が渦巻いているかもしれない   友よ 空を見上げてみよう 天から放たれる希望の光   君にもきっと見えるはず 例えまたパンデミックになっても   希望の光に包まれたら また立ち上がれる   明日はきっと青空だ さあ、笑顔で生きていこう ( 吉祥寺、 2022 年 7 月 16 日 ) LANGIT DI SUDUT TOKYO Sahabat, Di sini sang surya tak nampak Cahayanya masih memuram Meski sudah terlampau siang   Langit di sudut-sudut Tokyo mendung Begitu pula hatimu, murung Barangkali ada tangis yang kau tahan   Tapi Nun jauh di langit harapan Kita tetap gantungkan asa   Bahwa raga kita harus tetap bertahan Meski teraniaya dilindas pandemi     (Kichijoji, 16 Juli 2022)  

夕暮れの吉祥寺駅ーSUATU SENJA DI STASIUN KICHIJOJI

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  夕暮れの吉祥寺駅 雨あがり 人々は急いで道を横切る 駅に向かって走り去る 一人一人の顔に 計り知れない不満 壊れそうな心が見え隠れする 人生はパズルのよう ピースが一つ無くなったら 全てが終わりですか? 希望はパズルのピース パズルの穴を満たしてくれる さあ、笑ってパズルを続けよう 人生はパズルのよう 未完成の夢を追いかけよう 何が起きるか分からない でも、それでもいいじゃないか。 希望の駅は直ぐそこだ パズルゲームはまだまだ続く (吉祥寺、 2022 年 7 月 14 日)   SUATU SENJA DI STASIUN KICHIJOJI   Orang-orang bergegas melintas Melaju harap-harap cemas Dalam balutan gerimis tipis   Menanti kereta senja Menuju ke stasiun harapan   Berjuta keluh mengaduh Berjuta tanya merapuh Di wajah mereka yang melintas sepintas   Hidup itu penuh dengan teka-teki kan?   Tapi Kau dan aku tetap tersenyum Menyulam senja Meramu cita yang belum usai   Aku sadar Apa pun yang akan terjadi Harus berani dihadapi   Tuk berjumpa dengan akhir kisah di stasiun harapan   Tuhan pasti jaga   (Kichijoji, 14 Juli 2022)

今も息づく友の御言葉 ーPESAN SEORANG SAHABAT

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  今も息づく友の御言葉 朝日が昇る 時は過去から ずっと繋がっている   2000 年の時を経て 今も息づく 友の御言葉   「疲れた者、重荷を負う者は 誰でも私の元に来なさい 休ませてあげよう」   心安らかな 一日がまた始まる   ( 吉祥寺、 2022 年 7 月 13 日 ) PESAN SEORANG SAHABAT Hari baru saja terbuka Menyambung lingkaran waktu yang kemarin   Kubaca lagi pesan seorang sahabat Yang tercatat rapi dalam kitab tua itu Sejak ribuan tahun silam   “Datanglah pada-Ku Hai kalian semua yang letih lesu dan berbeban berat Aku akan memberikan kelegaan kepadamu”   Pesan-Nya begitu mendayu Mengelus hati dengan damai   (Kichijoji, 13 Juli 2022)

「善きサマリア人からの学び」

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  「善きサマリア人からの学び」 ルカ 10 . 25-37 皆さん、今日の福音は「善きサマリア人」のお話です。それはイエス様が語られた有名な例え話です。主な要点は、 隣人愛と和解 についてであると思います。 当時サマリア人は「血の汚れた民族」として蔑まれてきました。ある時、旅人が、強盗に襲われ、倒れていました。一人の祭司とレビ人は、神様に仕えるという立場でありながら、怪我人を見捨てて、通り過ぎていきます。しかし、一人のサマリア人は違いました。彼は怪我人を介護して宿屋まで運び、のちにお金を宿屋に払って介抱してもらえるように頼んだのでした。 イエス様がこの例え話をされたのはある時、律法の専門家が、イエス様に 「永遠の命は、神を愛し、隣人を愛するという律法を守ることで得られる。私は同じユダヤ人の隣人を愛している。」 と言いました。イエス様は、「善きサマリア人」の話を通して 「隣人を愛せよ」 という事は、自分を変えることによって、敵だと思う人を隣人として愛しなさい」と律法の専門家を諭されたのでした。 残念ながら、私達も彼らのように都合の悪い事から目を逸らすことがあります。ですが、その度毎に後悔や反省をして、神様の赦しを乞うことによって、神様は全てを受けとめて下さいます。そしていつか私達を「善きサマリア人」として、造り変えて下さるのではないでしょうか。それこそが神様の救い手が成せる業です。 私は日本に来てまだ 4 年くらい、そして吉祥寺教会に来てまだ 2 年一ヶ月間くらいですが、最初は日本語も分からず、知り合いも無く、毎日が不安でした。ですが、問題が起こるたびに必ずそっと手を差し伸べて、助けてくれる人に出会います。そんな時はホッとすると同時に、神様が送ってくださった「善きサマリア人」に心から感謝します。そして同時に自分も「善きサマリア人」として生きていく使命を感じています。 次に 、「敵を愛する」 という和解についてお話します。サマリア人に助けられた旅人は、その後どう思ったでしょうか? サマリア人に感謝してサマリア人を助ける側についたかもしれません。この物語は私達に、日常から一歩を踏み出す勇気を与え、その一歩が隣人との和解を導くきっかけになるのではないでしょうか。 残念ながら日本の元首相の命が銃弾で奪われました。皆さんも大変驚かれたと思います。ここでお亡くなりになった元