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Showing posts from October, 2022

イエス様との出会い

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  「イエス様との出会い」 ルカ 19.1 - 10 皆さん、今日の福音書はザアカイとイエス様の出会いの物語についてです。イエス様がエルサレムへと続くエリコの町を通られた時、ザアカイに会いました。ザーカイは徴税人の頭で、ユダヤを支配していたローマと徴税請負契約を結び、通行税や関税を徴収する仕事をしていたので、とてもお金持ちでした。彼にとってお金や地位は大変な誇りでした。ですが、彼は異邦人のために働くことで、ユダヤ人同胞からは 「汚れた者、罪人」 と軽蔑され、またしばしば利益を増やすために不正な課税を行い、過酷に取り立てていたため、人々から大変嫌われていました。 ある時、背の低いザアカイはイエス様が来られるという噂を聞きつけイチジク桑の木に駆け登って待っていると、群集の中にイエス様のお姿を見つけました。すると突然、イエス様がザアカイに声をかけました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。ザアカイはイエス様の招きに応じ、イエス様を「罪からの救い主」として迎え入れました。 皆さん、ザアカイは、なぜ必死にイエス様を捜したのでしょうか。それはザアカイ自身が、どんなにお金があっても、多くの人に嫌われていたことを恥ずかしく、寂しかったからかもしれません。ですが、ザアカイの希望以上に、イエス様は、ザアカイを捜され、近づかれました。 ザアカイはイエス様に会ったことで、自分の本当の姿、罪に気づくことが出来、悔い改めることができたのではないでしょうか。 ここで大事なことは、 ザアカイが悔い改めたから、イエス様が来られ、救いを下さったというのではありません。イエス様がザアカイを呼びかけられたということです。 イエス様はこの出会いによって、ザアカイに新しい命を与えました。 この出会いをきっかけに、ザアカイの人生の基準はイエス様になったのです。彼はイエ様の生き方に従って生き始めることが出来ました。 この物語を通して、イエス様は私達に無限の愛を示してくださいます。 「急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」 。もし私達が、ザアカイのようにイエス様を素直に受け入れることができるなら、私達も人生の基準がイエス様となり、人生の方向が変わるのではないでしょうか。イエス様と出会い、神様に立ち返ることによって、神様との交わりが

神様、罪人の私を憐れんでください

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「神様、罪人の私を憐れんでください」 ルカ 18.9-14   皆さん、今日は先週の「やもめと裁判官の例え話」に引き続き、 祈りについての教え が継続しています。特に 、神様にお祈りする時に、どのような心で祈ったらいいのか を教えるためにされたお話です。今日の例え話には二人の人物が登場します。それはファリサイ派の人と徴税人です。 二人は神殿にお祈りに行きます。一人はファリサイ派の人で 皆から尊敬されていた立派な人でした。一方、徴税人は皆から嫌われていた評判の悪い人でした。 ファリサイ派の人は、自分が良い人間であること、そして自分の隣にいる徴税人のような悪い人間でないことを神様に感謝しました。彼は自分の正しさ善さを並べたてて、 「神様、…感謝します」 と言いましたが、これはうぬぼれです。この祈りは、自分に向かっての独り言に過ぎないということだと思います。 一方、徴税人は 「神様、罪人の私を憐れんでください」 としか祈りませんでした。この人は神殿に来て遠くに立ち、目を上げようともせず、胸を打ちながら祈ります。それは、この人が自分の罪を心の底から悲しむしかないという彼の内面をあらわしています。結局、神様が喜んだのは、自分の自慢をしたファリサイ派の人の祈りではなく、徴税人の祈りでした。 なぜならば、ファリサイ派の人の「うぬぼれ」の根拠は他人との比較だったからです。普通の人よりも自分はちゃんとやっている、この徴税人なんかとは比べ物にならないほど正しい人間だということです。しかし、 人と比較して神様の前に自分を誇っても何の意味も無い ということは、皆さんもご存知だと思います。そのような考え方は神様との関わりを妨げてしまうだけです。自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している時、人との関係も絶たれてしまいます。 人間は互いに助け合い、支えあって生きる者であるはずです 。 皆さん、今日の福音の教えのように、自分の弱さや孤独、失敗や不安を真摯に神様に告白することができた時、神様は必ずあなたの横に立って力づけてくださいます。なぜならイエス様ご自身が、同じように御父の存在に力づけられて生き抜いたからです。 今日私は皆さんにお願いがあります。世の中には、私達より困っている人、食べる物のない人、戦争の中で苦しんでいる人が沢山います。今この時も、沢山の

絶えることなく祈る 

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  絶えることなく祈る  ( ルカ 18.1 - 8 ) 皆さん、今日の福音は、 「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」 という教えです。「やもめと裁判官」の例えが取り上げられていますが、旧約聖書の中では、やもめは自分を守ってくれる人がいない社会的弱者の代表でした。彼女は彼女を困らせる相手を裁いてもらうために、裁判官のもとにひんぱんに通っていました。誰かが彼女から亡き夫の財産を不正に奪おうとする、というような状況があったのかもしれません。彼女が求めた「裁き」には「悪を断罪する」という面だけでなく「善悪をはっきりさせ、弱い人を守る」という意味があります。彼女は正しさを求めるために訴えなくては生きていけないという現実があったのではないかと想像します。 福音書の中で、この裁判官は、「神を畏れず人を人とも思わず」として描かれています。強い者にこびへつらい、弱いものを踏みつけるような態度を取っていたのでしょう。やもめの正当な訴えもなかなか取り合ってもらえませんでした。しかし、彼女はそのような現実の中で絶えず求め続けたのです。その結果、裁判官は彼女のために裁判をしました。ここでイエス様は、祈りについて、やもめが自分の権利を弁護するよう裁判官に絶え間なく祈り、要求することの大切さを、お示しくださいました。 今日のイエス様の例え話を読み、私は詩編 22 編を思い出しました。この詩編の冒頭にある言葉 「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。」 この言葉は、イエス様が十字架の上で、言われた言葉として有名です。まさに死が迫っている時にも、イエス様は終末を感じながら、祈られました。イエス様御自身が、気を落とさずに絶えず祈ることがどういうことなのかということを、弟子達、そして私達にお示しになったのだと思います。 日々の生活の中で、私達は何か本当に困ったことが起きる度に必ず祈ります。例えば、時々「私は祈った。一週間祈った。二週間祈った。一ヶ月祈った。三ヶ月祈った。半年祈った。一年祈った。しかし事態は少しも変わらない。事態が良くならないばかりか、ますます悪くなり、深刻化していきます。神様は私の祈りなんか聞いてくれていないのではないか。そもそも神様に私の祈りは届いていないのではないか。」更には、「神様などいないのではないか。」そんな思いが心に湧き上

「あなたの信仰があなたを救った」

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「あなたの信仰があなたを救った」 ルカ 17.11-19 皆さん、今日の福音は「重い皮膚病を患っている十人の人」がイエス様に出会う物語です。「重い皮膚病」の語源は「打たれた」ですが、この病気にかかると、神殿に入ることが許されず、町の中に住むことも許されませんでした。人に出会いそうな時には「私は汚れた者です」と遠くから大声で呼びかけなければならないのが決まりでした。 当時の重い皮膚病にかかった人達は神様の前からも、人々の前からも閉め出されるという立場にありました。彼らは共同体から追放される環境の中で、サマリア人、あるいはユダヤ人であっても、苦しむ者同士として支え合い、助け合いながら生活していたのかもしれません。 イエス様が通りかかった時、重い皮膚病の人達は遠くから「イエス様、先生、どうか、私達を憐れんでください。」と声を張り上げて呼びかけました。それに対して、イエス様は「祭司達のところに行って、体を見せなさい。」と言いました。この 10 人はその言葉に従って、祭司達の所に向かいました。彼らはイエス様の言葉を信じて、従ったのです。すると、祭司達の所へ行く途中で重い皮膚病が癒されたのです。そこで、癒されたことに気づいた一人のサマリア人は、イエス様の元に戻って、大声で神様を賛美しました。イエス様は彼に「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と仰いました。 このサマリア人は、他のユダヤ人と思われる人々と別れて、なぜ、わざわざ戻ってきて、イエス様に感謝と賛美をささげる気持ちになったのでしょうか。彼は自分に起こった重い皮膚病の癒しの奇跡にイエス様の働きを見て、心から感動して、イエス様の前にひれ伏すほどに感謝するために戻ってきたのです。  皆さん、「あなたの信仰があなたを救った」とは「私の信仰が私を救った」ということですが、「私を救う私の信仰」とは、どんな信仰なのか、考えてみましょう。信仰という言葉について日本語では、「自分が神様を信じる生活」と、とらえられることがあるように思いますが、本当の信仰とは、このサマリア人が自分に起こったことに神様の働きを見て、神様の愛を感じると言う事だと思います。 自分の人生の全てを神様に委ねて、生きていく事が信仰だということを、この一人のサマリア人の行動の中から学ぶことができるように思います。私達は苦しい

神様に従う人は信仰によって生きる

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https://youtu.be/uep0DZOkibs 神様に従う人は信仰によって生きる 「ルカ 17.5-10 」 皆さん、今日のメッセージは「神様に従う人は信仰によって生きる」です。私達にとって「神様を信じる」ということは、神様の存在を信じるという意味だけではありません。それは、「神様に全てを委ねて生きる」ということです。神様に全てを委ねると言っても、そのためには努力が必要です。私達は完全な者ではないからこそ、神様の助けを必要とし、そして祈り願うのではないでしょうか。 第一朗読では、当時の社会の不正に対する神様の答えが示されています。現代社会にも様々な苦しみや苦痛があります。なぜ神様はそういう試練をお与えになるのか、という疑問を感じる人は多くいることでしょう。そのような災いに対する神様の答えは、「神に従い人は信仰によって生きる」という明確なものでした。 第二朗読ではテモテは、与えられた神様の賜物を守り、勇気を持って生かすように励まされました。なぜならば、彼が授けられたのは、臆病の霊ではなく、「力と愛と思慮分別の霊」だったからです。福音宣教の為にテモテは神様の証人となり、当時のあらゆる困難に直面することを恐れませんでした。 今日の福音では、弟子達が「私達の信仰を増してください。」と願いましたが、それに対してイエス様は、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」と仰いました。それは、「小さな信仰を大きくしたい」という欲を捨てて、ただひたすらイエス様の御言葉を信じ実行するという信仰を持ちなさいと言う意味であると思います。そういう努力の積み重ねが、真の信仰であり、その信仰をもっていれば、私達はどのような苦しみをも乗り越えることができます。 真の信仰を持つことが出来れば、イエス様の弟子達、また私達は揺るぎない信仰と共に生き、謙虚に「取るに足りない僕」の立場で、奉仕を楽しむ者となって生きることが出来るのではないでしょうか。 このような信仰こそが「生きる信仰」と呼ばれ、私達と神様との強い絆を作ります。信仰のおかげで、困難を乗り越え、神様の子供であるという意識を持って生き、信仰の喜びを味わうこともできるのです。信仰に支えられる人生の素晴らしさを、皆様にも感じてい