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Showing posts from October, 2023

愛について-ABOUT LOVE

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  「愛について」 マタイ 22.34-40 皆さん、今日の福音書でイエス様は私達に愛には二つの掟があることを示してくださいました。一つ目の掟は神様を愛することです。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。イエス様は神様を愛する手段として、人間の生活において最も重要な 3 つのことについて言及しています。それは、心、精神、そして思いです。これは、神様を愛することにおいて、心、精神、そして思いの間に調和がなければならないことを意味します。「神様を愛する」ということは、口先で愛を語ったり、気持ちで愛するということではなく、心から仕えることです。 二つ目の掟は、隣人を愛することです。「隣人を自分のように愛しなさい」。これは、私達に弱点があるように、他の人の弱点に対して忍耐を持って受け入れることを意味します。 皆さん、私達にとって愛とはどういう意味なのか改めて考えてみましょう。例えば、恋をしている二人に尋ねた場合、愛はいつまでも一緒に時間を過ごすことを意味するかもしれません。赤ちゃんを持つ両親だったら、愛は夜遅くても赤ちゃんの世話を喜んですることを意味します。そして子供の幸せのために犠牲を払うことをいとわないという行為です。先生にとって、愛は大きな犠牲を払ってでも学生の成長の為に指導することです。司祭にとって、愛は精神聖霊を尽くしてミサを捧げ、人々のために奉仕することです。要するに、愛は情熱をもって献身、そして犠牲を捧げることであると思います。 さて、皆さんも戦争のニュースを毎日聞くたびに、自分の無力さを感じていることと思います。神様を愛するという人達が、人々を迫害し、戦争を起こし、人々を殺害してきた歴史があります。また、私達の毎日の生活でも同じことが言えるでしょう。神様を愛すると言いながら、隣人を愛することが出来ない、兄弟姉妹を愛さないどころか、憎しみさえ持ってしまう。だから『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という戒めが必要なのです。 私達は愛を込めて、兄弟として他人の存在を尊重しなければなりません。言い換えれば、私達が本当の愛を持てば、血のつながりはなくても、他の人を私達の兄弟姉妹として見ることができるはずです。私は現在戦いの中で生きている人達も、憎しみだけで生きているのではないと思います。彼等も私達

行動を伴わない信仰は信仰ではない-FAITH WITHOUT WORKS IS ESSENTIALLY DEAD

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  「行動を伴わない信仰は信仰ではない」 マタイ  22.15-21 皆さん、今日の福音書では、ファリサイ派の人々とヘロデ派の人々が一緒にイエス様の所に行って、尋ねるところから始まります。「先生、私達は、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え誰をもはばからない方であることを知っています。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」。 彼らはイエス様に対して大変失礼な質問をしました。イエス様が皇帝に税金を納めるために「はい」と言った場合、ファリサイ派の人々はイエス様が本当のユダヤ人ではなかったと主張したはずです。イエス様が「いいえ」と答えた場合、ファリサイ派の人々はイエス様が反ローマの「挑発者」であり、罰に値すると吹聴したに違いありません。イエス様はどちらに答えても、もう一方を敵に回すことになります。 そこでイエス様は並外れた賢い答えをされました。イエス様は彼らに税金を納めるための金貨を見せるように命じ、お金に誰の像が刻まれているかとお尋ねになりました。彼らは「皇帝の像がきざまれています」と答えました。するとイエス様は「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とお答えになりました。 彼らはイエス様の答えに驚きました。 イエス様の答えは、社会生活において賢明で公正であれ、ということを私達に教えています。これは、私達が私生活と教会の生活をきちんと両立なければならないということを意味していると思います。先週の福音書で、全てのものは神様へ、ということを学びました。神様のものを神様へ、というのは、愛の関係以外のなにものでもありません。神様から多くの恵みをもらっているからこそ、私達は愛によって応えなければなりません。 それは私達が守るべき原則だからです。イエス様が、見事な返事をした内容に、私達は信仰の原則である愛を持って生活する必要性があることを改めて確認していただきたいと思います。 口先だけの信仰は信仰ではありません。御ミサの時だけの信仰は信仰ではないのです。生活の中でイエス様の御言葉や問いかけに愛を持って行動することが、本当の意味での信仰生活です。 ところで、数日前、モナッシュ・カレッジで英語を一緒に勉強している二人の日本人と回転寿司を食べました。メルボルンの回転寿司を食べるのは、私も彼

神様の招きに答える-ANSWERING GOD'S INVITATION

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  「神様の招きに答える」 マタイ 22.1-14 皆さん、今日の福音書は、これまでの「二人の息子」や「ぶどう園と農夫」の例え話と同様でこれも神殿の境内で、当時のユダヤ人の指導者やファリサイ派の人々を前にして語られた例え話です。前の 2 つの例え話と同じように神様の国への招きを受け入れなかった人々が批判されています。 イエス様は天の国を結婚の披露宴に例えています。結婚の披露宴には多くの人が招待されましたが招待された人の多くは来ませんでした。彼らはそれぞれの活動に夢中だった、またはそれ以上に優先することがあったのかもしれません。彼らは結局、招かれたことの素晴らしさやありがたさを本当には感じることが出来なかったのではないでしょうか。 それでは、今の私達は神様の招きをどう受け止めているでしょうか。神様が私達に差し出してくださる招きは、救いへの呼びかけです。それは、結婚の披露宴の招待のようなものです。そして神様からいただく招きは救いの恵みとなり、それは全ての人に開かれています。しかし、私達はしばしば自分達の仕事で忙しく、神様からの救いの招きに耳を傾けようとしない時があると思います。神様の招きは時として、面倒なことや苦労を伴うことが多いからです。 イエス様に従う為には誠実であることが求められます。残念ながら積極的に神様の声に耳を傾け、誠実な態度で実行することは簡単なことではありません。なぜなら、私達は多くの誘惑に心を惑わせ、自分中心に物事を運びたいと思うからです。それゆえに、イエス様は「多くの人が呼ばれるが、選ばれる人は少ない」とおっしゃったのです。どうぞ皆さん、イエス様の教えに従い、キリスト者として、そして選ばれた者として恥じない生き方を目指していただきたいと思います。 現在、イスラエルとハマスの間で戦争が起きています。パレスチナの人々は水やガス、食料などが無いなかで、逃げ回っています。これまで、イスラエルとパレスチナは何回も戦争を繰り返してきました。そして、その度に多くの人が亡くなり、和解することが出来ませんでした。彼らはユダヤ教とイスラム教との戦い、そして過去の過ちを繰り返しながら戦い続けています。 教皇フランシスコはこれまで何度も何度も私達に世界平和の為に祈るように求めました。皆さん、戦争は世界中で起きています。ウクライナ、ロシア、イスラエ

全ては神様のもの-EVERYTHING BELONGS TO THE LORD OUR GOD

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  全ては神様のもの マタイ 21.33-43 皆さん、今日の福音は、先週の「二人の息子」の例えに続いて語られた例えです。この例え話にはイエス様が示された次の人物が登場します。それは、一人の主人、農夫達、しもべ達、そして息子です。 実りの季節になったので、主人はしもべ達に収穫を受け取るために畑に送りました。しかし、雇人達は主人が遣わしたしもべ達を全て殺してしまいます。全ての収穫は自分たちのものだ、と主張したのです。次に、雇人達は主人が遣わした息子までも殺してしまいました。 これは、農夫達の残虐なふるまいが強調されて描かれています。農夫達の非道さは当時の外国の支配下にあったガリラヤ地方で外国の地主の元で搾取されながら、貧しい生活に耐えていた農民の辛さを物語っているのかもしれません。そしてこの農民達の行動は、イエス様を十字架の死に追いやった律法学者、長老、祭司達の中にも見ることができると思います。 ここに出てくる農民達も主人に雇われていますが、私達の人生も この世の全てのものも、結局は神様から借りてるだけのものであるということを思い起こさなければならないと思います。結局私達は全て神様から借りてるわけで、それを自分のものだと思うところに、私達の罪が生じてくるのかもしれません。 全ての物を借りてるからこそ、自分に与えられてる時間も、エネルギーも、人間関係も大切に謙虚に生きなければなりません。粗末にしてはいけないのです。自分のものだから大切にするのではなく神様のものだから大切にするのです。 ところで先週の土曜日、神言修道会の神学院でミッション・デイの活動がありました。この活動のテーマは、「あなたの光は他の人の前で輝かなければならない」でした。中国人、フィリピン人、ベトナム人、インドネシア人、オーストラリア人がこの活動に参加しました。私はモナシュ大学で一緒に勉強している一人のイラン人を誘いました。それぞれの宗教は違っても、神学院での活動に参加してくれたことが大事だと思いました。 このイベントはパラマタのヴィンセント・ロン・グエン司教様のセミナーから始まりました。この活動は、若い人達が神学院に行き、司祭になるために、召命を促進することも目的としています。神権への召命への招きに気づいた人は洗礼へと導かれます。ですが洗礼を受けることだけが神様と繋がって