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信仰心で誘惑や試練に勝つ-MENGATASI GODAAN SETAN DENGAN PERCAYA PADA TUHAN

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  信仰心で誘惑や試練に勝つ マタイ4 .1-11 皆さん、四旬節が始まりました。今日は四旬節の最初の主日です。毎日の時間はあっという間に過ぎ去り、私達は様々なことに翻弄される生活を送っています。ですが教会の典礼の暦は 私達が忙しい日々の中でも、立ち止まり、神様と時間を共に過ごすことを勧めています。 四旬節には、特に断食という行為を通して回心「主に立ち返ること」、もっと具体的に言えば「祈り、節制、愛のある行い」が強く勧められています。この四旬節の間、これらのことを心に留めて、私達の信仰の中心であるイエス様の死と復活の記念にあずかる準備をしていきましょう。 この四旬節の最初の主日の福音書は、イエス様が、荒野で悪霊の誘惑と戦う 40 日間の話から始まります。このお話は、単なる誘惑や試練に打ち勝つというようなことではありません。それは、この世の苦しみや受難と私達の信仰心が、どのように関係しているのかを教えていると思います。  今日の福音書ではイエス様は三回の誘惑を受けたことが記されています。最初は、イエス様が荒野で断食をされている時に悪魔がやって来て「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」と誘いました。二回目は、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」。三回目は、「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。」つまり権力を与えるという誘惑です。これは信仰を試す誘惑でした。 今日の福音の教えを私達の生活に例えて考えてみましょう。皆さん、日々の生活の中で、あなたにとって大事なことは何ですか。成功ですか。どのように人から見られているかいつも気にしていますか。人からの評価や評判ですか。どんな社会的な影響力を自分は持っているか気になりますか。ある人にとっては、社会的な成功、評価、権力はとても大事なものです。しかし、キリスト者として、私達の受け止め方はどうあるべきなのでしょうか。 残念ながら、私も含め、多くの人が成功、評判、権力のことを気にしたり、追い求めたりします。これが、現実ですが、そういう時こそ、神様が私達に何を望んでおられるかを忘れてしまっている時です。私達は知らずに、サタンの誘惑に負けているのです。 例えば、お金がない、人から良く思われたいのに、他の人から理解されない、いつも心が不安定で、落ち着かない状況です。豊かになりたいがゆえ

敵を愛する時、平和が生まれる-MENCINTAI MUSUH ADALAH KUNCI PERDAMAIAN

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  「敵を愛する時、平和が生まれる」 マタイ 5.35-48 皆さん、今日の福音書も先週に引き続き、山上の説教の一部です。この山上の説教の中でも、最も有名な言葉の一つが、今日の福音個所「隣人を愛し、敵をも愛しなさい」です。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とイエス様は弟子達に仰いました。 当初、イスラエルの人々は、自分の周りの人々、家族、親類、あるいは、同じ部族、同じ集団の人のことを「隣人」と考えていたようです。しかし、イエス様の教えが次第に明らかにされるに従って、隣人というのは、自分たちの枠「イスラエル民族」という枠を超えた外にいる人々、そして、全ての人を指すというようになったのだと思います。 イエス様の時代においても、敵を愛するのは簡単なことではありませんでした。多くの人々はイエス様の言葉はあまりにも理想的であり、非現実的だと思われたかもしれません。当時の人々の暮らしには、心の余裕も無く、多くの人は殴られたら殴り返すことが正義だと思っていたのではないでしょうか。 現代の私達の生活の中でも、敵を憎む感情を避けて生きることは難しいことです。しかし、今日の福音書において、イエス様は敵を愛さない限り、平和は生まれないことをお示しになりました。つまり、平和をつくり出す時に、最も大事なことは「愛すること」です。人に対して、いじわるをせず、冷たくせず、いつも相手を尊敬し、大切にし、優しく、親切に、思いやりを持って接する時、仲良く平和に過ごすことができます。愛こそ平和をつくり出すのです。 このイエス様の教えは、決してユートピア的な考えではありません。それどころか、私達が人間として生きていくうえで、絶対必要な教えなのです。隣人を愛するということは、隣人に害を与えないだけではなく、心の中で人々に恨みを抱くことのないようにしなさいという事です。 ですから、「敵を愛する」ということは、人に対して恨みを抱かない、そして赦すということから始まります。私達は他の人の中にある良いこと、美しいことを見つけるように心がけましょう。 2 月 6 日にトルコとシリアの国境付近で大きな地震が起きました。 4 万 2 千人以上が亡くなり、多くの人が全てを失いました。シリ

神様の律法-TENTANG HUKUM TUHAN

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  神様の律法 ( マタイ、 5.20 ― 22a 、 27 - 28 、 33 - 34a 、 37) 皆さん今日の福音書も引き続き、山上の説教の一部です。山上の説教全体を見れば、神様が望まれる人間の生き方を、愛という一点に集中させる「愛による完成の道」を説いています。また、人間の力ではなく、神様への信頼の内に神様のみ旨を果たす「神様による完成の道」だと教えています。 今日の福音書の中で、イエス様は律法について次のように仰いました。「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」 イエス様の時代のユダヤ人、特にファリサイ派や律法学者は熱心に律法を学び、守ることこそ、神様に従う道であると信じていました。そして、それを貫くために死に至るような罰を与えました。イエス様は決して律法や預言者を否定しませんでしたがイエス様の律法に対する態度は、律法学者やファリサイ派の態度とは明らかに違っていました。 つまり、彼らは掟の文字を守っても、掟の心を忘れていたからです。例えば「殺してはならない」という掟は理解していても、それが「兄弟に腹を立てる」「ばかと言う」「愚か者と言う」ことが、それらと実は繋がっていることを理解していなかったのです。 「殺す」とは外面的に「殺す」ことだけではありません。例え人を殺さなくても、憎んだり侮辱したり、差別やいじめによって、十分に人の心を苦しめるのです。それは「殺す」ことと同じ痛みです。 それに対して、イエス様は弟子達に自分が教えた律法を真摯な気持ちで理解するよう教えました。全ては神様から愛を受けた体験から始まります。掟の実現とは人に対してその愛を分かち合うことです。愛の法則は、敵とみなされる人々がもはや存在しなくなるまで、全ての人間を愛しなさいということを意味します。イエス様はあくまでも、人の一生を律法の光、特に「愛」に貫かれていると説いておられます。 今日の福音書を通して、私達も自分自身に問いかけてみましょう。私は、他人に対して不当な言葉や不適切な言葉をかけているでしょうか。ほとんどの人は、ご自分はほぼ正しい言葉や態度で生きていると答えると思います。でも本当にそうでしょうか。残念ながら私達は相手の心の底まで理解することが出来ません。うっかり他人を非難し、卑下し

「塩」と「光」- TENTANG GARAM DAN TERANG

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  「塩」と「光」 マタイ 5.13-16 皆さん、今日の福音は、先週に続いて山上の説教が読まれます。イエス様は「光」と「塩」の例えで、「幸い」にあずかる人に、この世界での使命を与えられます。イエス様は「あなたがたは地の塩であり、あなたがたは世の光である」と仰いました。 皆さんもご存知のように、塩は生活に不可欠なものです。塩がなければ食物は腐りますし、塩を入れない料理はおいしくありません。つまり塩は他のものの中にあって働きます。 一方、光は闇を照らし、ものの形を明らかにします。光は自分のために輝くのではなく、相手を照らすために輝きます。「闇に住む民は光を見た」この光は神様から出るものです。この光を受けた者が光り輝く事ができるのです。 このことからも、塩も光も私達キリスト者にとって、とても大切なものであるという事を心に留めておいていただきたいと思います。 イエス様に「地の塩、世の光」と呼びかけられた人々は、社会の有力者でもなく、信仰のあつい人々でもありませんでした。普通の人々、むしろ普通以下の、社会的影響力を持たない人たちでした。貧乏人や罪人や障害者など社会から差別され、疎外されていた人々でした。 この世では差別と迫害を受けてきた彼らがイエス様によって無条件に迎え入れられ、心身の病が癒され、イエス様の周りに集められたのです。そして、その彼らに対して、イエス様は「疎外されて来たあなたがたこそがまさに地の塩であり、世の光である」と語られ、一人一人に生きる使命、キリスト者としての使命を与えられたのだと思います。 今日の福音を通して、イエス様は私達一人一人が他の人にとって価値があることを示してくださいました。 地の塩、世の光であるとは、キリスト者として周りを感化することではなく、社会を改革するために熱心に行為することでもありません。私達は自分の罪を知り、他者の悲しみを共に悲しむことが出来ます。苦しんだことのあるからこそ、他者の苦しみを理解できます。だから私達は悲しむ人を慰め、苦しんでいる人を励ますことが出来るのです。これこそが私達に求められる使命なのではないでしょうか。 皆さん、今日の福音によって信仰をさらに深め、これからも善いことを行い、自分の名誉を求めてではなく、神様への感謝と人々との連帯意識をもって生きていきましょう。また、今日の

心の貧しい人は幸いである-BERBAHAGIALAH ORANG YANG MISKIN DI HADAPAN ALLAH

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  心の貧しい人は幸いである   ( マタイ 5.1-12a) 皆さん、今日の福音書は有名な「真福八端」の言葉についてです。「真福八端」とは、イエス様の「山上の説教」の冒頭部分の、「心の貧しい人は、幸いである、天の国はその人達のものである」という言葉から始まる教えを示しています。 イエス様は弟子達や不安や苦しみを抱えた人々、病人や困難な状況にある人々に向けて言われました。「心の貧しい人は幸いである。」これは、とても不思議な言葉です。普通は「心の豊かな人々は幸い」と言いますが、イエス様は全く逆のことを言われました。 なぜ貧しいことが幸いなのでしょうか。イエス様が話された幸いは私達の考える幸せとだいぶ違います。私達はある程度の物があり、欲求が満たされている時に幸せを感じます。何も持っていなければやはり不安や心配におそわれます。ですがイエス様は、自分で心が貧しいとか、自分の弱さ、足りなさを謙虚に認めることができる人こそが、幸せなのだと言われたのだと思います。なぜならば、そうする事がイエス様と共に生きていけるからです。 私が神学生の時、 AIDS/ H IV という病気の人達に何回も会ったことがあります。 彼らは侮辱されることが多く、他人から不当に扱われながら生きています。しかし、彼らは人生のどん底で生活をしているのにもかかわらず、「この病気であっても、神様が私達に与えてくださった人生に本当に感謝します」と言っていました。このように私達が不幸であると思っている人達でも自分自身の状況を受け入れ、神様に感謝の気持ちを捧げていました。これこそが、イエス様が示された本当の幸いなのではないでしょうか。 ところで、 1 月 29 日は聖ヨゼフ・フライナーデメッツの記念日です。彼は最初の神言修道会の宣教者でした。 1879 年、彼は中国に上陸して、宣教を始めました。 彼は中国からの初めての手紙に、「中国は私の第二のふるさとになりました」と書いていますが、この言葉は彼の宣教スタイルを非常によく表しています。彼は中国で文化、習慣、言語など様々な勉強をしましたが一番大切なことは、「この国の人を愛すること」だったと言っています。そのために彼は中国の人々と同じ服を着、同じ帽子をかぶり、同じようにひげを伸ばし、同じように頭を剃り、同じものを食べ、同じような生活をしました。

私について来なさい-MARI, IKUTLAH AKU

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「私について来なさい」 マタイ 4.12-23 皆さん、今日の福音書はガリラヤでのイエス様の宣教活動開始の場面についてです。イエス様は 40 日間の荒れ野での悪魔の試みにうち勝った後、ガリラヤに帰ります。 今日の朗読によると、ガリラヤ周辺の町は「暗闇」とか「死の陰の地」と表現され、そこに住む人々もマイナスのイメージで受け止められていたようです。イエス様はあえて暗闇の地から活動を始めます。 イエス様の最初の言葉は、「悔い改めよ。天の国は近づいた」というものでした。この言葉によって、人々の間に新しい希望が広がったのではないでしょうか。荒れ果てた地で、腰をすえて宣教を始めようというイエス様の力強い思いが、そしてイエス様の澄んだまなざし、一歩一歩をしっかりと歩むその姿まで見えてきます。 イエス様は宣教にあたり、人間の協力を求められました。シモンとアンデレに「私についてきなさい。人間をとる漁師にしよう」と仰って、次にヤコブとヨハネもお呼びになりました。彼らは「すぐに従った」とあります。 彼らは、イエス様の姿、まなざしを見て、声を聴いたその瞬間、「大きな光を見、光が射し込んだ」という体験をしました。そこには弟子達の都合や思い煩いなど入る余地のないほどの、神様からの強い招きと聖霊の導きがあったのだと感じます。 イエス様があなたをご覧になって、あなたを呼ばれたらあなたはどうしますか。弟子達のように、全てを投げ打ってイエス様についていく覚悟がありますか。「イエス様に従った」という言葉は、あなたの心にどう響くでしょうか。  コロナ感染症、戦争、災害の中で生きている私達は日々の 生活の中で、共に生きてくださるイエス様と出会う恵みを願いながら、今こそ聖書を開き、御言葉に耳を傾ける静かな祈りの時を持つことが必要なのだと私は思います。 そして「私についてきなさい」というイエス様の声が聴こえたら、聖霊の助けを願いながら、すぐに従いましょう。祈っていてもイエス様と出会えない日々が続くかもしれません。ですが、長い間漁師だった弟子達がごく普通の生活の中で、大きな光を見て、イエス様の光が心の中に射し込まれるという体験は、今日、あなたにも訪れるかもしれません。 今日の福音を通して、私達は信仰を持って、自分の心を開いて、イエス様の呼びかけを聞いて、イエス様に出会いましょう。イエス様と出会うことは何より大切な

イエス様を証する-BERSAKSI TENTANG YESUS

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  「イエス様を証する」 ヨハネ 1.29 - 34 皆さん、今日の福音書のお話は、洗礼者ヨハネがイエス様について証言するお話です。洗礼者ヨハネはイエス様を見た時「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と多くの人々に伝えました。この言葉は、皆さんもご存知のように、ミサの中でも唱えている言葉です。この言葉の背景にはどのような意味があるのかご一緒に考えてみたいと思います。 洗礼者ヨハネにその時何が起こったのか、私達には分かりません。ただ、私達にも分かることが二つあります。それは、この洗礼を通して、イエス様が神様から特別な使命を与えられて世に来られたことです。そして、洗礼者ヨハネにとっても、この体験こそがイエス様こそメシア=神の子であることを確信する決定的な動機になったことです。 先ほど唱えた「栄光の賛歌」の中で「世の罪を取り除く主よ、慈しみを私達に」、そして、御聖体拝領の前に唱える「平和の賛歌」でも、「世の罪を取り除く神の子羊、慈しみを私達に」と、私達は唱和していますが、多くのイスラエル人の罪の赦しと平和を願ったように、私達も神様への賛美と感謝を捧げましょう。 今、私達が当時の奴隷のイスラエル人と同じ状況にあると想像してください。いつも自分のことが大事であり、自分を基準にして毎日を生きています。誰かが私達をけなした時、私達はその人を憎みます。誰かが私達より良い生活をしていれば、私達はそれを妬みます。私達が誰かを愛するのは自分が愛されるためであり、私達が誰かに従うのは、それによって利益を得るためです。残念ながら私達の愛は見返りを求めることが多いです。 これらの感情は罪です。常に注がれている神様の愛を忘れて、自己中心的な感情を持つことが罪なのです。この罪を取り除かない限り、救いはありません。そして、この罪を取り除くために、イエス様が来られたとヨハネはここで証をしているのです。 ここには洗礼を受けている人が多いと思いますが、洗礼は信仰の完成ではありません。水の洗礼を受けても、私達が完全になるわけではないし、罪を犯さなくなるわけでもありません。それは信仰の始まり、救いの第一歩となるだけです。 皆さん、どうぞ罪人になるような感情を持たずに、愛を持って生きてください。そしてまだ洗礼を受けてない方がここにおられましたら、ぜひ洗礼を受けてキリストに繋がる者と

神様の導きの光、CAHAYA TUNTUNAN SANG ILAHI

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  神様の導きの光 マタイ 2.1-12 皆さん、今日私達は主の公現の祭日を祝います。主の公現とは主なる神が御子イエス・キリストを諸国の民に示された、という神様の御業を表すと言う意味です。つまり、イエス様が全ての人の救い主としてお生まれになったことが広く、異邦人の世界にも知られたことを記念して祝う日と言うことになります。 イエス・キリストの降誕によって、神様が私達人類と共におられることが明らかにされましたが、それは闇の中に光がさしこむような出来事でした。その光こそが、神様をずっと待ち望んでいた人達にとって、生きるための希望となったのです。皆さんもその光を感じながら生きていただきたいと思います。 今日の福音書は「神様の光に関する」お話です。占星術の学者達は生まれたばかりのイエス様を探していました。同時にヘロデ王もイエス様を探していました。彼らにはそれぞれの目的がありました。 学者達は星の観測をしているうちに、不思議な光る星を見て救い主の誕生を知り、祝福をするために遠くから黄金、乳香、没薬などの贈り物を持ってイエス様を探しました。 ヘロデ王は救い主であるイエス様の誕生の話を聞いて、驚き、怒り、恐れを感じました。 そして、すぐに祭司長や律法学者達を集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただしました。残酷であることで有名なヘロデ王は、あらゆる手を使って、生まれたばかりのイエス様を殺害しようとしたのでした。 しかし神様は全てのことをご存じで、「ヘロデのところに帰るな」という夢のお告げをされました。そのお告げに従って、学者達は別の道を通って自分達の国へ帰って行きました。 私は、この「別の道」という言葉を霊的に説明したいと思います。学者達は神様の夢のお告げを通して、別の道を選ぶことで、もはや経済や権力の中心を目指す学者ではなく、神様によって与えられた新しい命で生きる道を歩み始めたのかもしれません。生まれたばかりのイエス様を見て、彼らの心の中に真の信仰と希望の光を見出したのではないでしょうか。 さて、学者達は東方から来たと言われていますが、さらに東にあるこの日本にもメシア = キリストの光が届きました。その結果、私達も御子キリストの光を受けて、その輝きを感じながら、キリスト者として生きています。  皆さん、神様は私達にどのよ