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神の母聖マリアから学ぶ-BELAJAR DARI SANTA MARIA BUNDA ALLAH

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神の母聖マリアから学ぶ ( ルカ 2.16 - 21) 皆さん、明けましておめでとうございます。 2022 年は皆さんにとって、どういう年であったでしょうか。楽しいことや悲しいこともあったでしょう。沢山笑ったこと、辛くていっぱい涙を流したこともあったかもしれません。ある人は、新しい命の誕生の喜び、大切な人との死の別れ、ストレス、不安を抱えたことなど色々な事があったと思います。 私は年末にインドネシアの家族や友達から沢山のメッセージをもらいました。その中で、最も記憶に残っているのは、一人の友人からもらったメッセージです。それは、「未来は自分の夢を信じる者のためのものだ」というメッセージです。このメッセージによって、私は励まされ、 2023 年を気持ちよく始めることが出来るような気がしています。 もし 2022 年に願いが叶わなかった人がいたら、 2023 年は、叶うように努力しましょう。自分の夢を心から神様の手に委ねて、努力を重ねる事ができたならば、その夢を必ず実現できると私は信じています。 今日、私達は全教会と共に神の母聖マリアの祝日を祝います。今日の福音書は、イエス様の誕生の状況について語っています。 羊飼い達は、イエス様の誕生の喜びの知らせを最初に受け取りました。彼らはマリア、ヨセフ、そして幼子イエスに会いました。そこでヨセフとマリアは興味深い話を羊飼い達から聞きました。 それは主の天使が近づいて、「今日ダビデの町であなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそメシアである。飼い葉桶に布にくるまって寝ている乳飲み子を見つけなさい。」この話を聞いた後、マリア様はこれらの出来事を全て心に納めて、思い巡らしていました。 聖母マリアは、神様には人類の救いのための美しい計画があると信じたのだと思います。ぜひ、私達もこの聖母マリアから神様の計画を受け入れることを学びましょう。毎日の生活の中で、どのような状況にあっても神様の声に耳を傾け、心から受け入れてください。 私達は喜び、そして悲しみにあっても、常に神様と共にいます。常に心を整えて、神様のみ言葉に耳を傾け、神様の御意志を受け入れてください。その為にも私達はマリア様のような心を持つ事を求められています。聖母マリアのように、私達は試練の多い人生の中で 多くのことに耐えなければなりません。

クリスマス:愛と平和を人々と分かち合う時- NATAL: SAAT UNTUK BERBAGI KASIH DAN DAMAI

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  クリスマス:愛と平和を人々と分かち合う時 ヨハネ 1.1-18 皆さん、クリスマスおめでとうございます。今日の福音書は、ヨハネの福音書ですが、大変格調高い表現をもって、神様とイエス様との深い関係を表しています。特に、神の御子であるイエス様のことを「言葉」と呼び、「始めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。言葉は肉となって、私達の間に宿られた。」ですから、クリスマスとは神様が人間と出会い、共に生き始めたという、最大のイベントの始まりなのです。つまり、イエス様の誕生によって、神様は私達の間にいてくださることになりました。これこそが、クリスマスを祝う、最も大切な理由です。 毎年、私達は必ずクリスマスを祝います。私のインドネシアの地元では、 多くの人が教会に行き、クリスマスツリーを飾り、贈り物を交換し、一緒に食事をし、盛大にお祝いをします。今日私は沢山の友人にメールやラインでクリスマスの挨拶を送りました。皆さんにも、それぞれのクリスマスの過ごし方があると思いますが、今は改めてクリスマスの本当の意味を思い出していただきたいと思います。 皆さんの前に馬小屋があります。この馬小屋をご覧ください。世界の全てを創造され支配される神様は、厩の飼い葉桶に眠る小さな命として、私達と共にいてくださいます。 イエス様の誕生の物語に登場する人達は貧しい状態に置かれている庶民です。マリアとヨセフは、田舎から出てきて出産のために宿屋を借りることも出来ない無力な人でした。羊飼いたちも当時の社会では最も低い立場の人々でした。ここでのイエス様の誕生は、貧しい人達や苦しんでいる人達に喜びと希望、そして生きる勇気を与えました。貧しければ貧しいほど、イエス様は、彼らにとって特別な希望の星であったに違いありません。 私がまだ神学校にいた 2003 年頃に読んだ「マザー・テレサ日々の言葉」という本の 12 月 25 日の箇所にこんな言葉があります。「クリスマスの日、私達は、弱く、貧しく、幼い乳飲み子としてのイエス様を見ます。彼は、愛し、愛されるために来られました。私達は今日の世界で、どのようにイエス様を愛することができるのでしょうか。夫を、妻を、子供達を、兄弟や姉妹を、周りの人達を、そして貧しい人達を愛することによってできるのです。イエス様は全ての人の中におられるのです

ヨセフの態度から学ぶ-BELAJAR DARI SIKAP SANTO YUSUF

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  ヨセフの態度から学ぶ マタイ 1.18 - 24 皆さん、今日の福音書は、私達にヨセフの 決断 から何を学ぶべきかを問いかけています。許嫁のマリアが妊娠したことを知ったヨセフはとても悩んだはずです。彼は沈黙の中で、神様のみ旨を黙想していたに違いありません。悩みや苦しみの時 を経て、ヨセフは 神様のお考えを受け入れたのではないでしょうか。 ヨセフは正しい人であってマリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心しました。考えて見ると、そこには二つの理由があると思います。まず、 マリアへの思いやりに満ちた態度 です。自分とは無関係にマリアが妊娠していることを知ったら、ヨセフとしては縁を切るしかありません。しかし、ヨセフはマリアを辱めないように「ひそかに」縁を切ろうとしたのかもしれません。 次に、 神様への畏敬の念をヨセフの「正しさ」と 考える 見方 です。ヨセフはマリアを 心から 信頼していたので、この妊娠に神様の介入を感じたのかもしれません。そこで自分はこのことに関わるのにふさわしくないと感じて身を引こうとした とも考えられます 。それは、 20 節の「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」からも感じ取ることができます。 結果的に、ヨセフは夢の中で主の天使の使命に「はい」と答えませんでしたが、眠りから覚めると、主の天使が命じた通り、マリアを迎え入れ ようと決断し ました。ヨセフは素朴で謙虚な心で、主の天使の命じた言葉を受け入れ たのだと思います 。 このヨセフが下した決断から、私達は二つのことを学ぶことができると思います。一つ目は、 神様のご意志に従うこと です。 二つ目は、 神様への信仰 です。 マリアを受け入れるということは、 ヨセフにとって理解するのが難しい経験でしたが、彼は神様への強い信仰をもって主の天使の仰ったことを受け止めました。ここで、ヨセフはマリアとイエス様の中に、神様の働きと神様の現存を確信を持って見たのだと思います。 皆さん、もし、ヨセフが前向きに反応しなかったとしたら、マリアやイエス様の存在はどうなったのでしょうか。今、私達がこうして救いにあずかることができるのは、主の天使の命じた言葉に正しく答えてくれたヨセフのおかげです。ヨセフの深い信仰に感謝しましょう。  最後

「主にあっていつも喜べ」BERSUKACITALAH SELALU DI DALAM TUHAN

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  「主にあっていつも喜べ」 (マタイ 11.2-11 ) 皆さん、今日は待降節第三主日です。待降節第三主日は昔から「喜びの主日」と呼ばれます。クリスマスは近いのだという喜びを感じさせてくれます。今日の入祭唱では、「主にあっていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる」ですが、皆さんも同じように喜びを感じておられると思います。この喜びがどのようなものなのかを端的に表しているのが今日の第一朗読の預言者イザヤ書の箇所と言ってもよいでしょう。 イザヤ書は歴史的にみればバビロン捕囚前後を舞台として、荒れ野と化したイスラエルについて語られています。人々は 嘆きと悲しみに満ちてうつむくことしかできなかったと思われます。しかし、イザヤ書はそうではなく、「喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る」と力強く人々を励ましています。 「喜び」とは非常に幸福であるという感情、良いことが起きて非常に満足し、嬉しいという感情です。私達は人生において度々喜びの体験をします。ですが、人生にはむしろ喜びよりも悲しみの方が多いのではないでしょうか。何回もお説教の中で「いつも喜んでいなさい。」といわれても、「なかなかそうはうまく行かないよ」という気持ちになることもあるでしょう。 今日の福音書の中で、イエス様こそ「来られる方」と紹介した洗礼者ヨハネは、「来るべき方は、あなたでしょうか」と弟子を介して尋ねています。それに対して、イエス様は「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。私につまずかない人は幸いである。」とヨハネの弟子達に仰いました。 このイエス様の言葉はこの世の悲しみや苦しみの多い現実の中を、生きなければならない私達への励ましの言葉であると思います。 今日の朗読を読みながら、私は有名な山本有三の「心に太陽を持て」という詩を思い出しました。この詩はドイツの詩人ツェーザル・フライシュレンによるものを山本有三が原詩から訳したものです。 心に太陽を持て 心に太陽を持て。 あらしが ふこうと、 ふぶきが こようと、 天には黒くも、 地には争いが絶えなかろうと、 いつも、心に

悔い改めよ。天の国は近づいた (BERTOBATLAH, SEBAB KERAJAAN SURGA SUDAH DEKAT!)

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  「悔い改めよ。天の国は近づいた」 (マタイ 3.1-12 ) 皆さん、今日私は一つのインドネシアのティモール島の民話についての話から始めたいと思います。昔、天と地の距離はとても近かったと言われていました。ある時、一本の背の高い竹が天に届きました。そして、その竹は天と地の間に梯子のように成長しました。その梯子は、神様が地上に降りてくるために使われました。そして人間が天に昇るためにも使われました。 神様が地上にお立ちになると、人間に梯子を絶対に傷つけてはならないと仰いました。しかし、ある時一人の悪い人が梯子を壊してしまいました。するとその梯子はバラバラになって地面に落ち、天は高く跳ね上がってしまいました。それ以来、ティモール島の人達と神様を結ぶ梯子はなくなってしまったのです。 この民話はティモールの人達にとって、今でもとても大切な意味があります。この民話では当初、神様と人間の関係は非常に緊密で良好であったことを示しています。しかし、人間の欲望のために、人間と神様の美しい関係が壊れてしまいました。その時からティモールの人達は、この民話を通して罪とは何かを学び、悔い改めの大切さを心掛けるようになりました。 罪とは、神様と人間との間に生じた「ずれ」 つまり、 人間が神様に背を向けること です。つまり、神様に反する言葉、行い、また理性に対する逆らいです。そういう行為が、いつの間にか私達の互いの間にも「ずれ」を作ってしまうのかもしれません。 私達は日常生活の中で、自分の悪が明るみに出ることをとても恐れます。時々、私達は罪に蓋をして、 必死に 罪を覆い隠そうとします。自分の罪を認めたくない、見たくないのです。しかし、罪を罪で覆い隠そうとするなら、私達は罪から離れるどころか、罪にどんどん縛られていくのではないでしょうか。 皆さん、今日の福音書では、洗礼者ヨハネが預言者イザヤの呼びかけを繰り返し、救い主イエスを歓迎します。洗礼者ヨハネは「悔い改めよ。天の国は近づいた。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫び続けました。 洗礼者ヨハネが民衆に求めたのは 「悔い改め」 です。 「悔い改め」とは「犯した罪や過ちを反省し、まじめに生きる決意をする」 という意味です。それは単なる 「改心」 というよりも、 「神様に心を向け直すこと」「主に立ち返る」事 だ

「目を覚ましていなさい」「用意していなさい」

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  「目を覚ましていなさい」「用意していなさい」 マタイ 24.37-44 皆さん、今日私達は待降節第一主日を迎えます。言葉どおり、主の降誕を待つ節目の期間となります。 「人の子の現れの日」 であるイエス様の再臨の時をじっと待つことの大切さを学ぶ期間です。 今日の福音書では、イエス様は「目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰ってこられるのか、あなた方は分からないからである。あなた方も用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」と弟子達に仰いました。 皆さん、ここで言う 「目を覚ましていなさい」「用意していなさい」 とはどういうことでしょうか。私は今日の朗読の箇所にその答えが説明されているように思います。 第一朗読では、預言者イザヤは「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」と言われました。第二朗読では、パウロはローマの信徒に「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を見につけましょう」と述ています。まさしく、「主の光の中を歩む」「光の子として歩む」「光の武具を身につける」等の教えは 私達の信仰の要 であり、神の再来を待つための準備についての教えです 。 私達はイエス様の再来がいつかは分かりません。ですから、いつどんな時においでになっても、イエス様を迎えることができるように 準備して待つこと が必要です。つまり、私達は常に 祈りながら 待つようにと求められている のだと思います 。私達の 「待つ姿勢」 とは良い行いをしながら、イエス様の到来を待つことです。救い主がおいでになるのですから、何かが必ず変わるはずです。ここで、 「自分の中で、何かが変わる」「私達の教会で、何かが変わる」 そういう心構えで主の降誕を待つのがよいと思います。 残念ながら、私達は新型コロナウィルスの状況の中で、主の降誕を迎える準備をするのは、今年で 3 回目となりました。コロナと共に生きていく事が日常的になってきていることに、不安を感じます。 私達はこれまで、経済が発展して、暮らしが豊かになること、便利になることを最優先に生きてきました。そして、その結果、地球温暖化を生み、自然災害に苦しんでいます。戦争で、人と人が傷つけあっています。残念ながら、私達にも責任があります。私達は改めて地球に、そして人にやさしい生き方をしなければならない時が来たと思います 。 私達が何