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神様への祈りーBELAJAR DARI SERUAN MARTA; TENTANG BERDOA KEPADA TUHAN

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  神様への祈り (ヨハネ 11.3-7,17.20-27.33b-45 ) 今日は四旬節の第5主日です。今日の福音書は洗礼志願者がイエス様との出会いを深め、信仰の決断をするのを助けるために選ばれています。キリスト者にとって祈るとはどうあるべきかを問いかけている、とても大切な物語です。 今日の福音書はラザロの復活の話についてです。このラザロの物語で私が注目したのは、マルタの訴えです。「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょう。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、私は今でも承知しています」そう言ってマルタはイエス様に不満をぶつけました。 自分の思いを率直にイエス様にぶつけていくマルタの姿勢、ここには私達の祈りのためのヒントがあるかもしれません。それは、マルタがラザロの為に祈り尽くしたうえで、イエス様に心から訴え、願いを叶えてほしいとすがる場面です。マルタの信仰の強さ、純粋な心、そして勇気を感じ取ることができます。神様は私達一人一人の想いや行動を全てご存知です。そのうえで、救いの働きに繋がるのです。このことを私達は学び、実行していかなければならないと思います。 もう一つ注目すべき点は、イエス様はラザロが重体であると知らせを受けたにもかかわらず、イエス様が実際かけつけるのは、ラザロが葬られてから四日後でした。なぜ、イエス様はこのような決断をされたのでしょうか。それは、イエス様の無関心さや冷淡さから来るものではなく、あくまでも愛から来る遅れだったのではないでしょうか。それは人間的には遅れに感じても、神様の目から見れば、ベストタイミングだったのかもしれません。神様のなさることは、全て時にかなって美しいのです。 神様は全てをご存じで、もっともふさわしい時を備えておられます。ですから神様はちゃんとマルタの努力と彼女の深い祈りを理解されたうえで、ラザロを復活させる時を待たれたのだと思います。 私達は願いがある度に神様に祈ります。ですが、自分の都合だけで、神様に祈っても、願いが叶うというわけではありません。神様には正しい時があります。私達はその正しい時を待ちながら希望を持って努力を続けて、祈りの日々を重ねていきましょう。 イエス様は心からラザロを愛しておられました。そして、イエス様は私達をラザロと

神様の光を心で見るーMELIHAT CAHAYA TUHAN DENGAN MATA BATIN

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  神様の光を心で見る (ヨハネ9 .1 、6-9,13-17、34-38) 今日は四旬節の第四主日です。 聖書朗読のテーマは「神様の光」です。第1朗読では 「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」という言葉、第二朗読では使徒パウロの「以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれ光となっています。光の子として歩みなさい」と言う言葉が示されました。 そして、今日の福音では目の見えなかった人がイエス様によって見えるようになったという奇跡の業の話を通して、目の見えている人達でも心からイエス様を信じることの出来ない人は、罪人であり、心の目を閉じているのと同じだという事を教えてくださいました。 当時の社会には「病気や障害は罪の結果である」という考えがありました。それに対し、イエス様は個々の人の罪とその人の病気や障害の関係をはっきりと否定されました。イエス様の関心は「今、神様はこの人に何をなさろうとしておられるか、自分はこの人に何をすることができるか、どう関わるべきか」というところに注目されました。それは、皆さんが本当にイエス様を信じているのかを試されているという意味でもあります。 イエス様は目が見えるようにしたという癒しの業を行いましたが、それは私達への教えではありません。私達がいかに霊的な目と耳でイエス様を救い主と感じ、そして信じることが大切であると教えてくださっていると思います。 私達は本当にイエス様の光を感じながら生きているでしょうか。私達が心からイエス様を信じ、イエス様を礼拝するようになるまでには時間がかかります。しかし、どんなに時間がかかっても、どんなプロセスを通ろうとも、今日の福音のように「主よ、信じます」と告白し、イエス様を礼拝する者になりたいと思うことこそが、洗礼をうける為の絶対条件になります。 キリスト者として、私達は洗礼を通しイエス様の光を受けて、イエス様を身近に感じ、イエス様の御言葉を生活の中で実行することができれば良いのです。霊的な目と耳を持ってイエス様の愛の中で生きて行きましょう。 教皇フランシスコは「イエス様との友情を育てる方法は、主のみ言葉に耳を傾けることです。主イエスは私達の良心の深いところで語られ、聖書をとおして、また祈りの中でも語られます。主イエスのみ前で、沈黙の内に聖書 とくに福音書を読んだり黙想したりして

イエス様の渇きに心を寄せる-MENANGGAPI RASA DAHAGA YESUS

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  イエス様の渇きに心を寄せる ヨハネ 4.5-15,19b-26,39a,40-42 皆さん今日の朗読は、古代から伝わる洗礼志願者のための福音朗読の一つで、洗礼志願者がイエス様との出会いを深め、信仰の決断をするのを助けるために選ばれた箇所です。洗礼をすでに受けておられる方も是非、洗礼を頂いた時の事を思い出しながら聞いて頂きたいと思います。 今日の第 1 朗読では、エジプト脱出後、荒れ野でイスラエルの民がどのように渇きをいやしたかが、語られました。モーセは神様に叫び、祈り、水の奇跡が行われ、人々はいやされました。水はまさに命のシンボルとなりました。 第 2 朗読の中で使徒パウロは、私達の心に与えられる聖霊について語りました。私達は主イエス・キリストによって神様との間に平和を得ています。そして信仰によって今の恵みに導かれ、神の栄光にあずかる希望が与えられます。私達は渇き求めるように神様の愛を求めるのです。それは信仰によってこそ満たされると思います。 今日の福音書ではサマリアの女性とイエス様の出会いが描写されています。旅に疲れたイエス様は水を汲みにきたサマリアの女性に、「水を飲ませてください」と ​ 仰い ​ まし ​ た。 これ ​ を ​ 聞い ​ て ​ 女 ​ は ​ 非常 ​ に驚きまし ​ た。なぜ ​ なら、イエス ​ 様は ​ ユダヤ ​ 人 ​ で、サマリア ​ 人 ​ の女に話しかけられたからです。イエス様の時代、サマリア人はユダヤ人からは当然のように差別されていました。しかし,イエス様 ​ は彼女に対して「水を飲ませてください」と言って彼女と関わり持ちました。それは「あなたも渇くし、私も渇く」という身分の垣根を超 えた連帯感を表しているように感じます。 この女性はイエス様と会話を交わす内に、自分と話している男性がメシアーキリストであると気づきます。彼女はイエス様を心から敬い、信仰への道を歩み始めます。そして町へ行き人々にイエス様の教えを広めました。私はこれこそが洗礼の恵みであり、洗礼を受けた者の福音を伝えるという使命であると思います。 イエス様は彼女と出会うために、一人の喉の渇いた旅人となってくださいました。イエス様はけっして、私達が訪ねてくるのをただ黙って待っておられるお方ではありません。疲れ果てた私達の傍らに座り

神様との出会いの実り-BUAH PERJUMPAAN DENGAN TUHAN

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  神様との出会いは実り マタイ 17.1-9 皆さん、今日は四旬節第2主日です。古代からの伝統に従い、毎年「イエス様の変容」の場面が読まれます。山の上でイエス様の姿が光り輝いた、この変容の出来事は、ただ単に「偶然ある時、イエス様の栄光の姿が現された」のではなく、「イエス様が受難と死を受けることになる栄光の姿が前もって示された」という出来事です。ここには、「イエス様の受難・死・復活にあずかる」という四旬節全体の根本的なテーマが示されています。 今日の福音ではイエス様は12人の弟子の中からペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を選び、高い山に登って祈りました。そこに、旧約聖書の預言者であるモーセとエリヤが現れました。すると、イエス様の顔が変わり、姿はこの世のものではない純白の輝きに包まれました。イエス様はモーセとエリヤとご自分の最期の時のことについて語り合いました。その中で、イエス様は御父の深い愛、託された使命を感じられたのだと思います。 三人の弟子は、イエス様たちの会話を全く理解出来なかったものの、神様の存在を目の前で感じて、畏敬の念で心がいっぱいになりました。そして、御父の「これは私の愛する子、私の心にかなう者。彼に聞け」という声が響きました。三人の弟子は御父の「彼に聞け」と言われた言葉に恐れながら耳を傾けました。 この出来事からの学びは、イエス様の声と呼びかけを聞くということです。神様と出会う者は新たに使命を与えられます。人間は新たに生まれ変わり、新しい使命と共に、自分の中の心の変化を感じることができるでしょう。それこそが変容です。神様との出会いや神様に与えられた使命を感じることこそが神様の声を聞くと言うことだと思います。 私も司祭になろうと決心した時、祈りと黙想、聖書を読むことで、神様と向き合い、神様の御意志をよく聞きました。そして、私は神様と共に体験したことの実りを 1 人でも多くの人に伝え、自分が受けた恵みを分かち合いたいと思って司祭になりました。神様に出会った弟子達も、イエス様の変容を目にして、信仰を固めて、後に来る幸せを信じ、その幸せを多くの人と分かち合いたいと思ったのではないでしょうか。 もう一つの学びは、イエス様が素直に御父が定めた苦難に満ちた運命を受け入れられたという事です。神の子でありながらも苦しむしもべの姿で、その道を歩ま

信仰心で誘惑や試練に勝つ-MENGATASI GODAAN SETAN DENGAN PERCAYA PADA TUHAN

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  信仰心で誘惑や試練に勝つ マタイ4 .1-11 皆さん、四旬節が始まりました。今日は四旬節の最初の主日です。毎日の時間はあっという間に過ぎ去り、私達は様々なことに翻弄される生活を送っています。ですが教会の典礼の暦は 私達が忙しい日々の中でも、立ち止まり、神様と時間を共に過ごすことを勧めています。 四旬節には、特に断食という行為を通して回心「主に立ち返ること」、もっと具体的に言えば「祈り、節制、愛のある行い」が強く勧められています。この四旬節の間、これらのことを心に留めて、私達の信仰の中心であるイエス様の死と復活の記念にあずかる準備をしていきましょう。 この四旬節の最初の主日の福音書は、イエス様が、荒野で悪霊の誘惑と戦う 40 日間の話から始まります。このお話は、単なる誘惑や試練に打ち勝つというようなことではありません。それは、この世の苦しみや受難と私達の信仰心が、どのように関係しているのかを教えていると思います。  今日の福音書ではイエス様は三回の誘惑を受けたことが記されています。最初は、イエス様が荒野で断食をされている時に悪魔がやって来て「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」と誘いました。二回目は、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」。三回目は、「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。」つまり権力を与えるという誘惑です。これは信仰を試す誘惑でした。 今日の福音の教えを私達の生活に例えて考えてみましょう。皆さん、日々の生活の中で、あなたにとって大事なことは何ですか。成功ですか。どのように人から見られているかいつも気にしていますか。人からの評価や評判ですか。どんな社会的な影響力を自分は持っているか気になりますか。ある人にとっては、社会的な成功、評価、権力はとても大事なものです。しかし、キリスト者として、私達の受け止め方はどうあるべきなのでしょうか。 残念ながら、私も含め、多くの人が成功、評判、権力のことを気にしたり、追い求めたりします。これが、現実ですが、そういう時こそ、神様が私達に何を望んでおられるかを忘れてしまっている時です。私達は知らずに、サタンの誘惑に負けているのです。 例えば、お金がない、人から良く思われたいのに、他の人から理解されない、いつも心が不安定で、落ち着かない状況です。豊かになりたいがゆえ

敵を愛する時、平和が生まれる-MENCINTAI MUSUH ADALAH KUNCI PERDAMAIAN

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  「敵を愛する時、平和が生まれる」 マタイ 5.35-48 皆さん、今日の福音書も先週に引き続き、山上の説教の一部です。この山上の説教の中でも、最も有名な言葉の一つが、今日の福音個所「隣人を愛し、敵をも愛しなさい」です。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とイエス様は弟子達に仰いました。 当初、イスラエルの人々は、自分の周りの人々、家族、親類、あるいは、同じ部族、同じ集団の人のことを「隣人」と考えていたようです。しかし、イエス様の教えが次第に明らかにされるに従って、隣人というのは、自分たちの枠「イスラエル民族」という枠を超えた外にいる人々、そして、全ての人を指すというようになったのだと思います。 イエス様の時代においても、敵を愛するのは簡単なことではありませんでした。多くの人々はイエス様の言葉はあまりにも理想的であり、非現実的だと思われたかもしれません。当時の人々の暮らしには、心の余裕も無く、多くの人は殴られたら殴り返すことが正義だと思っていたのではないでしょうか。 現代の私達の生活の中でも、敵を憎む感情を避けて生きることは難しいことです。しかし、今日の福音書において、イエス様は敵を愛さない限り、平和は生まれないことをお示しになりました。つまり、平和をつくり出す時に、最も大事なことは「愛すること」です。人に対して、いじわるをせず、冷たくせず、いつも相手を尊敬し、大切にし、優しく、親切に、思いやりを持って接する時、仲良く平和に過ごすことができます。愛こそ平和をつくり出すのです。 このイエス様の教えは、決してユートピア的な考えではありません。それどころか、私達が人間として生きていくうえで、絶対必要な教えなのです。隣人を愛するということは、隣人に害を与えないだけではなく、心の中で人々に恨みを抱くことのないようにしなさいという事です。 ですから、「敵を愛する」ということは、人に対して恨みを抱かない、そして赦すということから始まります。私達は他の人の中にある良いこと、美しいことを見つけるように心がけましょう。 2 月 6 日にトルコとシリアの国境付近で大きな地震が起きました。 4 万 2 千人以上が亡くなり、多くの人が全てを失いました。シリ

神様の律法-TENTANG HUKUM TUHAN

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  神様の律法 ( マタイ、 5.20 ― 22a 、 27 - 28 、 33 - 34a 、 37) 皆さん今日の福音書も引き続き、山上の説教の一部です。山上の説教全体を見れば、神様が望まれる人間の生き方を、愛という一点に集中させる「愛による完成の道」を説いています。また、人間の力ではなく、神様への信頼の内に神様のみ旨を果たす「神様による完成の道」だと教えています。 今日の福音書の中で、イエス様は律法について次のように仰いました。「私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」 イエス様の時代のユダヤ人、特にファリサイ派や律法学者は熱心に律法を学び、守ることこそ、神様に従う道であると信じていました。そして、それを貫くために死に至るような罰を与えました。イエス様は決して律法や預言者を否定しませんでしたがイエス様の律法に対する態度は、律法学者やファリサイ派の態度とは明らかに違っていました。 つまり、彼らは掟の文字を守っても、掟の心を忘れていたからです。例えば「殺してはならない」という掟は理解していても、それが「兄弟に腹を立てる」「ばかと言う」「愚か者と言う」ことが、それらと実は繋がっていることを理解していなかったのです。 「殺す」とは外面的に「殺す」ことだけではありません。例え人を殺さなくても、憎んだり侮辱したり、差別やいじめによって、十分に人の心を苦しめるのです。それは「殺す」ことと同じ痛みです。 それに対して、イエス様は弟子達に自分が教えた律法を真摯な気持ちで理解するよう教えました。全ては神様から愛を受けた体験から始まります。掟の実現とは人に対してその愛を分かち合うことです。愛の法則は、敵とみなされる人々がもはや存在しなくなるまで、全ての人間を愛しなさいということを意味します。イエス様はあくまでも、人の一生を律法の光、特に「愛」に貫かれていると説いておられます。 今日の福音書を通して、私達も自分自身に問いかけてみましょう。私は、他人に対して不当な言葉や不適切な言葉をかけているでしょうか。ほとんどの人は、ご自分はほぼ正しい言葉や態度で生きていると答えると思います。でも本当にそうでしょうか。残念ながら私達は相手の心の底まで理解することが出来ません。うっかり他人を非難し、卑下し

「塩」と「光」- TENTANG GARAM DAN TERANG

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  「塩」と「光」 マタイ 5.13-16 皆さん、今日の福音は、先週に続いて山上の説教が読まれます。イエス様は「光」と「塩」の例えで、「幸い」にあずかる人に、この世界での使命を与えられます。イエス様は「あなたがたは地の塩であり、あなたがたは世の光である」と仰いました。 皆さんもご存知のように、塩は生活に不可欠なものです。塩がなければ食物は腐りますし、塩を入れない料理はおいしくありません。つまり塩は他のものの中にあって働きます。 一方、光は闇を照らし、ものの形を明らかにします。光は自分のために輝くのではなく、相手を照らすために輝きます。「闇に住む民は光を見た」この光は神様から出るものです。この光を受けた者が光り輝く事ができるのです。 このことからも、塩も光も私達キリスト者にとって、とても大切なものであるという事を心に留めておいていただきたいと思います。 イエス様に「地の塩、世の光」と呼びかけられた人々は、社会の有力者でもなく、信仰のあつい人々でもありませんでした。普通の人々、むしろ普通以下の、社会的影響力を持たない人たちでした。貧乏人や罪人や障害者など社会から差別され、疎外されていた人々でした。 この世では差別と迫害を受けてきた彼らがイエス様によって無条件に迎え入れられ、心身の病が癒され、イエス様の周りに集められたのです。そして、その彼らに対して、イエス様は「疎外されて来たあなたがたこそがまさに地の塩であり、世の光である」と語られ、一人一人に生きる使命、キリスト者としての使命を与えられたのだと思います。 今日の福音を通して、イエス様は私達一人一人が他の人にとって価値があることを示してくださいました。 地の塩、世の光であるとは、キリスト者として周りを感化することではなく、社会を改革するために熱心に行為することでもありません。私達は自分の罪を知り、他者の悲しみを共に悲しむことが出来ます。苦しんだことのあるからこそ、他者の苦しみを理解できます。だから私達は悲しむ人を慰め、苦しんでいる人を励ますことが出来るのです。これこそが私達に求められる使命なのではないでしょうか。 皆さん、今日の福音によって信仰をさらに深め、これからも善いことを行い、自分の名誉を求めてではなく、神様への感謝と人々との連帯意識をもって生きていきましょう。また、今日の