Posts

小さい者を最優先に考える-DOING SMALL THINGS WITH A GREAT LOVE

Image
小さい者を最優先 に考える マタイ 25.31-46 皆さん、今日、私達は全教会と共に王であるキリストの祝日を祝います。イエス様は世界のあらゆる力よりも優れておられる唯一のお方です。 今日の福音書の中では、イエス様が強調していることは二つあると思います。まず、神の国に入るためには、私達は喜んで最も小さい者達、つまり社会的弱者を大事にしなければならないということです。彼らは社会から忘れ去られてしまう人、いつも人の助けが必要な人、空腹な人、病気の人、牢屋の中にいる人かもしれません。 次に、貧しい人や避難民を助けることは、イエス様ご自身に尽くすことと同じことであるということです。ヨハネ 15 章 12 節「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合う。」つまり、困難に苦しむ人々の人生の内に、イエス様がおられるのです。 私達の周りには様々な苦労をしているお友達が、たくさんいます。私達は苦しんでいる人々の心に寄り添いながら、愛を持って支えてあげることを求められています。確かに、愛を表すのに犠牲が必要な時もあります。イエス様が私達のために犠牲を払って十字架にかけられて愛を示されたように、私達も犠牲を払ってでも、行動を通して、最も小さい者達、困っている人達に愛を捧げましょう。 今日の福音を読むと、モナシュ大学に初めて行った時のことを思い出しました。サザンクロス駅前で、ホームレスの人達がお金を求めていました。多くの人が通り過ぎますが、彼らを気にかける人はなかなかいませんでした。神様が彼らを必ず気遣われ、いつか救いがある様にと祈りました。同時に祈ることしかできない自分が少々恥ずかしくもありましたが、それが今自分にできる最大限のことだと思い直して、更に祈りました。 私達と同じように先の見えない不安の中で生きている人々が、希望の光を待ちわびながら、世界中で祈っています。特に、難民や戦争の中で生きる人々、食糧不足に苦しむ人々など、私達の助けを切実に必要としています。今こそ、お互いに助け合い、励まし合いながら、前に進み続けましょう。そして私達を見守ってくださるイエス様がどんなに苦しい時にも共におられることを、毎日、思い出してほしいと思います。明るい未来が必ず来ることを信じて祈りましょう。 皆さん、今週もお元気にお過ごしください 主の平和 D

神様に与えられた才能に責任を持って生きる-BE RESPONSIBLE FOR THE GIFTS THAT GOD HAS BESTOWED UPON US

Image
  神様に与えられた才能に責任を持って生きる マタイ 25.14-30 今日の福音書の中でイエス様は私達に興味深い例え話をなさいました。それは、ある主人が旅行に出かける時、しもべたちを呼んで、自分の財産を一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けました。 主人は「それぞれの力に応じて」しもべたちに財産を預けました。主人はしもべたちが預かった財産をどのようにして最大限に管理できるかを確かめたかったのだと思います。しもべたちに預けられたタラントンの金額の違いは、しもべたちがその財産を管理する能力の象徴だったのかもしれません。 福音書の中で、五タラントンを預かった者と二タラントンを預かった者は財産を上手にそれぞれが 100 %の利益を上げました。一方、一タラントンを預かった者はそのお金を増やすことなど考えませんでした。彼は穴を掘り土の中に一タラントンを隠しただけでした。 今日の福音書の例え話からの教えは神様が私達一人一人に異なる才能をお与えくださったということです。それは才能、専門知識、能力、資産であるかもしれません。しかし、与えられた才能の目的は皆同じです。つまり、神様の栄光と他の人の幸せのために、私達の生活の中で様々な才能を自分なりに最大限に開かせることが私達に求められているのです。神様が私達に託してくださった才能に感謝し、キリスト者としての使命、責任を持って生きていきましょう。 私はギターやピアノを弾くのが好きです。音楽は私に新たな活力を与えてくれるだけでなく、他の人達にも喜びを与えることが出来ると思います。吉祥寺で説教の後に歌ったことは良い思い出です。それは、神様の栄光を讃える為でもあり、そして人々の幸せのために、神様が私に託された才能だと思います。 皆さんも色々な才能を持っていると思いますが、最も大切な才能は信仰だと思います。信仰を持っているならば、神様がさらに 私達の信仰を強めて、辛いことがあっても前に歩んでいく力を与えてくださいます。自分の良さを、自分の恵みを、生かしていく、あるいはそれに向かって、それをさらに生かしていける、そのような恵みを求めながら祈りましょう。 皆さん、今週もお元気にお過ごしください。 主の平和   BE RESPONSIBLE FOR THE GIFTS TH

常に心を神様に向けて生きる-TURN YOUR HEART TO GOD

Image
  常に心を神に向けて生きる マタイ 25.1-13 今日の福音書ではイエス様は弟子達に天の国の存在に応じた人間の態度について語っています。天の国は、十人の乙女がそれぞれのともし火を持って、花婿を迎えに出て行くことに例えられました。さらに、この例え話の中でイエス様は 3 つの登場人物の性格を花婿、 5 人の賢い乙女、 5 人の愚かな乙女を通して示してくださいました。 この福音書のメッセージは婚姻の準備の為に油を入手していたかどうかは問題ではありません。問題なのは私達が信仰を持って神様の御心に従っているかどうか、つまりイエス様を救い主として信じているかどうかです。もしその信仰を持っているなら、それがたとえからし種ほどであっても、その人は必ず天の御国に行く事が約束されるのです。 この福音から学ぶ事は賢明である事です。私達の生活において、賢明な態度と行動は自分の人生の目標を達成するために必要不可欠だということだと思います。 イエス様は私達が永遠の命のために日常の生活の中で準備することを望んでいます。私達が目指すのは神の国ですが、この世界は神の国に行く準備をする場所でもあります。神の国に行くためには最も心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、神様を大切にし、そして隣人をも自分のように大切にすることです。皆さん、心が常に神様に向いているかを感じながら生活しましょう。  最後に、皆さん、ハマスとイスラエルの状況についてどう思いますか。残念ながら彼等の憎しみ、そして戦いの歴史は何千年も続いています。もし彼等が聖書を通して今日の福音を読むならば、彼らも神様と隣人を大切にしなければならないと思うはずです。そうでないのが残念でなりません。 和平を結ぶには各当事者が賢明かつ謙虚でなければなりません。これ以上パレスチナ難民が増えるのは見るに耐えません。イスラエルとハマスが戦って人の命を奪いビルを壊すことに何の意味があるのでしょうか。彼等にも信仰があるならば、今すぐにでも悔い改め、罪の赦しをいただき、神様の救いの恵みに拠りすがり、憎しみから慈しむへと心を向けて欲しいと思います。皆さん、ご一緒に今世界各地の戦場で苦しんでいる全ての人達に一日でも早く平和が来ますように祈りましょう。 主の平和   TURN YOUR HEART TO GOD My d

神様に仕える人になる-BECOME A FIGURE WHO SERVES GOD IN SERVICE TO OTHERS

Image
  神様に仕える人になる マタイ 23.1-12 皆さん、今日の福音でイエス様は謙遜の霊性について教えておられます。イエス様は「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、かえって皆に仕えることになるであろう」と仰いました。「仕える」という謙虚な態度を具体的に示されたのはイエス様です。 今日の箇所では次の 2 点に要約できます。「言うだけで実行しない」ことと「行いは人に見せるため」ということです。この助言の主な対象は最も傲慢で独善的であったファリサイ派の人々と律法学者に向けられたものでした。ファリサイ派の人々と律法学者達は教えるだけで、その教えのように生きていないことが問題でした。それはあくまでも「人に見せるため」のものだったのです。 彼らが神様とその愛の本当の意味を理解できなかったのだと思います。神様の愛の中に生かされるということは人の評価に執着するという生き方から、神様の栄光を求め、人に仕える歩みへと導かれていくという生き方に変わっていくことです。 「仕える者」「へりくだる者」となられたイエス様の受難の姿が私達の心に迫ってくるとき、私達も、父である神の前での兄弟姉妹として共に生きること、教師であるイエス様の前での弟子としての平等であることを心から喜ぶことができるようになりましょう。 さて、日本は秋真っ盛りで寒くなってきていますが、メルボルンはどんどん暖かく暑くなってきました。私は毎日英語を学んで、人類学の勉強の準備も始めています。時々大変だと思いますが神様の恵みを感じつつ、皆様の祈りのおかげで一歩一歩前に進んでいます。私は司祭として、そして学生として、「神様に仕える者」として、日々過ごしています。皆さんも毎日お忙しいとおもいますが、今週も皆様お元気でお過ごしください。 主の平和 BECOME A FIGURE WHO SERVES GOD IN SERVICE TO OTHERS   My dear brothers and sisters in Christ. In today's Gospel, Jesus teaches us about the spirituality of humility. In my opinion, the spirituality of humility is one aspect of

愛について-ABOUT LOVE

Image
  「愛について」 マタイ 22.34-40 皆さん、今日の福音書でイエス様は私達に愛には二つの掟があることを示してくださいました。一つ目の掟は神様を愛することです。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。イエス様は神様を愛する手段として、人間の生活において最も重要な 3 つのことについて言及しています。それは、心、精神、そして思いです。これは、神様を愛することにおいて、心、精神、そして思いの間に調和がなければならないことを意味します。「神様を愛する」ということは、口先で愛を語ったり、気持ちで愛するということではなく、心から仕えることです。 二つ目の掟は、隣人を愛することです。「隣人を自分のように愛しなさい」。これは、私達に弱点があるように、他の人の弱点に対して忍耐を持って受け入れることを意味します。 皆さん、私達にとって愛とはどういう意味なのか改めて考えてみましょう。例えば、恋をしている二人に尋ねた場合、愛はいつまでも一緒に時間を過ごすことを意味するかもしれません。赤ちゃんを持つ両親だったら、愛は夜遅くても赤ちゃんの世話を喜んですることを意味します。そして子供の幸せのために犠牲を払うことをいとわないという行為です。先生にとって、愛は大きな犠牲を払ってでも学生の成長の為に指導することです。司祭にとって、愛は精神聖霊を尽くしてミサを捧げ、人々のために奉仕することです。要するに、愛は情熱をもって献身、そして犠牲を捧げることであると思います。 さて、皆さんも戦争のニュースを毎日聞くたびに、自分の無力さを感じていることと思います。神様を愛するという人達が、人々を迫害し、戦争を起こし、人々を殺害してきた歴史があります。また、私達の毎日の生活でも同じことが言えるでしょう。神様を愛すると言いながら、隣人を愛することが出来ない、兄弟姉妹を愛さないどころか、憎しみさえ持ってしまう。だから『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という戒めが必要なのです。 私達は愛を込めて、兄弟として他人の存在を尊重しなければなりません。言い換えれば、私達が本当の愛を持てば、血のつながりはなくても、他の人を私達の兄弟姉妹として見ることができるはずです。私は現在戦いの中で生きている人達も、憎しみだけで生きているのではないと思います。彼等も私達

行動を伴わない信仰は信仰ではない-FAITH WITHOUT WORKS IS ESSENTIALLY DEAD

Image
  「行動を伴わない信仰は信仰ではない」 マタイ  22.15-21 皆さん、今日の福音書では、ファリサイ派の人々とヘロデ派の人々が一緒にイエス様の所に行って、尋ねるところから始まります。「先生、私達は、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え誰をもはばからない方であることを知っています。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」。 彼らはイエス様に対して大変失礼な質問をしました。イエス様が皇帝に税金を納めるために「はい」と言った場合、ファリサイ派の人々はイエス様が本当のユダヤ人ではなかったと主張したはずです。イエス様が「いいえ」と答えた場合、ファリサイ派の人々はイエス様が反ローマの「挑発者」であり、罰に値すると吹聴したに違いありません。イエス様はどちらに答えても、もう一方を敵に回すことになります。 そこでイエス様は並外れた賢い答えをされました。イエス様は彼らに税金を納めるための金貨を見せるように命じ、お金に誰の像が刻まれているかとお尋ねになりました。彼らは「皇帝の像がきざまれています」と答えました。するとイエス様は「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とお答えになりました。 彼らはイエス様の答えに驚きました。 イエス様の答えは、社会生活において賢明で公正であれ、ということを私達に教えています。これは、私達が私生活と教会の生活をきちんと両立なければならないということを意味していると思います。先週の福音書で、全てのものは神様へ、ということを学びました。神様のものを神様へ、というのは、愛の関係以外のなにものでもありません。神様から多くの恵みをもらっているからこそ、私達は愛によって応えなければなりません。 それは私達が守るべき原則だからです。イエス様が、見事な返事をした内容に、私達は信仰の原則である愛を持って生活する必要性があることを改めて確認していただきたいと思います。 口先だけの信仰は信仰ではありません。御ミサの時だけの信仰は信仰ではないのです。生活の中でイエス様の御言葉や問いかけに愛を持って行動することが、本当の意味での信仰生活です。 ところで、数日前、モナッシュ・カレッジで英語を一緒に勉強している二人の日本人と回転寿司を食べました。メルボルンの回転寿司を食べるのは、私も彼

神様の招きに答える-ANSWERING GOD'S INVITATION

Image
  「神様の招きに答える」 マタイ 22.1-14 皆さん、今日の福音書は、これまでの「二人の息子」や「ぶどう園と農夫」の例え話と同様でこれも神殿の境内で、当時のユダヤ人の指導者やファリサイ派の人々を前にして語られた例え話です。前の 2 つの例え話と同じように神様の国への招きを受け入れなかった人々が批判されています。 イエス様は天の国を結婚の披露宴に例えています。結婚の披露宴には多くの人が招待されましたが招待された人の多くは来ませんでした。彼らはそれぞれの活動に夢中だった、またはそれ以上に優先することがあったのかもしれません。彼らは結局、招かれたことの素晴らしさやありがたさを本当には感じることが出来なかったのではないでしょうか。 それでは、今の私達は神様の招きをどう受け止めているでしょうか。神様が私達に差し出してくださる招きは、救いへの呼びかけです。それは、結婚の披露宴の招待のようなものです。そして神様からいただく招きは救いの恵みとなり、それは全ての人に開かれています。しかし、私達はしばしば自分達の仕事で忙しく、神様からの救いの招きに耳を傾けようとしない時があると思います。神様の招きは時として、面倒なことや苦労を伴うことが多いからです。 イエス様に従う為には誠実であることが求められます。残念ながら積極的に神様の声に耳を傾け、誠実な態度で実行することは簡単なことではありません。なぜなら、私達は多くの誘惑に心を惑わせ、自分中心に物事を運びたいと思うからです。それゆえに、イエス様は「多くの人が呼ばれるが、選ばれる人は少ない」とおっしゃったのです。どうぞ皆さん、イエス様の教えに従い、キリスト者として、そして選ばれた者として恥じない生き方を目指していただきたいと思います。 現在、イスラエルとハマスの間で戦争が起きています。パレスチナの人々は水やガス、食料などが無いなかで、逃げ回っています。これまで、イスラエルとパレスチナは何回も戦争を繰り返してきました。そして、その度に多くの人が亡くなり、和解することが出来ませんでした。彼らはユダヤ教とイスラム教との戦い、そして過去の過ちを繰り返しながら戦い続けています。 教皇フランシスコはこれまで何度も何度も私達に世界平和の為に祈るように求めました。皆さん、戦争は世界中で起きています。ウクライナ、ロシア、イスラエ

全ては神様のもの-EVERYTHING BELONGS TO THE LORD OUR GOD

Image
  全ては神様のもの マタイ 21.33-43 皆さん、今日の福音は、先週の「二人の息子」の例えに続いて語られた例えです。この例え話にはイエス様が示された次の人物が登場します。それは、一人の主人、農夫達、しもべ達、そして息子です。 実りの季節になったので、主人はしもべ達に収穫を受け取るために畑に送りました。しかし、雇人達は主人が遣わしたしもべ達を全て殺してしまいます。全ての収穫は自分たちのものだ、と主張したのです。次に、雇人達は主人が遣わした息子までも殺してしまいました。 これは、農夫達の残虐なふるまいが強調されて描かれています。農夫達の非道さは当時の外国の支配下にあったガリラヤ地方で外国の地主の元で搾取されながら、貧しい生活に耐えていた農民の辛さを物語っているのかもしれません。そしてこの農民達の行動は、イエス様を十字架の死に追いやった律法学者、長老、祭司達の中にも見ることができると思います。 ここに出てくる農民達も主人に雇われていますが、私達の人生も この世の全てのものも、結局は神様から借りてるだけのものであるということを思い起こさなければならないと思います。結局私達は全て神様から借りてるわけで、それを自分のものだと思うところに、私達の罪が生じてくるのかもしれません。 全ての物を借りてるからこそ、自分に与えられてる時間も、エネルギーも、人間関係も大切に謙虚に生きなければなりません。粗末にしてはいけないのです。自分のものだから大切にするのではなく神様のものだから大切にするのです。 ところで先週の土曜日、神言修道会の神学院でミッション・デイの活動がありました。この活動のテーマは、「あなたの光は他の人の前で輝かなければならない」でした。中国人、フィリピン人、ベトナム人、インドネシア人、オーストラリア人がこの活動に参加しました。私はモナシュ大学で一緒に勉強している一人のイラン人を誘いました。それぞれの宗教は違っても、神学院での活動に参加してくれたことが大事だと思いました。 このイベントはパラマタのヴィンセント・ロン・グエン司教様のセミナーから始まりました。この活動は、若い人達が神学院に行き、司祭になるために、召命を促進することも目的としています。神権への召命への招きに気づいた人は洗礼へと導かれます。ですが洗礼を受けることだけが神様と繋がって

義の道を生きる-LIVE AND WALK IN THE PATH OF RIGHTEOUSNESS

Image
義の道を生きる マタイ 21.28-32 皆さん、今日の福音書でイエス様は先週の「ぶどう園と農夫」の話に引き続き神様の意志に対する義の道に沿った生き方について話してくださいました。 この例え話には 3 人の人物が登場しています。それは、父親、長男、そして次男です。 父親は 2 人の息子の所に行き、同じことを言いました。「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」。 父親の話を聞いて、兄は「いやです」と答えましたが、後で考え直して、ぶどう園で働きました。しかし弟は「お父さん、承知しました」と答えましたが、働きに出ませんでした。ここで分かるのは、 2 人の息子が対照的な性格であるということです。 この例え話の重要な点は、否定の「いや」から肯定の「はい」への転換というところにあります。兄のほうは否定から肯定への転換であり、弟のほうは肯定から否定への転換、そしてそれは嘘に繋がるということです。「考え直す」という点では、兄は積極的に素直に父の言葉に従いました。 私達の生活には「否定的なもの」がたくさんあります。この否定から肯定へと人生のギアを切り替えて生きること、これが「考え直す」ということなのではないでしょうか。 皆さん、イエス様に従うということは、ただイエス様の言葉を聞くだけでなく、神様の御心に沿って生きるということです。これは非常に重要なポイントです。単に「はい」または「いいえ」と答えるだけではありません。神様は私達全員に本当の義の道に沿った行動、生き方を求めておられます。 ところで、先週の日曜日、私はメルボルン大聖堂でメルボルン大司教様と司祭達、そして移民や難民の方達と共にミサに参加しました。ミサの司式はピーター大司教様でした。ミサの雰囲気はとても国際的で、それぞれの国に担当が割り振られました。聖歌隊は南スーダンのグループ、憐みの歌はアラビア語、第一朗読は中国語で、第二朗読はポルトガル語でした。共同祈願はシリア語、クロアチア語、タガログ語、インドネシア語、スペイン語、ベトナム語で捧げられました。奉納の歌はスワヒリ語コミュニティが担当しました。国は違っても、多様性の中で、人々が集まり、心を一つにしてミサを捧げることができたのは、とても感動的でした。愛と平和の中で生きるということは、なんと美しく、素晴らしいことだと私は思いました。 201

寛大な心は愛である-GENEROUS HEARTS ARE LOVE

Image
  寛大な心は愛である マタイ20.1-6 皆さん、今日の福音は、誰もが公正に扱われることを望むなら、相手に求める前に寛大な愛を与えなさいと求めています。 今日の福音書では、雇用主の寛大な愛についてです。当時、労働者達は不当な賃金や不公平な取り扱いを受けていました。ですがここに登場する雇用主は長い時間働いた労働者と短い時間しか働かない労働者に同じ賃金を払いました。異なる労働時間にもかかわらず、全ての労働者に 1 デナリンを支払ったのです。 当然、真面目に長い時間を働いた労働者達は、それを不公平だと思ったでしょう。そして短い時間を働いても同じお金をもらった労働者はラッキーだと思ったかもしれません。それは今を生きる私達にも同じ事が言えると思います。残念ながら私達は、常に自分を基準にして公平に扱われたいと思うからです。 神様は人間に対していつも寛大な愛を与えてくださいます。全てのキリスト者は神様の恵みと憐れみの中で生きているのです。私達はその神様の愛を信じるならば、他人と比べる愚かさを感じるはずです。そして、他人への嫉妬心を捨て、寛大さと思いやりを持つ事が出来るならば、私達は神様の子供として、神様の愛を他の人に広めることが出来るのではないでしょうか。 マザー・テレサはノーベル賞受賞時のスピーチで、助けを求めに来た男性について語りました。彼女はその男性に米をあげました。しかし彼はまたマザーの所に来て米を求めました。マザー・テレサは、男になぜまた来たのか尋ねました。すると男は答えました。「近所の人たちも米を持っていなかったので、全ての米を分け与えました。」 その男性は自分を後回しにして、全ての米を求めに応じて分け与えたのでした。この彼の行動こそが、神様が求めている真の寛大な愛です。 私は今、神言修道会の神学院に住んでいますが、時々、運転の出来ない神学生の為に手伝いなどします。勉強中だったりすると、中断するのが嫌だなぁと言う気持がよぎる時があります。しかし、私は助けを求められる時こそ、神様から求められていると感じるのです。時々、神学生達に運転の仕方を教えています。これはとても単純なことですが彼らにとって必ず将来役に立つと思いつつ、今日も彼等に運転を教えています。 皆さん、私達の生活の中で寛大な愛を持って生きていくことは、決して難しいことではありま