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「目を覚ましていなさい」「用意していなさい」

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  「目を覚ましていなさい」「用意していなさい」 マタイ 24.37-44 皆さん、今日私達は待降節第一主日を迎えます。言葉どおり、主の降誕を待つ節目の期間となります。 「人の子の現れの日」 であるイエス様の再臨の時をじっと待つことの大切さを学ぶ期間です。 今日の福音書では、イエス様は「目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰ってこられるのか、あなた方は分からないからである。あなた方も用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」と弟子達に仰いました。 皆さん、ここで言う 「目を覚ましていなさい」「用意していなさい」 とはどういうことでしょうか。私は今日の朗読の箇所にその答えが説明されているように思います。 第一朗読では、預言者イザヤは「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」と言われました。第二朗読では、パウロはローマの信徒に「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を見につけましょう」と述ています。まさしく、「主の光の中を歩む」「光の子として歩む」「光の武具を身につける」等の教えは 私達の信仰の要 であり、神の再来を待つための準備についての教えです 。 私達はイエス様の再来がいつかは分かりません。ですから、いつどんな時においでになっても、イエス様を迎えることができるように 準備して待つこと が必要です。つまり、私達は常に 祈りながら 待つようにと求められている のだと思います 。私達の 「待つ姿勢」 とは良い行いをしながら、イエス様の到来を待つことです。救い主がおいでになるのですから、何かが必ず変わるはずです。ここで、 「自分の中で、何かが変わる」「私達の教会で、何かが変わる」 そういう心構えで主の降誕を待つのがよいと思います。 残念ながら、私達は新型コロナウィルスの状況の中で、主の降誕を迎える準備をするのは、今年で 3 回目となりました。コロナと共に生きていく事が日常的になってきていることに、不安を感じます。 私達はこれまで、経済が発展して、暮らしが豊かになること、便利になることを最優先に生きてきました。そして、その結果、地球温暖化を生み、自然災害に苦しんでいます。戦争で、人と人が傷つけあっています。残念ながら、私達にも責任があります。私達は改めて地球に、そして人にやさしい生き方をしなければならない時が来たと思います 。 私達が何

王であるキリストから学ぶ

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  王であるキリストから学ぶ (ルカ 23.35-43 ) 皆さん、今週は年間の最後の主日、「王であるキリスト」の祭日です。私達の生活が、イエス様を王として認める生活になっていたか振り返る日です。つまり、イエス様が全てにおいて全てになる、終末における 救いの完成 ということになります。 今日の福音書は、「ユダヤ人の王」と書かれた「すて札」をつけられて処刑されるイエス様が、み国において最高の権限を持っている方であることを示しています。十字架は暗く恐ろしいイメージがありますが、私達キリスト者にとって、それはイエス様の救いの業の頂点です。無力な十字架のイエス様の中にこそ、愛によって本当の意味で暴力に打ち勝ち、暴力の連鎖を断ち切る道を見つけることができると思います。 今日、私は皆さんと分かち合いたい言葉があります。 「自分を救ってみろ」 という言葉です。イエス様が十字架の上にはりつけられた時、議員達がイエス様をあざ笑って言いました。「選ばれた者なら、自分を救うがよい」。さらに、十字架にかけられていた犯罪人の一人がののしりました。「お前はメシアではないか。メシアなら自分自身と我々を救ってみろ」。 私は、人間の耐え難い苦痛のなかに 「侮辱される苦しみ」 があると思います。イエス様は、十字架の上で、誰も救ってはくれないことを悟りました。イエス様は「自分を救わない」あるいは「救えない」とは、「暴力によって苦しむ全ての人、力のない人」と同じ体験をされたと思われたかもしれません。その結果、 イエス様は全てを受け入れ、愛を持って全てを赦し、人の王として、御自分の命を投げ出されました。 私達が今日の福音書から学ぶことは どれだけイエス様の歩みに倣って生きていくことができるか ということです。イエス様は、無私無欲で人々に仕え、真の幸せとは何かを説き続けました。ある時には言葉で人々を慰め力づけ、ある時には、その人の信仰のためになるのであれば奇跡を行い、身体の障害や病気を癒しました。イエス様のように全てを行うことは、私達にはできませんが、イエス様の愛を持って生きていくことは可能です。 今、私達は至る所で自己責任を求められています。ある意味当然であると理解できる事もありますが、本当に自己責任だけを求めている社会はとても寂しいと思います。どんな状況にあっても、困っている人に

神様の意思を継いで生きる

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  神様の意思を継いで生きる (ルカ 21 . 5 - 19 ) 皆さん、気がつくと 11 月も半ばになり、教会の典礼暦による 1 年も終わろうとしています。今日の福音書では、イエス様がエルサレムで群衆への最後の説教について語られています。この説教は、エルサレムとその民に対する別れの言葉でもありました。 イエス様は世を去る前に、将来起こるであろうことについて語りました。神殿の崩壊やエルサレム滅亡、それに伴う種々の印、例えば、迫害、戦争、暴動、民族紛争、大地震、飢饉、疫病、などです。 今日のイエス様の教えには 2 つの面があると思います。一つ目は、厳しい迫害や大きな苦難の中にあっても神様を信頼するようにという 励ましのメッセージです 。イエス様は「私の名のために、あなたがたは全ての人に憎まれる、しかし、あなた方の髪の毛の一本さえも決してなくならないでしょう。忍耐によって、あなたがたは命を勝ち取りなさい。」 「髪の毛の一本」はごくわずかなもの、ほんの小さな物の例えですが、それは私達を意味しているのかもしれません。神様の私達に対する愛が確かなもの、大きくて、また細やかであることを強調しています。 このイエス様の励ましの言葉は、私達がどんなに危害を加えられたとしても信仰を奪われることはないということを証明しているのではないでしょうか。例え私達が試練と混乱、迫害の中にあっても、命を失うことになったとしても、神様の内にあって失なわれる物は何一つないと断言されました。 私達の信仰とは慈しみ深い神様への信仰であり、その掟とは愛の主であるイエス様の「互いに愛し合いなさい。」という掟です。ですから、耐えて、ひたすら神様を信頼して終わりの日を待ち望みましょう。 もう 1 つは、 警告のメッセージという面です 。聖書の終末論は、目に見える全てのものは「過ぎ去るもの」「滅びゆくもの」であること、何が本当に永遠のものであるかを私達に気づかせてくれます。 今日の福音書を黙想しながら、私は今、世の中で起きていることを考えてみました。この新型コロナウイルス感染のさなかで、世界の多くの人々は戦争や紛争に巻き込まれて、多くの人々の命が脅かされています。自然災害はもっと激しくなり、地球の環境はますます悪化し、良くなるようには見えません。多くの人々が真の平和と正義を望んで

死者の復活について

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  死者の復活について (ルカ 20.27 - 38 ) 皆さん、今日の福音書は死者の復活、そして復活を信じた人間の生き方についてです。イエス様の時代、人が亡くなった後、復活するかどうか、意見が分かれていました。例えば、サドカイ派の人々は復活を否定していましたが、人は死んで復活するのではないか、と考えている人もかなりいたようです。 当時、サドカイ派は経済的にも社会的にも満ち足りていた人々の集まりでした。彼らにとって神様との関係は、神殿の祭儀の中で正しいいけにえを捧げているだけで十分で、死を越えて神様に期待するものなど何もなかったのかもしれません。ですから、今日の福音書の中でサドカイ派は 「復活」 という考えの矛盾を指摘して復活を否定しようとしたのだと思います。 それに対してイエス様は、 終末に人々がどうなるか、復活した神の子達は新しい存在であり、この世のあり方とは全く違うのだ と仰いました。さらに、イエス様は、 私達の神様は死んだ者の神様ではなく、生きている者の神様なのだ、 ということを教えられました。 生きている者の神様とは、生きている人間の支えとなり、希望となり、力となる神様だ とも言えるでしょう。私達全ての人は、神様と共に生きています。 今日の福音書を読みながら、私は五年前のことを思い出しました。ちょうど司祭になった時、地元の教会で 学校の教員として経験豊かな方 の葬儀をすることになりました。その時、どうやって遺族の悲しみを慰め、希望を持ってもらうか、大変悩みました。親しい人の一生がこの世だけで終わるということは、なかなか受け入れることはできないものです。 この難問について、イエス様は問いかけています。「 この世において、今の苦しみと絶望的な未来しかないと感じられる時、それでもなお神様を信頼し、人を愛し、希望を持って生きることができるかどうか 」そして、次のようにお答えになりました。「 復活の命とはこの世の命の延長線上にあるものではなく、全く違うレベルの命なのだ。 」 復活とは 100 パーセント、「神様によって生きる」 ことなのです。 残念ながらこの世では、全くもって不条理なことがたくさんあります。幼くして死んでいく命や、事件や事故、戦争や権力者の犠牲になる弱い立場の人々がいます。例えば数日前、韓国のソウルで、ハロウィーンを楽しもうと

イエス様との出会い

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  「イエス様との出会い」 ルカ 19.1 - 10 皆さん、今日の福音書はザアカイとイエス様の出会いの物語についてです。イエス様がエルサレムへと続くエリコの町を通られた時、ザアカイに会いました。ザーカイは徴税人の頭で、ユダヤを支配していたローマと徴税請負契約を結び、通行税や関税を徴収する仕事をしていたので、とてもお金持ちでした。彼にとってお金や地位は大変な誇りでした。ですが、彼は異邦人のために働くことで、ユダヤ人同胞からは 「汚れた者、罪人」 と軽蔑され、またしばしば利益を増やすために不正な課税を行い、過酷に取り立てていたため、人々から大変嫌われていました。 ある時、背の低いザアカイはイエス様が来られるという噂を聞きつけイチジク桑の木に駆け登って待っていると、群集の中にイエス様のお姿を見つけました。すると突然、イエス様がザアカイに声をかけました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。ザアカイはイエス様の招きに応じ、イエス様を「罪からの救い主」として迎え入れました。 皆さん、ザアカイは、なぜ必死にイエス様を捜したのでしょうか。それはザアカイ自身が、どんなにお金があっても、多くの人に嫌われていたことを恥ずかしく、寂しかったからかもしれません。ですが、ザアカイの希望以上に、イエス様は、ザアカイを捜され、近づかれました。 ザアカイはイエス様に会ったことで、自分の本当の姿、罪に気づくことが出来、悔い改めることができたのではないでしょうか。 ここで大事なことは、 ザアカイが悔い改めたから、イエス様が来られ、救いを下さったというのではありません。イエス様がザアカイを呼びかけられたということです。 イエス様はこの出会いによって、ザアカイに新しい命を与えました。 この出会いをきっかけに、ザアカイの人生の基準はイエス様になったのです。彼はイエ様の生き方に従って生き始めることが出来ました。 この物語を通して、イエス様は私達に無限の愛を示してくださいます。 「急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」 。もし私達が、ザアカイのようにイエス様を素直に受け入れることができるなら、私達も人生の基準がイエス様となり、人生の方向が変わるのではないでしょうか。イエス様と出会い、神様に立ち返ることによって、神様との交わりが

神様、罪人の私を憐れんでください

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「神様、罪人の私を憐れんでください」 ルカ 18.9-14   皆さん、今日は先週の「やもめと裁判官の例え話」に引き続き、 祈りについての教え が継続しています。特に 、神様にお祈りする時に、どのような心で祈ったらいいのか を教えるためにされたお話です。今日の例え話には二人の人物が登場します。それはファリサイ派の人と徴税人です。 二人は神殿にお祈りに行きます。一人はファリサイ派の人で 皆から尊敬されていた立派な人でした。一方、徴税人は皆から嫌われていた評判の悪い人でした。 ファリサイ派の人は、自分が良い人間であること、そして自分の隣にいる徴税人のような悪い人間でないことを神様に感謝しました。彼は自分の正しさ善さを並べたてて、 「神様、…感謝します」 と言いましたが、これはうぬぼれです。この祈りは、自分に向かっての独り言に過ぎないということだと思います。 一方、徴税人は 「神様、罪人の私を憐れんでください」 としか祈りませんでした。この人は神殿に来て遠くに立ち、目を上げようともせず、胸を打ちながら祈ります。それは、この人が自分の罪を心の底から悲しむしかないという彼の内面をあらわしています。結局、神様が喜んだのは、自分の自慢をしたファリサイ派の人の祈りではなく、徴税人の祈りでした。 なぜならば、ファリサイ派の人の「うぬぼれ」の根拠は他人との比較だったからです。普通の人よりも自分はちゃんとやっている、この徴税人なんかとは比べ物にならないほど正しい人間だということです。しかし、 人と比較して神様の前に自分を誇っても何の意味も無い ということは、皆さんもご存知だと思います。そのような考え方は神様との関わりを妨げてしまうだけです。自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している時、人との関係も絶たれてしまいます。 人間は互いに助け合い、支えあって生きる者であるはずです 。 皆さん、今日の福音の教えのように、自分の弱さや孤独、失敗や不安を真摯に神様に告白することができた時、神様は必ずあなたの横に立って力づけてくださいます。なぜならイエス様ご自身が、同じように御父の存在に力づけられて生き抜いたからです。 今日私は皆さんにお願いがあります。世の中には、私達より困っている人、食べる物のない人、戦争の中で苦しんでいる人が沢山います。今この時も、沢山の

絶えることなく祈る 

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  絶えることなく祈る  ( ルカ 18.1 - 8 ) 皆さん、今日の福音は、 「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」 という教えです。「やもめと裁判官」の例えが取り上げられていますが、旧約聖書の中では、やもめは自分を守ってくれる人がいない社会的弱者の代表でした。彼女は彼女を困らせる相手を裁いてもらうために、裁判官のもとにひんぱんに通っていました。誰かが彼女から亡き夫の財産を不正に奪おうとする、というような状況があったのかもしれません。彼女が求めた「裁き」には「悪を断罪する」という面だけでなく「善悪をはっきりさせ、弱い人を守る」という意味があります。彼女は正しさを求めるために訴えなくては生きていけないという現実があったのではないかと想像します。 福音書の中で、この裁判官は、「神を畏れず人を人とも思わず」として描かれています。強い者にこびへつらい、弱いものを踏みつけるような態度を取っていたのでしょう。やもめの正当な訴えもなかなか取り合ってもらえませんでした。しかし、彼女はそのような現実の中で絶えず求め続けたのです。その結果、裁判官は彼女のために裁判をしました。ここでイエス様は、祈りについて、やもめが自分の権利を弁護するよう裁判官に絶え間なく祈り、要求することの大切さを、お示しくださいました。 今日のイエス様の例え話を読み、私は詩編 22 編を思い出しました。この詩編の冒頭にある言葉 「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。」 この言葉は、イエス様が十字架の上で、言われた言葉として有名です。まさに死が迫っている時にも、イエス様は終末を感じながら、祈られました。イエス様御自身が、気を落とさずに絶えず祈ることがどういうことなのかということを、弟子達、そして私達にお示しになったのだと思います。 日々の生活の中で、私達は何か本当に困ったことが起きる度に必ず祈ります。例えば、時々「私は祈った。一週間祈った。二週間祈った。一ヶ月祈った。三ヶ月祈った。半年祈った。一年祈った。しかし事態は少しも変わらない。事態が良くならないばかりか、ますます悪くなり、深刻化していきます。神様は私の祈りなんか聞いてくれていないのではないか。そもそも神様に私の祈りは届いていないのではないか。」更には、「神様などいないのではないか。」そんな思いが心に湧き上

「あなたの信仰があなたを救った」

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「あなたの信仰があなたを救った」 ルカ 17.11-19 皆さん、今日の福音は「重い皮膚病を患っている十人の人」がイエス様に出会う物語です。「重い皮膚病」の語源は「打たれた」ですが、この病気にかかると、神殿に入ることが許されず、町の中に住むことも許されませんでした。人に出会いそうな時には「私は汚れた者です」と遠くから大声で呼びかけなければならないのが決まりでした。 当時の重い皮膚病にかかった人達は神様の前からも、人々の前からも閉め出されるという立場にありました。彼らは共同体から追放される環境の中で、サマリア人、あるいはユダヤ人であっても、苦しむ者同士として支え合い、助け合いながら生活していたのかもしれません。 イエス様が通りかかった時、重い皮膚病の人達は遠くから「イエス様、先生、どうか、私達を憐れんでください。」と声を張り上げて呼びかけました。それに対して、イエス様は「祭司達のところに行って、体を見せなさい。」と言いました。この 10 人はその言葉に従って、祭司達の所に向かいました。彼らはイエス様の言葉を信じて、従ったのです。すると、祭司達の所へ行く途中で重い皮膚病が癒されたのです。そこで、癒されたことに気づいた一人のサマリア人は、イエス様の元に戻って、大声で神様を賛美しました。イエス様は彼に「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と仰いました。 このサマリア人は、他のユダヤ人と思われる人々と別れて、なぜ、わざわざ戻ってきて、イエス様に感謝と賛美をささげる気持ちになったのでしょうか。彼は自分に起こった重い皮膚病の癒しの奇跡にイエス様の働きを見て、心から感動して、イエス様の前にひれ伏すほどに感謝するために戻ってきたのです。  皆さん、「あなたの信仰があなたを救った」とは「私の信仰が私を救った」ということですが、「私を救う私の信仰」とは、どんな信仰なのか、考えてみましょう。信仰という言葉について日本語では、「自分が神様を信じる生活」と、とらえられることがあるように思いますが、本当の信仰とは、このサマリア人が自分に起こったことに神様の働きを見て、神様の愛を感じると言う事だと思います。 自分の人生の全てを神様に委ねて、生きていく事が信仰だということを、この一人のサマリア人の行動の中から学ぶことができるように思います。私達は苦しい

神様に従う人は信仰によって生きる

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https://youtu.be/uep0DZOkibs 神様に従う人は信仰によって生きる 「ルカ 17.5-10 」 皆さん、今日のメッセージは「神様に従う人は信仰によって生きる」です。私達にとって「神様を信じる」ということは、神様の存在を信じるという意味だけではありません。それは、「神様に全てを委ねて生きる」ということです。神様に全てを委ねると言っても、そのためには努力が必要です。私達は完全な者ではないからこそ、神様の助けを必要とし、そして祈り願うのではないでしょうか。 第一朗読では、当時の社会の不正に対する神様の答えが示されています。現代社会にも様々な苦しみや苦痛があります。なぜ神様はそういう試練をお与えになるのか、という疑問を感じる人は多くいることでしょう。そのような災いに対する神様の答えは、「神に従い人は信仰によって生きる」という明確なものでした。 第二朗読ではテモテは、与えられた神様の賜物を守り、勇気を持って生かすように励まされました。なぜならば、彼が授けられたのは、臆病の霊ではなく、「力と愛と思慮分別の霊」だったからです。福音宣教の為にテモテは神様の証人となり、当時のあらゆる困難に直面することを恐れませんでした。 今日の福音では、弟子達が「私達の信仰を増してください。」と願いましたが、それに対してイエス様は、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」と仰いました。それは、「小さな信仰を大きくしたい」という欲を捨てて、ただひたすらイエス様の御言葉を信じ実行するという信仰を持ちなさいと言う意味であると思います。そういう努力の積み重ねが、真の信仰であり、その信仰をもっていれば、私達はどのような苦しみをも乗り越えることができます。 真の信仰を持つことが出来れば、イエス様の弟子達、また私達は揺るぎない信仰と共に生き、謙虚に「取るに足りない僕」の立場で、奉仕を楽しむ者となって生きることが出来るのではないでしょうか。 このような信仰こそが「生きる信仰」と呼ばれ、私達と神様との強い絆を作ります。信仰のおかげで、困難を乗り越え、神様の子供であるという意識を持って生き、信仰の喜びを味わうこともできるのです。信仰に支えられる人生の素晴らしさを、皆様にも感じてい

「金持ちとラザロ」

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  「金持ちとラザロ」 ルカ16.19-31 皆さん、今日の福音書は「金持ちとラザロの物語」についてです。「人が死んだらどうなるか」は、多くの人々の関心事です。しかし、誰にも分りません。今日の物語は、死後の世界を描く貴重な個所です。イエス様が例え話をなさる中で、登場人物に名前を付けているのは、実はここだけです。何か特別なメッセージが示されているように思われます。 ラザロとは「エリアザル」の短縮形、「神様の助けを必要とする人」という意味です。ラザロは何も無いがゆえに神様を頼りにして、そのラザロの願いに神様は答えられ、彼を「助けられました」。ところが、金持ちは富を頼りにして、その結果、神様の救いから洩れてしまいました。もし金持ちが生前のラザロを気に掛け、食卓に招いていたならば、彼もラザロの内に神様がおられることを知り、何かを為すことができたかもしれません。 この物語は私達に因果応報を教えたものではありません。「今は貧しい人も来世では豊かになるから、現世の苦しみを耐えなさい」と言っているのでもありません。また、「金持ちは金持ちゆえに地獄で苦しむ」ということでもありません。問題はこの金持ちは富を自分のためだけに用いたことです。神様から与えられた富を自分のためだけに使ったこと、イエス様は、これらの行為は良いことではなく、 責任を問われることだと言われたのです。ここでの金持ちの罪とは「何かをした」ことではなく、「何もしなかった」ことです。 今日の福音を読みながら、私は6年前に 論文を書いていた時の事を思い出しました。その時、一人の先輩司祭と私はインドネシアのフローレス島のマウメレでエイズ (HIV/AIDS) 患者と 1 年間ほど毎週の土曜日を一緒に過ごしました。彼らは、通常の生活から排除されて、大きな精神的苦痛と共に生きていました。ある人は、彼らを生きる死体と言いました。肉体的には生きているが、社会的には死んでいると考えられていたからです。エイズ患者達は私達と同じ人間ではない、と思われていました。彼らはまさしく、今日の福音のラザロそのものでした。 ある時、その先輩が私に「アンディ、あと一年であなたは司祭になります。『良い司祭とは、信者が直面している問題をよく聞くことができなければならない。人を愛するとは相手に関心を持つこと、相手が困っていればそれを自分の問

富の正しい用い方

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  「富の正しい用い方」 ルカ 16.1 - 13 皆さん、今日の福音書は「不正な管理人」の例え話です。「富に対する態度」について 、お金の建設的な使い方などについて考えてみたいと思います。 この管理人のした事は決して褒められることではありません。それは不正です。まず、彼は主人の財産を自分の喜びや楽しみのために使い込んでいました。しかし、彼はそのことが発覚していよいよ首になろうという危機の中で、自分に預けられている富の用い方を変えました。主人に借りのある人の借金を減額して助けてやることで、自分を迎え入れてくれる友達を作るというずるい考えを思いついたのでした。それもまた、明らかに不正なことです。しかし、興味深いことに、管理人は残された僅かの時間と機会を有効に使って、次の人生のための備えをした賢さ、それを主人は褒めたのでした。 イエス様は管理人の行った詐欺的行為そのもの、不正そのものを褒めたり、勧めたりしているのではありません。誉められた点は「抜け目なく行ったこと」です。「抜け目なさ」とは洞察力、思慮深さ、賢さを意味しています。 管理人は知恵の限りを尽くし、必死に次々と手を打って「行動して」備えをした賢さで、ほめられたのです。 さらに、イエス様は富の在り方についても教えてくださいました。 富は、神様と隣人との交わりを築くための手段として与えられているということです。自分が喜び楽しむためだけに富を用いるなら、富は人を支配し、自分の思いを遂げるための手段となります。そういう生き方をすることによって私達は人との交わりを失い、孤独に陥いるかもしれません。放蕩息子が全財産を使い果たした時、食べ物をくれる人は誰もいなかった、という先週の福音の話がそれを表しています。 私達は神様から様々なもの「お金、財産、時間、賜物・能力、人脈、所有物、そして福音」を預けられました。私達は神様が造られた世界を正しく管理する管理者なのです。だからこそ、私達は神様から預けられた全ての物を管理しなければならないと思います。 今日の福音を読んでいると、マザー・テレサのことを思い出しました。マザー・テレサは若い頃からインドを拠点に貧しい人たちへの奉仕活動を献身的に行い、ノーベル平和賞を 受賞しました。 その時、マザー・テレサは「私はノーベル平和賞にふさわしい者ではありません。けれど世界中の貧しい人々に代わって

憐れみ深い神から学ぶ

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  「憐れみ深い神から学ぶ」 ルカ、 15.1-32 皆さん、今日の福音書の中でイエス様は、悔い改めた「徴税人と罪人達」を「迷い出た羊、見失った銀貨、放蕩息子」に例えられて、「見失ったものを見つけ出した者の喜び」という憐れむ心を教えられました。 イエス様は例え話の結論として「悔い改める一人の罪人は、悔い改める必要のない九十九人の正しい人よりも大きな喜びが天にある。」と仰って、限りない憐みの心をお示しになりました。そして、ファリサイ派や律法学者たちに対し、「徴税人や罪人が救われるのは、神にとって羊飼いが見失った羊を捜しあてたような喜びである。」と言われ、さらに身分の差無くして一緒に喜ぶことを求められました。 これらの例え話から、私達はイエス様の御心の本質を知ることが出来ます。イエス様は、「一匹の羊、一枚の銀貨、一人の息子」を見捨てず、見つかるまで捜し求められる方であり、小さな喜びでも皆一緒に喜びを分かち合われました。イエス様は罪人が滅ぶのではなく、生きることを望まれたのです。イエス様は罪によって自分から離れ、ボロボロになり、滅びかけようとしている人を、探し、待ち続け、見つけて連れ戻すことを喜びとする方なのです。 イエス様は弟子達に「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである(ルカ 5 : 32 )」と仰いました。常に弱き者、小さき者、悔い改めた者たちを勇気づけ、愛してくださる方であることを、皆さんにも感じていただきたいと思います。 私達も自分を「 99 匹の羊」や「九枚の銀貨」、「兄」と感じる部分がだれの中にもあるかもしれません。あるいは、「迷子の 1 匹」、「無くした一枚の銀貨」、「一人の息子」と感じることもあるでしょう。私達も皆、日々、様々な立場を経験しています。このコロナ禍だからこそ、更なる憐れみの心と愛を持って日々過ごしていただきたいと思います。 私達キリスト者は、神様に見つけていただき、憐れみの心を授けられ、そして導かれて、今この教会に集まっています。この神様の恵みに感謝して、共に喜びを分かち合いましょう。  今日の福音について黙想した時、私は次の詩篇の言葉を思い出しました。「主は憐れみ深く、恵みに富み忍耐強く、慈しみは大きい。永久に責めることなくとこしえに怒り続けられることはない。主は私達