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私は良い羊飼いである

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「私は良い羊飼いである」 ヨハネ 10 . 1 - 10      皆さん、今日の福音書は私達は神様とどのような関係を持つべきかを問いかけています。この話では、神様は羊飼い、そして人間は羊として描かれています。例えば詩編でも、「私たちはあなたの民であり、あなたに養われる羊の群れ」(詩編 79:13 )。 または「主は羊飼い、私には何も欠けることがない」(詩編 23 : 1 )というように、神様と私達の関係を聖句の中に見つけ出し、考える事はとても重要です。      どうして神様は多くの動物の中から羊を選ばれたのでしょうか。羊を調べてみると、羊はとても臆病者だそうです。彼らは視力がとても良いのに足元がよく見えず、迷いやすいので、すぐ群れたがると書いてありました。そんな羊の世話をするのが羊飼いですが、聖書時代の羊飼い達は、強盗や野獣から羊達を必死に、命がけで守っていたようです。仕事がら礼拝にも行けず掟が守れない為に蔑まれた貧しい職業だったと言われています。あえてイエス様は当時身分の低かった羊飼いとして、羊のために喜んで犠牲を払う、そして群れから離れた羊を探して、また愛を持って育てるのだと私達に教えてくださいました。      もし、私達が羊だと仮定するとどうでしょうか。例えば、私達が罪を犯したとしても、あるいは、例え教会から遠ざかって祈りを怠ったとしても、イエス様は私達を神の子として、全てを許してくださり、また受け入れてくださいます。それゆえに、私達は神様のご意志に従って、悪い事をした時には、素直に罪を認めて、心を改めて生きるように努力しなければいけないと思います。        皆さん、ある時、平和指導者はジャーナリストから尋ねられたそうです。 どうすれば人々に「愛」を示すことができるでしょうか? その人はこう答えました。 「神様はあなたに妻、夫、子供、兄弟、そして家族を与えました。まずは彼らを愛してください。彼らの為に役に立つことをしてあげてください。その行為はあなたの愛です。」と答えました。神様が私達に求められる愛は、本当に身近にある愛です。その小さな愛がどんどん大きくなって世界中の愛へと成長していくのだと平和指導者は言いました。      私は日本に来て、初めて日本では、大きな地震や洪水が毎年のように起こり多くの人が被害を受けるということを知りました。そ

希望が見え始めた-MENEMUKAN HARAPAN BARU

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  希望が見え始めた   (ルカ 24.13-35 ) 皆さん、主の御復活おめでとうございます。イエス様の御復活は、弟子達にとって最も大事なことでした。なぜならば、イエス様を失った悲しみが、再びイエス様に接したことで、キリスト者として生きていく勇気と希望を感じることが出来たからです。 今日の福音書はエマオの弟子の話として有名です。イエス様はエマオという村へ向かっている二人の弟子達の前に現れました。しかし、本文 16 節によると二人の目は遮られていて、イエス様だとは分からなかったと書かれています。 彼らの目が遮られていたという言葉はどんな意味でしょうか。伝統的な解釈によると、復活なさったイエス様の姿は、その前の姿とは違っていたと言われています。ですから、エマオに向かっていた二人の弟子だけでなく、他の弟子達も、イエス様を見分けることができませんでした。 では、どのようにイエス様は二人の弟子に気づかせたのでしょうか。イエス様はご自分が誰なのかをすぐに表さず、弟子達自らが全てのことを悟ることができるように、再び神様の言葉を教えてくださいました。そして、その言葉を終え、弟子達のためにパンを裂いてお渡しになった時、弟子達は、復活なさったイエス様であるとはっきりと確信したのでした。その時こそ、彼らが失望と悲しみから抜け出して、信仰を取り戻し、希望が見え始めた時になりました。 二人の弟子はすぐにエルサレムへの 11 キロの道を引き返しました。彼等はイエス様に会って得られた心の変化と喜びを信仰を通して他の弟子達とエルサレムで分かち合いたいと思ったに違いありません。二人はイエス様と道で話していた時、聖書を説明してくださった時、「私達の心は燃えていたではないか」と他の弟子達に言いました。私はこの言葉が好きです。心が燃えている人が一人でもいれば、周りに火を広げていきます。 私達も時々この弟子達のように、イエス様がそばで見守ってくださっていることに気がついていない時があります。自分の苦しさだけに目がいってしまいがちです。でも本当に自分だけが苦しいのでしょうか。 私達は、苦しい時や悲しい時、慰め励ましてくれる友がいます。苦しいのはあなただけではありません。もっと苦しい人達が世界中でもがき苦しんでいます。どうぞ、イエス様が、どんな時にも共にいて下さることをいつも心

「神の慈しみを受ける」MENERIMA KERAHIMAN TUHAN

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  「神の慈しみを受ける」 ヨハネ 20.19-31 皆さん、主の御復活おめでとうございます。先週、私達はイエス様の御復活を祝いました。今日、私達は「神の慈しみの主日」を祝います。私はイエス様が聖ファウスティナに仰った言葉を思い出しました。それは「私は愛であり、慈しみそのものである。いかなる悲惨も、私のいつくしみに勝ることはない。」 ( 『日記』 )1937.9.14 という言葉です。 皆さんここで語られる「神の慈しみ」とは何でしょうか。私は慈しみとは全ての人間の尊さ、美しさ、善さを分かち合うことだと思います。「愛と慈しみ」を実現するためにはお互いに人間としての尊厳を認め合うことが必要です。上から目線で、受ける相手を小さく見て人間の尊厳を傷つけることであってはいけません。誰であっても平等に支え合わなければいけないのです。 今日の福音書では、弟子達が復活したイエス様に出会った体験を述べています。復活されたイエス様は以前のように弟子達の真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と同じ挨拶を繰り返しました。 疑い深い弟子のトマスは、蘇られたイエス様の話を信じることは出来ずに、イエス様の脇腹の傷に触れて、やっと復活の事実を受け入れることが出来ました。イエス様はトマスに「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」とお仰いました。この体験によってトマスはイエス様を神様と崇めて信仰宣言をしました。この福音書を書いたヨハネは、皆さんにもこのトマスのようにイエス様を神様として信じるようにと勧めているのだと思います。 今日、ここに集まる私達もイエス様を信じています。御復活されたイエス様の証人である使徒達が記した聖書を信じて、イエス様の御言葉全てを信じて毎日生きています。しかし、私達が経験する様々な試練の中で、疑い深いトマスのように、恐れや疑念を持つ時があります。「目に見える」ものだけを信じ、自分の理想や価値、美意識が全てであるように錯覚し、願望に執着してしまいます。そして、それがうまくいかなくなると、自暴自棄になったりします。そういう時は自分の信じた信仰に立ち返ること、そして神様の助けを心の底から乞い願いましょう。 私達はどんなに年を重ねても、手探りで人生を生きています。歩いては転び、また転びます。その都度、神様は、私達を助け起こしてください

ついに、イエス様が復活された-TUHAN SUNGGUH BANGKIT

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  「ついに、イエス様が復活された」 ヨハネ 20.1-9 皆さん、主の御復活おめでとうございます。復活されたイエス様の恵みと平和が皆さんと共にありますように。私達は十字架にかけられてお亡くなりになったイエス様が神様の大いなる力で復活されたことを記念してお祝いしましょう。 毎年復活の主日で読まれるヨハネの福音の冒頭は、「週の初めの日、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。」という言葉です。毎年同じ言葉ですが、大変味わい深い場面だと思います。 他の弟子はどうしていたのか分かりませんが、マグダラのマリアは夜が明けるのを待ちかねて、暗いうちからイエス様のお墓に行きます。そしてそこで、復活したイエス様に出会います。 マグダラのマリアは復活したイエス様に出会った最初の人であると言われています。つまり、教会の歴史の中で、最初にイエス様の復活を信じ、そして証言したのは、女性のマグダラのマリアであったと福音書は告げています。 復活のイエス様に出会うということは、偶然に誰でもそうなったわけではありません。信仰というものが最初にあって、その信仰がイエス様の方から促されて、信じることができるようになるのではないでしょうか。マグダラのマリア、そしてペトロをはじめとする弟子達は、復活したイエス様に出会いました。それは彼等の深くて、揺るぎない信仰を証明しています。そして彼等は、迫害と戦いながら勇敢にイエスの復活を宣べ伝えました。 イエス様が復活されたことの何が私達にとってそんなに喜ばしいことなのでしょうか。イエス様は多くの苦しみを受けて十字架につけられて亡くなられましたが、復活祭とはイエス様の不運が幸運に逆転したことを喜ぶお祝いである、と考えることもできます。イエス様が亡くなったため悲しみにくれていた弟子達が、復活されたイエス様に出会って喜び勇気づけられた、ということです。復活とは弟子達の不運が幸運に逆転したことを喜ぶお祝いでもあります。 イエス様の復活を通して、私達にも復活の道が開かれました。私達はどんな時にも、どんな所でも、誰に対しても希望を持ち続けることができる、それはイエス様が蘇られたからです。つまり、私達も何度でも立ち上がってやり直すことができるということなのではないでしょうか。 ところで、 2 年前、 Phuc 神父様が吉祥寺教会か

神様の愛に応える-MENANGGAPI KASIH TUHAN DALAM HIDUP

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  神様の愛に応える ヨハネ 13.1-15 皆さん、今日のミサは最後の晩さんを記念することから、「主の晩さんの夕べのミサ」と呼ばれ、「過越の聖なる三日間」の始まりとされています。 今日の朗読にあるとおり、イエス様は弟子達と最後の晩餐をした後、彼らの足を洗いました。イエス様は、御自分が十字架につけられる前、弟子達と一緒にいることができる最後の時間、この二つのことを最も特別な事として行いました。どうしてイエス様はこの二つの事を行なったのでしょうか。 まず、最後の晩餐について考えてみましょう。イエス様は最後の晩餐の時パンを取り、感謝をささげ、裂いて、弟子に与えて仰せになりました。「皆、これを取って食べなさい、これは あなたがたのために渡される、私の体である。」食事の後に同じように杯を取り、感謝をささげ、弟子に与えて仰せになりました。「皆、これを受けて飲みなさい。これは わたしの 血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて、罪のゆるしとなる 新しい永遠の契約の血である。これを私の記念として行いなさい。」御聖体をいただくことによってイエス様と交わり、イエス様の十字架の死と復活にあずかる者となるためです。その結果、イエス様の愛と希望を感じながら私達は心を新たにして週の初めを迎えることができます。 次に、足を洗うということについて考えてみましょう。イエス様が弟子達の足を洗うということは、弟子達にとってとても大きな驚きだったと思います。その行為は、社会の底辺で泥にまみれて生きる人々への奉仕を表しているとも考えられます。ですが、私はもう一つ大事な教えを意味していると思います。それはイエス様は弟子達の一番汚れているところ、つまり心の一番奥にある汚れた部分である罪を赦し、心を清めてくださったのではないでしょうか。この足を洗う行為によって、イエス様と弟子達の絆がさらに強められたと思います。 イエス様は弟子達と離れる前にこの二つの大事な事を行われましたが、それに対して弟子達は、イエス様を失った後もイエス様の教えを守り続けました。それはイエス様の最後の思いがちゃんと弟子達に伝わった証であり、弟子達の感謝と信仰の証であったと思います。迫害の中で、イエス様の教えを守り抜いてくださったおかげで、 2000 年経った今も、イエス様の教えは引き継がれています。 それでは、

イエス様との連帯感-BERSIKAP SOLIDER DENGAN YESUS

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イエス様との連帯感 マタイ 27.11-54 皆さん、今日から「聖週間」が始まります。今日のミサの最初の部分は「枝の主日」、そのあとは「受難の主日」になります。 最初の部分では、ユダヤ人の過越祭を間近に控えて、イエス様はロバに乗ってエルサレムの町に入られました。すると大勢の群衆は、「イエス様がダビデ王のように、イスラエルの国を復興させる王としてエルサレムに来られた」と考え、自分の服やシュロの木の枝を道に敷き、「ダビデの子にホザンナ」と叫んで、イエス様を歓迎しました。町全体が、感激と喜びで満ち溢れていました。しかし、イエス様は、人々の歓喜の背後に、イエス様を罰する人達の意図があることをよく知っておられました。 この混乱状態の中で、イエス様は神様の身分でありながら、人間と同じ者になり、無罪でありながらも、十字架の死に至るまで従順でした。その結果、イエス様はゴルゴタの丘で十字架につけられて亡くなりますが、三日目に御復活されました。これが「イエス様の御復活の神秘」です。 今日のマタイの福音書はイエス様の十字架を神様からも見捨てられたような悲惨な死であると表現しました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。イエス様は、既に、逃げた弟子達から見捨てられたことに苦しんでおられました。この状況だけに注目すると、イエス様の死はとても理不尽で、ただ苦しみの叫びでしかありません。しかし、マタイは、イエス様の絶望的な苦しみこそ、イエス様が苦しむ全ての人との繋がりの中で生き、同時に神様に従って生きる姿を私達に見せてくれたと理解したのだと思います。それは、私達への問いかけでもあります。苦しみの中にある時に、皆さんは神様から離れ、人からも孤立してしまうのか、それとも、苦しみの中だからこそ、神様と繋がり、人と繋がって生きるのかということです。 このイエス様との連帯感は、イエス様の御復活の後、墓から出て来て、多くの人々の前に現れた、ということからも感じる事ができると思います。この出来事が示しているのは、イエス様の御復活が全ての人との連帯性を再び協調してからです。復活とは、神様との絆の完成であり、同時に人との絆の完成です。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されたイエス様は、私達が死に臨む時も、さらに死を超えても、常に共にいてくださいます

神様への祈りーBELAJAR DARI SERUAN MARTA; TENTANG BERDOA KEPADA TUHAN

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  神様への祈り (ヨハネ 11.3-7,17.20-27.33b-45 ) 今日は四旬節の第5主日です。今日の福音書は洗礼志願者がイエス様との出会いを深め、信仰の決断をするのを助けるために選ばれています。キリスト者にとって祈るとはどうあるべきかを問いかけている、とても大切な物語です。 今日の福音書はラザロの復活の話についてです。このラザロの物語で私が注目したのは、マルタの訴えです。「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょう。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、私は今でも承知しています」そう言ってマルタはイエス様に不満をぶつけました。 自分の思いを率直にイエス様にぶつけていくマルタの姿勢、ここには私達の祈りのためのヒントがあるかもしれません。それは、マルタがラザロの為に祈り尽くしたうえで、イエス様に心から訴え、願いを叶えてほしいとすがる場面です。マルタの信仰の強さ、純粋な心、そして勇気を感じ取ることができます。神様は私達一人一人の想いや行動を全てご存知です。そのうえで、救いの働きに繋がるのです。このことを私達は学び、実行していかなければならないと思います。 もう一つ注目すべき点は、イエス様はラザロが重体であると知らせを受けたにもかかわらず、イエス様が実際かけつけるのは、ラザロが葬られてから四日後でした。なぜ、イエス様はこのような決断をされたのでしょうか。それは、イエス様の無関心さや冷淡さから来るものではなく、あくまでも愛から来る遅れだったのではないでしょうか。それは人間的には遅れに感じても、神様の目から見れば、ベストタイミングだったのかもしれません。神様のなさることは、全て時にかなって美しいのです。 神様は全てをご存じで、もっともふさわしい時を備えておられます。ですから神様はちゃんとマルタの努力と彼女の深い祈りを理解されたうえで、ラザロを復活させる時を待たれたのだと思います。 私達は願いがある度に神様に祈ります。ですが、自分の都合だけで、神様に祈っても、願いが叶うというわけではありません。神様には正しい時があります。私達はその正しい時を待ちながら希望を持って努力を続けて、祈りの日々を重ねていきましょう。 イエス様は心からラザロを愛しておられました。そして、イエス様は私達をラザロと

神様の光を心で見るーMELIHAT CAHAYA TUHAN DENGAN MATA BATIN

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  神様の光を心で見る (ヨハネ9 .1 、6-9,13-17、34-38) 今日は四旬節の第四主日です。 聖書朗読のテーマは「神様の光」です。第1朗読では 「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」という言葉、第二朗読では使徒パウロの「以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれ光となっています。光の子として歩みなさい」と言う言葉が示されました。 そして、今日の福音では目の見えなかった人がイエス様によって見えるようになったという奇跡の業の話を通して、目の見えている人達でも心からイエス様を信じることの出来ない人は、罪人であり、心の目を閉じているのと同じだという事を教えてくださいました。 当時の社会には「病気や障害は罪の結果である」という考えがありました。それに対し、イエス様は個々の人の罪とその人の病気や障害の関係をはっきりと否定されました。イエス様の関心は「今、神様はこの人に何をなさろうとしておられるか、自分はこの人に何をすることができるか、どう関わるべきか」というところに注目されました。それは、皆さんが本当にイエス様を信じているのかを試されているという意味でもあります。 イエス様は目が見えるようにしたという癒しの業を行いましたが、それは私達への教えではありません。私達がいかに霊的な目と耳でイエス様を救い主と感じ、そして信じることが大切であると教えてくださっていると思います。 私達は本当にイエス様の光を感じながら生きているでしょうか。私達が心からイエス様を信じ、イエス様を礼拝するようになるまでには時間がかかります。しかし、どんなに時間がかかっても、どんなプロセスを通ろうとも、今日の福音のように「主よ、信じます」と告白し、イエス様を礼拝する者になりたいと思うことこそが、洗礼をうける為の絶対条件になります。 キリスト者として、私達は洗礼を通しイエス様の光を受けて、イエス様を身近に感じ、イエス様の御言葉を生活の中で実行することができれば良いのです。霊的な目と耳を持ってイエス様の愛の中で生きて行きましょう。 教皇フランシスコは「イエス様との友情を育てる方法は、主のみ言葉に耳を傾けることです。主イエスは私達の良心の深いところで語られ、聖書をとおして、また祈りの中でも語られます。主イエスのみ前で、沈黙の内に聖書 とくに福音書を読んだり黙想したりして