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神様と共に生きる覚悟-PREPARE YOURSELF TO LIVE WITH GOD

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  神様と共に生きる覚悟 マタイ 10.26-33 皆さん、今日の福音書でイエス様は弟子達に、繰り返し「恐れるな」と呼びかけ、心が折れそうになった弟子達を励まし続けました。「人々を恐れるな」。それは別の言い方をすれば、「覚悟を決めて、日々を過ごしなさい」と更にイエス様は教えをくださいました。 突然の出来事を前にすると、私達は先の事を考えられず、恐れてしまいます。ですが、そう言う時こそ覚悟を決めて問題を解決しなければなりません。 例えば、突然病気になることがあります。もしかしたら、明日体の自由が奪われるかもしれません。これまで順調だった仕事を奪われるかもしれません。 人間関係のもつれで、親しかった友を失ったり、兄弟でありながら目を合わせることさえできなくなっている人もいるでしょう。そういう時、イエス様は私達に「恐れるな」と仰いました。 つまり、何かに恐れるということは、自分の見栄や欲を守りたいという心が働いているのではないでしょうか。もし全ての欲を捨ててイエス様を信じ切ること、そしてイエス様を信じきると覚悟を決めた人は、恐れを乗り越えて今日という時間を与えられた喜びの中で生きていけるのだと思います。ぜひ皆さんもイエス様と共に生きる覚悟を決めてこれからの日々を過ごしていただきたいと思います。必ずイエス様しか与えることのできない平安があなたを包んでくださいます。 ところで数日前、神言修道会のユスティン神父という典礼音楽の専門家がインドネシアで亡くなりました。スティン神父は素晴らしいミュージシャンであるだけでなく、彼は音楽を通して生涯を神様に捧げた方でした。彼の音楽作品はインドネシアの信者だけでなく、世界に派遣されている神言会修道者の心をいつも慰め、励ましてくださいました。 多くのインドネシア人は悲しみに暮れていますが、彼の音楽作品はインドネシアの教会にとって永遠のものです。彼を讃えるために、私はピアノを弾いて、クリスナ神学生はヴァイオリンを弾きました。どうぞ皆さん、ユスティン神父の永遠の安息の為にご一緒に祈ってください。 主の平和   PREPARE YOURSELF TO LIVE WITH GOD My dear brothers and sisters. In today's Gospel, Jesus repea

イエス様の弟子として生きる- ON BECOMING A DISCIPLE OF JESUS

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イエス様の弟子として生きる マタイ 9.36-10.8 今日の福音の中で、イエス様は 12 人の弟子を呼び寄せ、使徒として汚れた霊を追い払い、あらゆる病気を癒し、 1 人でも多くの人を救う為に派遣しました。イエス様によって選ばれ、派遣された弟子達は、特別に立派な人や、優れた人達ではありませんでした。ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネはガリラヤ湖の漁師です。罪人の代名詞として忌み嫌われていた徴税人のマタイ、後にイエス様を裏切ることになるイスカリオテのユダ、熱心党(反ローマの武装集団)シモンの名もありました。 派遣された弟子達がなすべきことは、イエス様が行なっていたのとまったく同じことでした。 イエス様が今生きておられたら、私達に向かって何を話し、何をなさるだろうか、どういう人に近づき、どう関わり、どんなメッセージを語るだろうか、と考えてみてはいかがでしょうか。是非聖書の中から、イエス様の御言葉、そしてご自分の答えを探していただきたいと思います。 ところで、 16 日、メルボルンに来て 1 ヶ月になりました。皆さんはお元気でしょうか?私もメルボルンで元気に毎日学校に行っています。しかし、パソコンの使いすぎの影響か、目の調子が良くありません。数日前、近所で目薬のビタミン剤を探そうとしていましたがすぐ見つかりませんでした。日本ではドラッグストアがたくさんあって、たくさんの種類の目薬が売っていました。ついつい便利だった日本の生活と比べてしまいます。私はこれから色々な人に聞きながらメルボルンの生活に慣れていこうと思います。世界に派遣された弟子達が苦労したことを思うと、不便な事も乗り越えられると思います。どうぞ皆さんもお元気でお過ごしください。 主の平和 ON BECOMING A DISCIPLE OF JESUS   Mat  9.36-10.8 My dear brothers and sisters. In today's gospel, Jesus called twelve disciples and sent them out as apostles to cast out evil spirits, heal every disease and save as many people as possible. The discip

キリストの聖体の主日-ABOUT THE MOST HOLY BODY AND BLOOD OF CHRIST

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  聖体の主日 皆さん、今日はキリストの聖体の祭日です。 聖体というと最後の晩さんの記念である聖木曜日を思い起こします 。聖体拝領はイエス・ キリストが私達を養う食べ物になってくださったという、 大変不思議な神秘です。当時、最後の晩さんでは、「 これはわたしの体である」「わたしの血である」 と言ってパンとぶどう酒を弟子達に分け与えることで、 弟子達はイエス様と一致する恵みをいただきました。 そして今、 私達もご聖体をいただくことによってイエス様が私達の内に来られ ることを体験することができます。綺麗な心、 純真な心を持ってこそ、 ご聖体の秘跡の恵みをいただくことができるのだと思います。 聖体の秘跡は神との一致を表わします。しかし、 自分達だけが神様との結びつきに心を満たされて、 それで終わりということではありません。 飢餓でお腹をすかしている人々、愛に飢えている人々、 寝るところを毎日探している人、 沢山の人々が神様からいただくパンを待ち望んでいます。 それが現実です。 私達はつい自分中心に物事を考えてしまいますが、 どうぞ自分の周りの人たちにも目を、そして心を向けてください。 その為には、まず自分を客観的に見て、その現実を理解し、 謙虚に受け入れる事が必要です。その行為なしに、 誰かを思いやる事、 共に分かち合うことなどはできないと思います。 これらの努力をしながら人々と愛を分かち合うことは、 霊的な成長を促します。 神様の愛と救いの中で私達は信仰を強めましょう。聖体拝領、 黙想、そして祈りを通して、 神様と一つになる瞬間は最高の癒しです。ぜひ皆さんも、 このパンの恵みを感じていただきたいと思います。 ところで、私は毎日モナッシュ大学で英語を学んでいます。 メルボルンでの学生生活にもだいぶ慣れてきましたが、 まだまだ食べ物には慣れていません。 日本のおにぎりが食べたいです(笑)。 新しい言語を学ぶのは、難しいですが、 その中でも友人ができ、新しい発見があります。 神様の愛のおかげで、 どんな難しいことがあっても安心して立ち向かえていると感じてい ます。 皆さんも神様の愛を日々感じながら生活していただきたいと思いま す。 主の平和 ABOUT THE MOST HOLY BODY AND BLOOD OF CHRIST Today

三位一体-ABOUT THE HOLY TRINITY

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  三位一体 皆さん、お元気ですか。皆さんは元気であれば幸せです。今日、私達は三位一体の主日を迎えました。父は王座に座した姿、子は父の右の座に座した姿、聖霊はハトの姿などに表されます。 父と子と聖霊は同じ唯一の神ですが、それぞれはっきり区別されています。父なる神は宇宙万物を創造され、全てを支配される全知全能のお方、子(イエス様)は私達と全く同じ人間ですが、同時に神様の独り子です。私達を罪から救うために父なる神から遣わされた方です。聖霊はイエス様の救いの業を続けるために遣わされ、教会を活かし、私達の内にあって、神様の国の完成のために働かれます。 この父と子と聖霊-三位一体の神様の共同作業を行って私達の真の幸せの為に計らってくださっているのです。 父なる神様、子なるイエス様、そして聖霊が、いつも私達と共にいて、関わり、支えて導いてくださいます。こうして私達は非常に深く、永遠に、無限の愛の絆で神様と結ばれているのです。イエス様はどんなに辛い時にも一緒にいてくれる、どんなに悲しい時にも希望の光を与えてくださいます。 ところで、私の英語の学校は月曜から始まりました。毎日新しい文化や食生活の違いについていくのは大変ですが、新しい発見や学びもあります。一つ困っているのはお米が違うことです。やはり日本のお米が好きです(笑)。 沢山の宿題で 1 日があっという間に終わります。ですが朝のミサと一日の終わりの祈りの時は、いつものように三位一体の父と子と聖霊の御恵みを感じます。毎日、修道院と学校の生活に慣れる為に、一生懸命生きていくことが出来るのも、神様の愛が常に心の中に感じるからです。どうぞ皆さんも神様から守られて生きているという事を感じて頂きたいと思います。 メルボルンは寒くなって来ました。日本はこれから梅雨になりますが、皆さんお元気でお過ごしください。 主の平和 ABOUT THE HOLY TRINITY   My dear brothers and sisters in Christ Jesus. How are you today? I hope you are well. Today we celebrate the feast of Holy Trinity (the Father, the Son and the Holy Spirit

聖霊降臨-ABOUT PENTECOST

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聖霊降臨 ( 使徒言行録 2.1-11 とヨハネ 20.19-23 ) 皆さん、 聖霊降臨日、おめでとうございます。今日は、約束の聖霊が弟子達の上に降ったことを記念する聖霊降臨日で、昔から「教会の誕生日」と言われてきた祝日です。弟子達が多くの人々にイエス様のことについて、公に語り始めた大切な日となりました。 イエス様 は天に帰られる前、弟子達に、「聖霊が与えられるまで、エルサレムで待ちなさい」と仰いました。弟子達はイエス様の言葉に従い、共に集まり、祈って、待ちました。その時、彼らはとても不安だったと思います。というのもイエス様の言われた聖霊がいつ来るのか、何日後にとか何月何日にとかおっしゃらなかったからです。 彼らは、イエス様の言葉に従って待つしかなかったのです 。ですが、その 10 日後、五旬祭の日に 弟子達の物語が大きく動き出します。 一同が集まっていた時、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と使徒言行録に書いてあります。 弟子達は、その時確かに神様の息吹、聖霊の存在を感じ取る事が出来ました。イエス様は私達のために残された約束を弟子達ははっきりと理解する事ができました。「弁護者、慰め主、真理の霊を遣わしてくださいます。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいる」。そして今、聖霊の導きによって、私達一人一人に福音が届けられています。私達はイエス様の昇天から 2000 年後の今も、日本やインドネシア、オーストラリアで、あの日誕生した教会にこうして集められ、神様を賛美する時を与えられているのです。この事実こそ、今なおこの世に満ち満ちている聖霊によって私達が生かされていることの証しです。 私達はこの聖霊がいつも一緒にいてくださることを求め、お互いに配慮し合い、共に苦しみ、共に喜びながら生きていきましょう。そして私達が本当に心を合わせ 「一つになる」ことできますよう、ますます祈り求め、キリストの体としての教会を大切にして頂きたいと思います。 ところで、 3 日前、私はメルボルンの聖公会大聖堂を訪れました。 興味深いことに、教会内にはコロナウイルスで亡くなった人々の安全と世界平和を願うためにキャンドルが灯されてい

主の昇天-THE ASCENSION

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  主の昇天 (マタイ 28.16-20 ) 皆さん、今日私達は主のご昇天を祝います。使徒言行録によると、復活したイエス様は 40 日間にわたって弟子達の前に姿を現した後、天に召し上げられました。そのようなことから、主の昇天の祭日は復活祭後 40 日目の復活節第 6 木曜日に祝われることになりました。ただし、日本では日曜日 ( 復活節第 7 主日 ) に移して祝われています。 今日の福音は「昇天」です。イエス様はご昇天に先立って弟子達に命じられました。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」弟子とは、イエス様を罪からの救い主と信じ、イエス様に従い、イエス様のように歩む者のことです。勿論、人々をイエス様の弟子とすることには、イエス様の救いへ導くことが含まれています。ですがイエス様が求めたことは、人々をイエス様の救いに導くことがゴールではなく、イエス様のように歩む弟子とすることがゴールであったのではないでしょうか。 イエス様は弟子達が見ている前で、昇天され、「神の世界」に移っていかれました。それまでと同じようにイエス様と出会うことはできなくなりましたが、弟子達は「信仰の目」でいつもイエス様を見ながら、迫害にも耐えて、勇敢にイエス様に命じられた使命を果たしたのだと思います。 イエス様は繰り返し弟子達に「信じなさい」と諭されましたが、この御言葉は私達にも問いかけています。いつまでもイエス様の助けを待ち続ける姿であってはいけません。「ガリラヤ人よ、なぜ天を見つめて立っているのか」。イエス様に慰められることを求めて、この世での仕事から逃げてはいけません。私達も弟子達のように、キリスト者としての使命を果たす為に、祈りと共に行動して、「信仰の目」で常にイエス様と向き合って生きていきましょう。 今日のアレルヤ唱をもう一度味わってみてください。イエス様は弟子達に言われました。「全世界に行き、全ての人をわたしの弟子にしなさい。私は世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる。」皆さんの教会はイエス様がお作りになりました。イエス様は私達と共にいてくださいます。もう一度皆さんの「信仰の目」がちゃんとイエス様に向いていることを確認して頂きたいと思います。 ところで、 5 月 16 日、私はメルボルンに到着しました。そして、新しい生活が始まりま

私は良い羊飼いである

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「私は良い羊飼いである」 ヨハネ 10 . 1 - 10      皆さん、今日の福音書は私達は神様とどのような関係を持つべきかを問いかけています。この話では、神様は羊飼い、そして人間は羊として描かれています。例えば詩編でも、「私たちはあなたの民であり、あなたに養われる羊の群れ」(詩編 79:13 )。 または「主は羊飼い、私には何も欠けることがない」(詩編 23 : 1 )というように、神様と私達の関係を聖句の中に見つけ出し、考える事はとても重要です。      どうして神様は多くの動物の中から羊を選ばれたのでしょうか。羊を調べてみると、羊はとても臆病者だそうです。彼らは視力がとても良いのに足元がよく見えず、迷いやすいので、すぐ群れたがると書いてありました。そんな羊の世話をするのが羊飼いですが、聖書時代の羊飼い達は、強盗や野獣から羊達を必死に、命がけで守っていたようです。仕事がら礼拝にも行けず掟が守れない為に蔑まれた貧しい職業だったと言われています。あえてイエス様は当時身分の低かった羊飼いとして、羊のために喜んで犠牲を払う、そして群れから離れた羊を探して、また愛を持って育てるのだと私達に教えてくださいました。      もし、私達が羊だと仮定するとどうでしょうか。例えば、私達が罪を犯したとしても、あるいは、例え教会から遠ざかって祈りを怠ったとしても、イエス様は私達を神の子として、全てを許してくださり、また受け入れてくださいます。それゆえに、私達は神様のご意志に従って、悪い事をした時には、素直に罪を認めて、心を改めて生きるように努力しなければいけないと思います。        皆さん、ある時、平和指導者はジャーナリストから尋ねられたそうです。 どうすれば人々に「愛」を示すことができるでしょうか? その人はこう答えました。 「神様はあなたに妻、夫、子供、兄弟、そして家族を与えました。まずは彼らを愛してください。彼らの為に役に立つことをしてあげてください。その行為はあなたの愛です。」と答えました。神様が私達に求められる愛は、本当に身近にある愛です。その小さな愛がどんどん大きくなって世界中の愛へと成長していくのだと平和指導者は言いました。      私は日本に来て、初めて日本では、大きな地震や洪水が毎年のように起こり多くの人が被害を受けるということを知りました。そ

希望が見え始めた-MENEMUKAN HARAPAN BARU

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  希望が見え始めた   (ルカ 24.13-35 ) 皆さん、主の御復活おめでとうございます。イエス様の御復活は、弟子達にとって最も大事なことでした。なぜならば、イエス様を失った悲しみが、再びイエス様に接したことで、キリスト者として生きていく勇気と希望を感じることが出来たからです。 今日の福音書はエマオの弟子の話として有名です。イエス様はエマオという村へ向かっている二人の弟子達の前に現れました。しかし、本文 16 節によると二人の目は遮られていて、イエス様だとは分からなかったと書かれています。 彼らの目が遮られていたという言葉はどんな意味でしょうか。伝統的な解釈によると、復活なさったイエス様の姿は、その前の姿とは違っていたと言われています。ですから、エマオに向かっていた二人の弟子だけでなく、他の弟子達も、イエス様を見分けることができませんでした。 では、どのようにイエス様は二人の弟子に気づかせたのでしょうか。イエス様はご自分が誰なのかをすぐに表さず、弟子達自らが全てのことを悟ることができるように、再び神様の言葉を教えてくださいました。そして、その言葉を終え、弟子達のためにパンを裂いてお渡しになった時、弟子達は、復活なさったイエス様であるとはっきりと確信したのでした。その時こそ、彼らが失望と悲しみから抜け出して、信仰を取り戻し、希望が見え始めた時になりました。 二人の弟子はすぐにエルサレムへの 11 キロの道を引き返しました。彼等はイエス様に会って得られた心の変化と喜びを信仰を通して他の弟子達とエルサレムで分かち合いたいと思ったに違いありません。二人はイエス様と道で話していた時、聖書を説明してくださった時、「私達の心は燃えていたではないか」と他の弟子達に言いました。私はこの言葉が好きです。心が燃えている人が一人でもいれば、周りに火を広げていきます。 私達も時々この弟子達のように、イエス様がそばで見守ってくださっていることに気がついていない時があります。自分の苦しさだけに目がいってしまいがちです。でも本当に自分だけが苦しいのでしょうか。 私達は、苦しい時や悲しい時、慰め励ましてくれる友がいます。苦しいのはあなただけではありません。もっと苦しい人達が世界中でもがき苦しんでいます。どうぞ、イエス様が、どんな時にも共にいて下さることをいつも心

「神の慈しみを受ける」MENERIMA KERAHIMAN TUHAN

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  「神の慈しみを受ける」 ヨハネ 20.19-31 皆さん、主の御復活おめでとうございます。先週、私達はイエス様の御復活を祝いました。今日、私達は「神の慈しみの主日」を祝います。私はイエス様が聖ファウスティナに仰った言葉を思い出しました。それは「私は愛であり、慈しみそのものである。いかなる悲惨も、私のいつくしみに勝ることはない。」 ( 『日記』 )1937.9.14 という言葉です。 皆さんここで語られる「神の慈しみ」とは何でしょうか。私は慈しみとは全ての人間の尊さ、美しさ、善さを分かち合うことだと思います。「愛と慈しみ」を実現するためにはお互いに人間としての尊厳を認め合うことが必要です。上から目線で、受ける相手を小さく見て人間の尊厳を傷つけることであってはいけません。誰であっても平等に支え合わなければいけないのです。 今日の福音書では、弟子達が復活したイエス様に出会った体験を述べています。復活されたイエス様は以前のように弟子達の真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と同じ挨拶を繰り返しました。 疑い深い弟子のトマスは、蘇られたイエス様の話を信じることは出来ずに、イエス様の脇腹の傷に触れて、やっと復活の事実を受け入れることが出来ました。イエス様はトマスに「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」とお仰いました。この体験によってトマスはイエス様を神様と崇めて信仰宣言をしました。この福音書を書いたヨハネは、皆さんにもこのトマスのようにイエス様を神様として信じるようにと勧めているのだと思います。 今日、ここに集まる私達もイエス様を信じています。御復活されたイエス様の証人である使徒達が記した聖書を信じて、イエス様の御言葉全てを信じて毎日生きています。しかし、私達が経験する様々な試練の中で、疑い深いトマスのように、恐れや疑念を持つ時があります。「目に見える」ものだけを信じ、自分の理想や価値、美意識が全てであるように錯覚し、願望に執着してしまいます。そして、それがうまくいかなくなると、自暴自棄になったりします。そういう時は自分の信じた信仰に立ち返ること、そして神様の助けを心の底から乞い願いましょう。 私達はどんなに年を重ねても、手探りで人生を生きています。歩いては転び、また転びます。その都度、神様は、私達を助け起こしてください