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互いに思いやり助け合う-CARING FOR AND HELPING EACH OTHER

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  互いに思いやり助け合う マルコ 1.40-45 今日の福音は先週に引き続きイエス様が一人の重い皮膚病患者を清めたことについて語られています。当時は、重い皮膚病になると、家族や社会から疎外されました。感染することを恐れることは当然でしたが、モーセの律法で、重い皮膚病は汚れていると考えられていたからです。 さらに、これは神の呪いであると理解されて、皆に忌み嫌われたようです。そのため、重い皮膚病は、通常のように癒されるのではなく、清められる事を求められました。 皆さん、当時の人が重い皮膚病によって、どれだけ苦しんだか想像できますか。愛する人から離れて全てを失い、失望のどん底の中で彼らは亡くなっていったのではないかと思います。 私は今日の福音を読んでいると、 8 年前に私が大学院で論文を書いていた時の事を思い出しました。その時、私はインドネシアのフローレス・マウメレでエイズ (HIV/AIDS) 患者と一緒に 1 年ぐらい過ごしました。彼らは、公の生活から排除されて、大きな精神的苦痛と共に生きていました。ある人は、彼らを生きている死体に例えました。肉体的には生きているが社会生活では死んでいると考えられていたからです。問題はエイズ患者達が私達と同じ人間ではない、と思われていた事です。私は彼らの悲しみや苦しみ、そして絶望感を理解しようとしましたが、自分の無力さを心の底から感じました。その時の私には手を差し伸べて助けることと、祈ることしかできなかったことを覚えています。この経験の全ては、今の自分にとってとても役に立っています。 皆さん、イエス様は絶望している皮膚病患者を拒絶せず、代わりに、深く憐れんで患者に触れました。重い皮膚病患者が「御心ならば、私を清くすることがおできになります」と願うと、イエス様は手を差し伸べてその人に触れ「よろしい。清くなれ」と仰いました。すぐに皮膚病は治り、その人は喜びました。これは、どんな状況であれ、イエス様が私達をとても愛し、助けてくださる事を意味しています。 この福音から学ぶことは二つあると思います。まず、私達が謙虚に救いを求めると、イエス様は必ず救いの手を差し伸べてくださる事を、信じる事です。もう一つは、私達もイエス様のように、思いやりの心を持って、私達の助けを求める人の声を聞いて寄り添う事です。なぜなら、私達は血のつ

癒しと祈りについて-ABOUT HEALING AND PRAYER

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  癒しと祈りについて マルコ 1.29-39 皆さん、今日の福音書では先週に続き、巡り歩いて、病気をいやしたり、悪霊を追い出したりして宣教するイエス様の姿と、人里離れた所で一人祈るイエス様の姿が印象的です。 イエス様の宣教とは、神様の国の到来を告げ知らせることでした。それは単に言葉によるだけではなく、「悪霊を追い出す」という表現で象徴されているような、神の国の到来を現実のものとして体験できるしるしを伴うものでした。 イエス様は一つの場所に決してとどまることなく、宣教するためにあらゆる場所へ出向いていきました。イエス様の祈りは、その宣教活動の中において、場所を選ばず、昼夜を問わず、あらゆる形で祈りを続けました。ですが、イエス様は治癒を求めて来る人々に、疑問を持ったであろうと思います。なぜならば、人々が求めるのは病気の治癒のみであり、神の国ではありませんでした。「これで良いのだろうか」、「人々は奇跡だけを求めて信仰を求めようとはしない」、イエス様は迷って、祈られたと思われます。 私達はイエスが癒しと宣教の間に、一旦退かれて、祈りと黙想の時を持たれたことの意味を考える必要があります。イエス様は悪霊追放の働きに備えるだけではなく、根本的なところで神様の意思を問い、自らの使命を確認するための祈りが必要だったのではないでしょうか。 私が吉祥教会にいる時、時々病気でミサに出席できない人のところに御聖体を持って行っていました。その男性は毎回私の来訪を大変喜んでくださりました。実際私は彼の病気を治す力もなく、祈りを共に捧げただけでしたが、彼にとって心の癒しになったであろうと私は信じています。 私はキャンパスで勉強する以外にも、インドネシアのコミュニティでミサ等の奉仕活動をしています。信仰に関する全ての活動を、私は喜びをもって行っています。これらの行いは私の心の癒しと祈りであり、同じように信者の方達にも心の癒しと祈りを感じて欲しいと願っています。 ところで、自動車の自動運転や、電子マネーや仮想通貨など、世の中がどんどん進化し、時代は変わっていきます。しかし、福音が人を介して伝わることは変わりません。神様から受けている恵みに気づき、周りの人に奉仕し、さらに他の人を動かす影響力のある人が現代に求められていると思います。私達も各自の生活の場に神様から派遣され

イエス様の福音宣教-OPEN YOUR HEART TO BE MOULDED BY THE POWER OF GOD'S LOVE

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  イエス様の福音宣教 マルコ 1.21-28 皆さん、今日の福音はイエス様の宣教活動の幕開けとなるカファルナウムの会堂での出来事が紹介されています。人々はイエス様の教えに大変驚きました。その教えは、律法学者のように事実を説明するのではなく、イエス様の御言葉が事実となっていくという人々に感動と驚きを与えたからです。 イエス様にとって「初めて」公の場で教えを語ったのですが、それまでのイエス様はナザレの田舎町で素朴な両親、ヨゼフとマリアと一緒に、ひっそりと暮らしていました。決して人々に期待されるような存在者ではなかったのです。 多くの人々が驚く中で、 特にイエス様の新しい教えの元に集まってきた病人や悪霊に取り憑かれた者達でした。彼らはイエス様の御言葉に心を癒し、イエス様の教えに従ってついていこうと思ったに違いありません。 今日の福音は宣教における基本的な方向性が示しています。イエス様の苦しんでいる人達を待つのではなく、自分の方から出向いて行こうという態度こそが宣教の本質であると思います。 イエス様の宣教の最初の言葉は「悔い改めて福音を信じなさい。」でした。このイエス様の御言葉を信じる前に私達は悔い改めるという努力をしなければなりません。悔い改めるという行為は決して簡単なことではありません。イエス様の御言葉を信じることよりも難しく、心の痛みを伴うこともあると思います。自分の弱点や罪に目を向けるのは、とても嫌なことです。しかし、イエス様は私達の全てを受け止めてくださいます。 皆さん、私達キリスト者は、神様に見つけていただき、憐れみの心を授けられ、そして導かれています。それ故に、イエス様の教えと私達の行いは完全に一致しなければいけません。私達を縛り付ける考え、習慣、病気、対立などから解放されるためにもイエス様の教えに従って、心を柔らかくして生きていきましょう。 今日の福音について黙想した時、私は次の詩篇の言葉を思い出しました。「主は憐れみ深く、恵みに富み忍耐強く、慈しみは大きい。永久に責めることなくとこしえに怒り続けられることはない。主は私達を罪に応じてあしらわれることなく私達の悪に従って報いられることもない ( 詩編 103.8-10) 」。 神様は全ての人を慈しみ、救済の手を差し伸べてくださいます。私は 憐れみ深い神様の「無限の愛」と「憐れむ

イエス様の弟子になり-BECOMING JESUS' DISCIPLE

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  イエス様の弟子になり マルコ1 .14-20 皆さん、今日の福音書の中でイエス様は多くの人に福音を告知しました。イエス様が神の国の福音を告げ知らせる活動を始めたとき、最初にしたことは、弟子を呼ぶということでした。イエス様は、「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。その御言葉は神の国で人と人との出会い、そして、その人達との関わりの中で本当の信仰が始まるという意味であると思います。 「福音」は「よい知らせ」であり、喜びに満ちた知らせです。フランシスコ教皇は使徒的勧告『福音の喜び』の中でそのことを神の国の到来であると強調しています。神様は遠くから人間を眺めているような方ではありません。神様のほうから私達に近づいてきて、救いの業を行おうとしておられるのです。それはまさに救いのメッセージそのものではないでしょうか。 私達にとって福音とは何でしょうか。それは日々、私達がイエス様と共に生きることです。それが福音の喜びです。祈りをとおして、御言葉をとおして、秘跡をとおして、このイエス様との交わりを深めていくことです。 多忙な日々の中で、私達がイエス様の忠実な弟子となり、他の人々に良い知らせを伝えることができるように心がけましょう。私はキャンパスで勉強する以外にも、インドネシアのコミュニティでミサ等の奉仕活動をしています。信仰に関する全ての活動を、私は喜びをもって行っています。 私達がイエス様と共にいる喜びを深く味わい、イエス様と共に生き、福音の喜びを周囲の人々と分かち合うことができるように努力しましょう。自分の全てを神様に向け直し、この神の国の到来のメッセージに信頼を置いて、そこに自分をゆだねてみましょう。それが、私達キリスト者として、そしてイエス様の弟子としての生き方だと思います。日本は寒い日が続きますが、どうぞ皆さんお元気でお過ごしください。 主の平和   BECOMING JESUS' DISCIPLE   My dear brothers and sisters. In today's Gospel, Jesus begins to proclaim the good news of the kingdom of God to many people. At that time, the

愛を持ってイエス様を証する-BEING GOD'S WITNESS IN OUR LIVES WITH LOVE

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  愛を持ってイエス様を証する ヨハネ 1.35-42 皆さん、お元気ですか。どの様なお正月を過ごされましたか。私はお正月をプレストン教会の司祭達や神学生達と一緒でしたが、 1 月 2 日からはモナシュ大学での勉強が始まり忙しく過ごしました。どうぞ今年もよろしくお願い致します。 今日の福音書は洗礼者ヨハネがイエス様について証言するお話です。洗礼者ヨハネはイエス様を見た時「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と多くの人々に伝えました。 洗礼者ヨハネにその時何が起こったのか、私達には分かりません。ただ、私達にも分かることが二つあります。それは、この洗礼を通して、イエス様が神様から特別な使命を与えられて世に来られたことです。そして、洗礼者ヨハネにとっても、この体験こそがイエス様こそメシア=神の子であることを確信する決定的な動機になったことです。 このブログを読んでくださっている皆さんも洗礼を受けていると思いますが、洗礼は信仰の完成ではありません。水の洗礼を受けても、私達が完全になるわけではないし、罪を犯さなくなるわけでもありません。それは信仰の始まり、救いの第一歩となるだけです。皆さん、どうぞ罪人になるような感情を持たずに、愛を持って生きてください。 一人一人が聖霊の香りを放つ神の子として、罪ではなく、愛を持って生きていけますように祈りましょう。 ところで、1月15日は、聖アーノルド・ヤンセンの記念日です。聖アーノルド・ヤンセンは神言会、聖霊会、そして日本にはありませんが永久礼拝の聖霊会と、三つの修道会を創立したドイツ人司祭です。 聖アーノルド・ヤンセンは、聖霊の導きに完全な信頼を置いていました。神の御旨であると確信することは必ず聖霊の助力によって達成されるという堅い信仰があったようです。 私達は心を合わせて聖アーノルド・ヤンセンの祈りを唱えましょう。御言葉の光と聖霊の恵みによって、罪の暗闇と不信仰の夜は消えうせ、イエスの御心が全ての人の心のうちに生きますように、アーメン。 皆様にとって 2024 年が良い年になりますように願っています。 主の平和     BEING GOD'S WITNESS IN OUR LIVES WITH LOVE John 1.35-42 My dear brothers and

クリスマス:愛と平和の分かち合い-CHRISTMAS: SHARING LOVE AND PEACE

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  クリスマス:愛と平和の分かち合い ヨハネ 1.1-18 皆さん、クリスマスおめでとうございます。今日の福音書は、ヨハネの福音書ですが、大変格調高い表現をもって、神様とイエス様との深い関係を表しています。特に、神の御子であるイエス様のことを「言葉」と呼び、「始めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。言葉は肉となって、私達の間に宿られた。」クリスマスとは神様が人間と出会い、共に生き始めたという、最大のイベントの始まりです。 毎年、キリスト者である私達は必ずクリスマスを祝います。私のインドネシアの地元では、多くの人が教会に行き、クリスマスツリーを飾り、贈り物を交換し、一緒に食事をし、盛大にお祝いをします。私は沢山の友人にメールやラインでクリスマスの挨拶を送ります。皆さんにも、それぞれのクリスマスの過ごし方があると思いますが、改めてクリスマスの本当の意味を思い出していただきたいと思います。 イエス様の誕生は、貧しい人達や苦しんでいる人達に喜びと希望、そして生きる勇気を与えてくれます。貧しければ貧しいほど、イエス様は、彼らにとって特別な希望の星であったに違いありません。 現在、世界中に戦争や自然災害、そして病や貧困に苦しんでいる人々がいます。このクリスマスを彼等がどのように迎えるのかを想像してください。一人でも多くの人たちが愛と平和の分かち合いによって心が癒されますように祈りましょう。 オーストラリアでは 11 月頃からクリスマスソングが流れ始めます。ほとんどの人達は集まって食事をしたり、プレゼントをあげるだけの習慣になっています。これはこれで楽しいイベントですが、私達キリスト者は本当のクリスマスの意味を持って祝います。 2000 年以上の時を経て、私達も、神様の恵みに与ることができるよう感謝を込めて祝いましょう。 人のことを思いやる、人の幸せを考える、人を喜ばせる、そのようなクリスマスの心を、この時期だけでなく、一年中持ち続けて頂きたいと思います。 オーストラリアは今夏です。私は雪のない国でクリスマスを迎えます。日本やインドネシア、そして全世界に散らばるキリスト者の皆さん、心暖まるクリスマスをお迎えください。 主の平和   CHRISTMAS: SHARING LOVE AND PEACE John 1.1-

星のように輝いて生きる-LIVE HUMBLY AND SHINE LIKE THE LIGHT OF THE ADVENT CANDLES

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「星のように輝いて生きる」 ヨハネ 1.6-8.19-28 皆さん、今日私達は待降節第 3 主日を迎えます。祭壇の前には、 3 つの待降節の蝋燭が点灯しています。燃える蝋燭が主の到来を歓迎する準備を象徴しています。同時に、私達の生活も神様の前でより鮮明に映し出されます。 今日の福音書で、洗礼者ヨハネは正直な心で彼が救主でもなく、エリヤでもなく、将来の預言者でもないと言いました。そして、彼は「主の道をまっすぐにせよ」と荒れ野で叫びました。彼の叫びによって、ユダヤの地方とエルサレムの住民は皆、罪を告白し、ヨルダン川で洗礼を受けたのでした。 洗礼者ヨハネは、イエス様の到来を確信したにも関わらず、決して自慢しませんでした。洗礼者ヨハネの謙遜は、彼がただの神様の使者である思ったに違いありません。それは洗礼者ヨハネに与えられた重要なミッションだったのではないでしょうか。 皆さん、今日の福音書では私達に 2 つのことを教えていると思います。一つ目は、待降節の蝋燭の光は私達がキリストの光が私達の生活の中にあることをあえて世界に証言しなければなりません。私達がキリストの光の中で生きるならば、私達はキリストの光の証人にならなければなりません。私達の心の内が神様の前にさらけ出される時です。最も大事なことです。どうぞ、神様の言葉を読んだり瞑想したり、教会のミサで祈ったり、教会の活動に参加したりしながら自分の一年の心の有り様を見直し悔い改めるところがあれば、素直に赦しを求めて頂きたいと思います。 二つ目は、私達は常に謙虚でなければならないということです。信者としてどのように振る舞うかについて自分自身を反省しなければなりません。私は、日々の活動においても、常に謙虚な姿勢で、他者からの提案を受け入れ、学び続ける姿勢を持つことが必要だと思っています。例えば、学生として、授業で学んだことに関する先生からのフィードバックを素直に受け入れています。それが私の成長必ず促すと信じています。 私達も洗礼者ヨハネのように謙虚さを持って振る舞えるように、私達の心を正しましょう。私達も光り輝く星のように生きていきましょう。 主の平和   LIVE HUMBLY AND SHINE LIKE THE LIGHT OF THE ADVENT CANDLES My dear brothers and sisters in

神様を迎える道を整える-PREPARE THE WAY TO WELCOME OUR LORD JESUS CHRIST

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  「神様 を迎える 道を整える」 マルコ 1.1-8 今日の福音書では、洗礼者ヨハネが預言者イザヤの呼びかけを繰り返し、救い主イエスを歓迎します。洗礼者ヨハネは「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫びました。ここで、洗礼者ヨハネの役割は、人間がイエス様に信仰の道を示すことでした。洗礼者ヨハネは私達の生活の中に神様の存在を迎入れることで、私達の生活の道をまっすぐに正し信仰を深めるように薦めています。この姿勢はクリスマスの日に向けての準備となります。 皆さんの信仰の道、すなわち神様へ続いている道は澄んだ心でまっすぐにつながっているでしょうか。敵意、憎しみ、プライドなどによってねじまげられた道になってはいませんか。 今日の福音朗読によって私はティモール島の民話を思い出しました。昔、天と地の距離は今よりずっと近かったと言われています。ある所に、一本の高い竹の木が天に届いていました。そして、天と地の間に一つの梯子がかかっていました。梯子は、神様が世界に降りてくる方法として、そして人間が天に昇る道として使用されました。神様は人間に、梯子を絶対傷つけてはならないと仰いました。しかし、一人の悪い人が梯子を壊してしまいました。その結果、その梯子は地面に落ち天は更に高く跳ね上がってしまいました。それ以来、ティモールの人達と神様を結ぶ道はなくなってしまったのです。 確かに、この民話はティモールの人達にとってとても大切な意味がありました。当初、神様と人間の関係は非常に緊密で良好であったことを示しています。この良好な関係は、天と地の近さと、神様と人間が出会う道となる梯子によって示されています。しかし、人間の欲望のために、人間と神様の美しい関係は悪くなってしまいました。 ティモールの民話では、梯子で人間と神様の関係を示していますが、一方、ユダヤ人の文化では、人間と神様の関係は道で象徴されています。預言者イザヤは「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、私達の神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷は全て身を起こし、山と丘は身を低くせよ」とユダヤ人達に教えられました。違う文化の中で、信仰への道は異なって表現されているのは興味深いと思います。 クリスマスの日に、私達の兄弟となる神の子イエス様のご誕生を歓迎したいと思います。クリスマスの日に光輝くイエス様を

目覚めて待つ-STAY AWAKE AND WAIT

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「 目覚めて待つ 」 マルコ 13.33-37 皆さん、今日、私達は待降節の最初の日曜日を迎えています。そして、教会の新しい典礼年が始まります。待降節の前半は、終末におけるキリストの再臨に私たちの心の目を向けさせます。 歴史は、人間の数限りない神へのそむきと、それにもかかわらずたえず人に回心を呼びかける神様の慈しみとで織りなされています。待降節はこの人間の罪の闇と、いつも人間を受け入れてくれる神様の愛の暖かさのコントラストが最もはっきりと現われる時です。 今日の福音書のテーマは「目覚めて待つ」ことです。イエス様は「いつも気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなた方は分からないからである。」と仰いました。 イエス様は度々「目を覚ましていなさい。」と言われますが、イエスが言われる「目を覚ましていなさい」ということは、いつも準備をし、周りに気を配りながら救い主を待つということではないでしょうか。 イエス様の御教えは待つことに忠実でいなさいということです。待降節とはキリストがベツレヘムの馬小屋で生まれる日であるクリスマスを待ち、見守るように求められる時です。でも本当に大切なことは、自分を神様の前に心や魂の全てを差し出して祈る時です。 私は昨年まで吉祥寺教会でクリスマスの馬小屋を作ったり、教会の前でイルミネーションを作ったりしてクリスマスを準備してミサのために心を整えていました。ですが今年は神様と向き合いながら心の準備に重点を置いてクリスマスを迎えたいと思います。皆さんも今年のクリスマスに向けて、自分なりの準備をしてみてはいかがでしょうか。神様の御前に心を整えてから祈りましょう。そして、全ての心配事や嬉しいこと、感謝すること、悲しいことを神様に伝えてください。 クリスマスは神様が人となられたことを喜び祝う日です。神様は私達と同じ弱い人間となってくださいました。そして、同じ苦しみ、悲しみを共にしてくださいます。どうぞ待つことや悔い改めの意味を再確認しながら、イエス様の御降誕の準備期間を過ごしていただきたいと思います。 皆さん、今週もお元気にお過ごしください。 主の平和   STAY AWAKE AND WAIT My dear brothers and sisters in Christ. Today we

小さい者を最優先に考える-DOING SMALL THINGS WITH A GREAT LOVE

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小さい者を最優先 に考える マタイ 25.31-46 皆さん、今日、私達は全教会と共に王であるキリストの祝日を祝います。イエス様は世界のあらゆる力よりも優れておられる唯一のお方です。 今日の福音書の中では、イエス様が強調していることは二つあると思います。まず、神の国に入るためには、私達は喜んで最も小さい者達、つまり社会的弱者を大事にしなければならないということです。彼らは社会から忘れ去られてしまう人、いつも人の助けが必要な人、空腹な人、病気の人、牢屋の中にいる人かもしれません。 次に、貧しい人や避難民を助けることは、イエス様ご自身に尽くすことと同じことであるということです。ヨハネ 15 章 12 節「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合う。」つまり、困難に苦しむ人々の人生の内に、イエス様がおられるのです。 私達の周りには様々な苦労をしているお友達が、たくさんいます。私達は苦しんでいる人々の心に寄り添いながら、愛を持って支えてあげることを求められています。確かに、愛を表すのに犠牲が必要な時もあります。イエス様が私達のために犠牲を払って十字架にかけられて愛を示されたように、私達も犠牲を払ってでも、行動を通して、最も小さい者達、困っている人達に愛を捧げましょう。 今日の福音を読むと、モナシュ大学に初めて行った時のことを思い出しました。サザンクロス駅前で、ホームレスの人達がお金を求めていました。多くの人が通り過ぎますが、彼らを気にかける人はなかなかいませんでした。神様が彼らを必ず気遣われ、いつか救いがある様にと祈りました。同時に祈ることしかできない自分が少々恥ずかしくもありましたが、それが今自分にできる最大限のことだと思い直して、更に祈りました。 私達と同じように先の見えない不安の中で生きている人々が、希望の光を待ちわびながら、世界中で祈っています。特に、難民や戦争の中で生きる人々、食糧不足に苦しむ人々など、私達の助けを切実に必要としています。今こそ、お互いに助け合い、励まし合いながら、前に進み続けましょう。そして私達を見守ってくださるイエス様がどんなに苦しい時にも共におられることを、毎日、思い出してほしいと思います。明るい未来が必ず来ることを信じて祈りましょう。 皆さん、今週もお元気にお過ごしください 主の平和 D

神様に与えられた才能に責任を持って生きる-BE RESPONSIBLE FOR THE GIFTS THAT GOD HAS BESTOWED UPON US

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  神様に与えられた才能に責任を持って生きる マタイ 25.14-30 今日の福音書の中でイエス様は私達に興味深い例え話をなさいました。それは、ある主人が旅行に出かける時、しもべたちを呼んで、自分の財産を一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けました。 主人は「それぞれの力に応じて」しもべたちに財産を預けました。主人はしもべたちが預かった財産をどのようにして最大限に管理できるかを確かめたかったのだと思います。しもべたちに預けられたタラントンの金額の違いは、しもべたちがその財産を管理する能力の象徴だったのかもしれません。 福音書の中で、五タラントンを預かった者と二タラントンを預かった者は財産を上手にそれぞれが 100 %の利益を上げました。一方、一タラントンを預かった者はそのお金を増やすことなど考えませんでした。彼は穴を掘り土の中に一タラントンを隠しただけでした。 今日の福音書の例え話からの教えは神様が私達一人一人に異なる才能をお与えくださったということです。それは才能、専門知識、能力、資産であるかもしれません。しかし、与えられた才能の目的は皆同じです。つまり、神様の栄光と他の人の幸せのために、私達の生活の中で様々な才能を自分なりに最大限に開かせることが私達に求められているのです。神様が私達に託してくださった才能に感謝し、キリスト者としての使命、責任を持って生きていきましょう。 私はギターやピアノを弾くのが好きです。音楽は私に新たな活力を与えてくれるだけでなく、他の人達にも喜びを与えることが出来ると思います。吉祥寺で説教の後に歌ったことは良い思い出です。それは、神様の栄光を讃える為でもあり、そして人々の幸せのために、神様が私に託された才能だと思います。 皆さんも色々な才能を持っていると思いますが、最も大切な才能は信仰だと思います。信仰を持っているならば、神様がさらに 私達の信仰を強めて、辛いことがあっても前に歩んでいく力を与えてくださいます。自分の良さを、自分の恵みを、生かしていく、あるいはそれに向かって、それをさらに生かしていける、そのような恵みを求めながら祈りましょう。 皆さん、今週もお元気にお過ごしください。 主の平和   BE RESPONSIBLE FOR THE GIFTS TH