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キリストの教えを信じ続ける-BELIEVE IN GOD

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キリストの教えを信じ続ける マタイ 16.13-20 皆さん、今日の福音書はイエス様がご自分について弟子達と対話をする物語です。この対話はイエス様が私達を救うための計画を成就するためにエルサレムに向かう途中で行われました。イエス様は、自分がユダヤ人達から拒絶され、十字架につけられることを知っておられました。 そのような状況の中で、イエス様は弟子達に、本当のイエス様の教えと信じ続ける信仰の力を、心の底から求められたのだと思います。 多くの弟子達の中で、イエス様を預言者以上の存在として見ていたのはペトロでした。ペトロは、イエス様がメシアであり、生ける神の御子であることを悟りました。ペトロは、弟子達をイエス様の言葉通りに教えを守り、弟子達を完全な信仰へと導いたのです。 教会は聖人の集まりではなく、神様の教えに従って生きようとする者達の集まりです。最近、色々な理由で、多くの人が教会から離れていく傾向にありますが、教会はいつでも離れて行った人々の立ち返りを待ち、迎える準備をしています。「一匹の羊が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行きなさい」というイエス様の言葉通りに教会のドアはいつも開いています。もし、教会から離れることがあったとしても、一度洗礼を受けた人は、必ず立ち返り、信仰を取り戻して教会に戻って来る時が来ると私は信じています。 今日の福音は、私が 3 年間ぐらい、助任司祭として吉祥寺教会で働いていた時のことを思い起こさせました。私は祈りやミサを捧げる以外にも主任司祭や司祭達、信者の方々と共に様々な活動をしました。教会委員会などの会議に参加すること、教会の周りを掃除すること、高齢者のために御聖体をもって訪問もしました。特に主任司祭が不在の時は大変でした。毎日不安の中で手探り状態で奉仕したことを覚えています。ですが、その経験の中で、私はどこにいても神様の導きを求め続け、キリストの教えを信じました。これらの経験を通して、他の人々と共に働くことの大切さを学ぶことが出来たと思います。 ところで、皆さんは暑さの中で毎日大変お忙しいと思います。私も勉強のために大学に行きますが皆さんの祈りのおかげで元気です。難しい英語での生活ですが、希望と共に頑張っています。どうぞお元気にお過ごしいくださいね。いつもお祈りしています。 主の平和。 BELIEVE IN

カナンの女性の信仰からの学び-LEARNING FROM THE FAITH OF A CANAANITE WOMAN

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  カナンの女性の信仰からの学び マタイ 15.21-28 今日の福音書は、一人の女性の信仰についてです。興味深いのは、その女性の名前は福音書には記載されていません。その女性はカナンから来ました。 その当時、カナン人は異邦人と呼ばれていました。 当然のように、ユダヤ人はカナン人を「犬」と呼んだそうです。この呼び方は、人間として、失礼で汚れた、卑劣な表現だと私は思います。なぜなら、人を犬と呼ぶことは絶対に許されないからです。 福音書では、イエス様は女性に言いました。「私はイスラエルの家の失われた羊の所にしか遣わされていない」。興味深いことに、女性はしつこく何度も救いを乞います。「主よ、どうかお助けください」と叫びました。イエス様が「子供達のパンを取って子犬にやってはいけない」とお答えになると、「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と女性は言いました。その女性の言葉のやり取りの中で、イエス様は彼女の聡明さと信仰心に心を動かされて次のように答えました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように。」そして、イエス様は、彼女の娘の病気をいやされました。このカナンの女性はイエス様が主であることを心の底から信じる柔らかな心の持ち主であったのではないでしょうか。 今日の福音は、信仰は謙虚に神様を信じることが何よりも大切であるということを教えています。神様の前で、カナンの女性は自分が何にも値しない異教徒であることを恥じていたはずです。それにも関わらず、彼女は神様の慈悲をお願いしました。そして、イエス様は女性の信仰の偉大さに心を打たれたのです。その結果彼女の願いは叶えられました。 皆さん、私達の日常生活には多くの課題があります。私の場合、毎日、キャンパスに行って勉強し、英語で話しをしなければなりません。ある意味、毎日同じことの連続です。時々、嫌になって、全てを投げ出したくなることもあります。こんなことをしていて、 英語が上手になるのだろうかと疑問を持つこともあります。このような時こそ、私は、勉強を始めたころの自分に立ち返り、改めて神様の導きをお願いするようにしています。 私達は毎日、人生という旅の中で、神様の元に走り寄って、助けを乞うことがあります。私達が神様に忠実であるならば、神様は私達が求めるもの

マリア様の歌-MARY’S SONG OF PRAISE

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  「マリア様の歌」 ルカ 1.39-56 皆さん、今日の福音書では、マリア様が天使ガブリエルによって、聖霊が降り、神の子を産むと 告げられたことを伝えています。天使のお告げを素直に受け入れたマリア様は、後に洗礼者ヨハネの母になるエリザベトを訪ねました。年老いて身ごもったエリザベトとマリア様は 不思議な神様の業の中で、喜びに包まれながら、共に祝福に満ちた時を過ごしたと思います。 エリザベトは、マリア様と胎内のお子様を祝福しました。そしてそれに応えるように、マリア様は歌をお歌いになりました。この「マリアの歌」は、長い教会の歴史の中で、絶えることなく歌い続けられています。「私の魂は主をあがめる、私の霊は救い主である神を喜びたたえる」から始まります。そして後半では 救いを待ち望む全ての人への祈りへと続きます。大変素晴らしい讃美の歌です。 この歌の中でマリア様はご自分を「身分の低い者」と言われ、主を畏れています。ですがマリア様は、受胎告知に慌てることなく、神様を信頼され、神の御業を全て受け入れました。そして、マリア様は神様について声を大きく誉め讃えています。つまり、マリア様は神様を喜びながら、神様と結ばれているのだと思います。 全てを神様に委ねたマリア様は幸せになるという確信を持って、言われました。「今から後、いつの世の人も私を幸いな者と言うでしょう。」皆さんも、このマリア様の勇気と謙虚さを感じながら、ご一緒にマリアの歌を味わっていただきたいと思います。 私は神学校に通っていた頃、このマリア様の歌をよく知っていました。日々の生活の中でこの歌を歌いながらいつも謙遜であることにつとめること、常に 神様に感謝を捧げることを教えられました。この教えは今もこの歌と共に私の中で生きています。 私達は忙しい生活の中で、時々謙虚さを忘れて、自分を大きく見せようとすることがあります。ついつい人を羨ましく思い、勝手に自分だけが不幸だと思うことはありませんか。でも神様から頂いた恵は皆一人一人違います。それは特別な恵みなので、比べることはできません。誰でも皆、「自分が神様に救われた物語」を持っているように、マリア様も同じ思いを持って、この歌を歌われたのだと思います。 ところで、8月 15 日は太平洋戦争が終わってから 78 年目です。全世界で沢山の人々が犠牲になりま

神様の声に耳を傾ける-LISTENING TO GOD’S VOICE

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  神様の声に耳を傾ける マタイ 17.1-9 皆さん、今日の福音書はイエス様の変容の話についてです。イエス様は12人の弟子の中からペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を選び、山に登り祈っているところに、旧約聖書の預言者であるモーセとエリヤが現れました。すると、イエス様の顔が変わり、姿はこの世のものではない純白の輝きに包ました。イエス様はモーセとエリヤとご自分の最期の時のことについて語り、その中で、御父の深い愛、そして御父が託された使命を明らかにされました。 三人の弟子達は、イエス様たちの会話を全く理解出来なかったものの、神様の存在を目の前で感じて、畏敬の念で心がいっぱいになりました。そして、御父の「これは私の愛する子、私の心にかなう者。彼に聞け」という声が響きました。弟子達は御父の「彼に聞け」と言われた言葉に恐れながら耳を傾けました。 この出来事からの学びは、イエス様の声と呼びかけを聞くということです。神様と出会う者は新たに使命を与えられます。人間は新たに生まれ変わり、新しい使命と共に、自分の中の心の変化を感じることができるでしょう。それこそが変容です。神様との出会いや神様に与えられた使命を感じることこそが神様の声を聞くと言う意味であると私は思います。 私が司祭になろうと決心した時、祈りと黙想、聖書を読むことで、神様と向き合い、神様の御意志をよく理解出来るように努力しました。そして、私は神様と共に体験して与えられた実り、つまり「喜び」を 1 人でも多くの人に伝え、分かち合いたいと思って司祭になりました。神様に出会った弟子達も、イエス様の変容を目にして、信仰を固めて、後に来る幸せを信じ、その幸せを多くの人と分かち合いたいと思ったのではないでしょうか。 「イエス様の変容」という出来事は、凄いものを見た、というただの驚きではありません。それは私達が日々の生活の中で神様の声に耳を傾けながら生きていかなければならないという使命の一部であるということです。 慌ただしい日々を生きていく中で、私達はイエス様の声を信じ受け入れることが出来るならば、私達はいつか必ず幸せという恵みへと導かれます。イエス様が変容された様に、私達も毎日微笑みを忘れず、いい顔、いい心で生きていきましょう。 ところで、メルボルンは寒い日がまだ続いています。しかし、皆さんの祈りのおかげで

信仰という宝-THE TREASURE OF FAITH

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  信仰という宝 マタイ 13.44-46 皆さん、今日の福音書の中で、「隠された宝」または「真珠」として例えられている「天の国」とは、私達の日常生活を支配しておられる神様の愛の働きのことです。ある農夫は汗して耕していた畑で、そして商人は遠い外国の仕事先で信仰の宝を見つけました。宝を見つけた二人は喜んで全てを売り払い、宝を手に入れました。彼らの手に入れた宝は、彼らの人生をすっかり変え喜ばしいものに変わりました。 この二つの譬えで言おうとされていることは、「この両方とも、信仰に満たされた天国というものは、何ものにも替えがたい、宝のようなものです」と言われています。 聖アウグスティヌスはこう言っています。「神よ、あなたは私達を、あなたに向けてお造りになりました。ですから、私達の心は、あなたのもとに憩うまで、安らぎを得ることができないのです」。このように、神様の愛の働きに私達の心の目が開かれることが、この例えのねらいであり、イエス様が言葉と行いで目指していたことだったのではないでしょうか。 皆さんにとって一番大切なもの、宝とは何でしょうか。私はカトリックの家庭に生まれました。 子供の頃から、父と母はいつも子供達に、村の教会で祈り、ミサに行くように教えました。 両親は常に最も美しい宝はどんな時も、毎日神様と一つになって生きていくことだと教えてくれました。私はこの両親の教えをずっと信じて生きてきました。そして毎日、神様を信頼し、神様の愛の内で生きています。 皆さん、どうぞ信仰という宝をご自分の中で探してください。富や財産は使えば消えてしまいますが、信仰の宝と愛は消えることはありません。見えないところにこそ本当の宝があります。本当の信仰は幸せをもたらせ、喜びで皆さんの人生を満たしてくれます。神様と触れ合えば触れ合うほどに皆さんの「信仰の宝」は成長します。どうぞお互いに分かち合いを通して信仰の輪が広がりますよう、ご一緒に祈りましょう。 ところで、オーストラリアは寒くなりました。日本は毎日とても暑いようですが、どうぞお身体を大切にしてください。 主の平和 Catholic church in Lahurus-Indonesia THE TREASURE OF FAITH Mat 13.44-46 My dear brothers and

良い麦となって生きる-LIVE LIKE A GOOD SEED OF WHEAT

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  良い麦となって生きる マタイ、 13.24-43 皆さん、今日の福音は先週に引き続き、種についての例え話です。ある人が良い種を畑に蒔きました。すると、人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦の種を蒔いて行ったのです。芽が出て、実ると、毒麦も現れました。興味深いことに、農夫は毒麦を引き抜きませんでした。農夫は、収穫の季節が来るまで、麦と毒麦を育つままにしました。刈り入れの時、まず、毒麦を集めて、焼くために束にしました。そして、麦の方は集めて、倉に収めました。 ここで、良い種を蒔く者はイエス様であり、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦の種を蒔いた敵は悪魔です。ここから考えられることは「敵の仕業」は形になって必ず現れるということです。それと同時に、たとえ「敵の仕業」が存在するとしても、神様は必ず焼き払われます。 皆さん、この例え話の中で、イエス様が私達に教えたかったのはどんな苦しみの中であっても私達は生き残り、成長しなければならないということだと思います。さらに、イエス様は私達の周りには何千もの「毒麦」がある中でも私達に「良い麦」のままでいるようにと求められました。つまり、私達はどのようなことがあっても日々の生活の中で善良な人間に成長しなければなりません。 どんな実を実らせるかは、私達自身に任せられています。どんな状況に置かれても、心が乱されても、良い麦の種であるよう、覚悟をあらたにして善きキリスト者として生きていきましょう。 振り返ってみると、私の人生にはいつも神様の助けが関係していると思えるような事がたくさんありました。例えば、 2018 年に初めて日本に来た時の経験です。その時、私は日本語がまったく理解できませんでした。日本語での挨拶やひらがなとカタカナの書き方さえ知りませんでした。しかし、神様の愛の助けのおかげで、完璧ではないものとしても日本語を学ぶことができました。それは私という種が神様によって植えられ、たくさんの人によって耕された畑で育てられたのだと思います。 私は私という種を蒔いてくださった神様に感謝をしながら生きていこうと思います。 さて、皆様お元気でお過ごしでしょうか。数日前、秋田県で雨と洪水があったことを知りました。今、世界中で気温の上昇、洪水や地震災害、そして戦争などによって、多くの人が苦しんでいます。そういう状況

神の御言葉を聞き、神の御言葉と共に生きる-LISTEN TO AND LIVE BY GOD'S WORD

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  神の御言葉を聞き、神の御言葉と共に生きる マタイ 13.1-9 皆さん、マタイによる福音書13章には、沢山の例え話が多く記されています。今日の福音書の中でイエス様が最初に語られたのは、種まきの例え話です。ある人が蒔いた4つの種は様々な形で蒔かれた「福音の種」のことで、その種から成長した木は私達の信仰生活のあり様を指し示しているように思います。 第1の種は、道端に落ち、鳥が食べてしまいました。道端と言うのは、人やロバなどに踏み固められ、硬くて根を張る余地がありません。ちょうど、心が硬くなっていて、せっかく福音を聞いても受け入れない人の様です。 第2の種は、石だらけの地に落ち、すぐに芽を出しましたが、日が昇るとすぐに焼けて、枯れてしまいました。熱しやすく冷めやすい人のことかもしれません。 第3の種は茨の茂みに落ち、茨にふさがれてしまいました。茨とは、誘惑のことだと思います。人間は様々な誘惑に負けてしまいます。「お金」は、お金持ちにとっても貧乏人にとっても、大きな誘惑です。信仰を持っていても、なかなかこの誘惑から自由になることができないのが実情です。 第4の種は、良い地に落ち、 30 倍、 60 倍、 100 倍の実を結びます。これは「御言葉を聴いて悟る人」です。御言葉を聞いて悟るとは、その言葉が命の言葉としてしっかりと心の中に宿るということではないでしょうか。その人の内で生きる力、また自分だけではなく、人の支えとなるということです。 御言葉は自分の生き方を変える力をもっています。今まで聞き過ごしていた、または読み過ごしていた御言葉が、聖霊の働きによって悟ることができるようになるのです。私達の内に蒔かれた種である御言葉が聖霊によって芽を出し、成長して大きな木になる様に祈り 努力し ましょう。 ところで、日本の夏はいかがですか。日本は連日災害級の暑さが続いているとニュースで知りました。オーストラリアはずいぶん寒くなってきましたが、おかげさまで私は元気です。冬休みの間、私は神学生達とシドニー旅行やゼミの活動にも参加しました。どのテーマもとても興味深いものでした。一つのテーマは「ラウダート・シ」についてでした。このテーマでは、気候変動は自然に起こるが、地球温暖化は主に人間の活動によって引き起こされていると いうことでした 。教皇フランシスコは

イエス様の元で安らぎを得る-COME AND REST WITH AND IN GOD

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  イエス様の元 で安らぎを得る マタイ 11.25-30 「疲れた者、重荷を負うものは、誰でも私の元に来なさい。休ませてあげよう。」これは福音書の中でも最も慰めに満ちた、私達へのイエス様の招きの言葉です。私達が真のカトリック信者になるためにはイエス様の御言葉をどこまで身をもって味わうことができているかということに掛かっています。 「私の元に来なさい。休ませてあげよう。」と言われるイエス様との出会いの経験なしに、そのイエス様の下での安らぎを味わう経験なしに、豊かな信仰生活を送ることは出来ません。素直に心の重荷の全てをイエス様に曝け出し癒しを希うならば、あなたを安らぎの中で包んでくださるイエス様を感じるでしょう。それが信仰です。 今日の福音を通して、もう一度、洗礼の時のあの幼子のような心に戻って、イエス様の与えてくださる安らぎ中で信じる者達だけが味わうことのできる喜びを、皆さんと共に味わいたいと思います。 ところで、先週の月曜日から、オーストラリアの学生達は冬休みに入りました。私は神言修道会の神学生達と一人の神父様と一緒にシドニーで一週間過ごします。シドニーでは私達は修道会ハウスに泊まりながらオペラハウスやシドニーのカテドラル を訪問して過ごしています。それ以外に、ニューカッスルという海に行ったり、公園でカンガルーを見たりしました。このシドニーでの休暇は楽しく、勉強だけの毎日の疲れから解放されような気分です。充分にリフレッシュ出来たので、これからもっと勉強しようという新たな意欲が湧いてきます。また新しい学期が始まりますが、頑張ります。どうぞ、皆さんもお元気にお過ごしください。 主の平和 A group photo with seminarians beside the Saint Mary's Cathedral Sydney   COME AND REST WITH AND IN GOD Mat 11.25-30 “ Come to me,  all you who are weary and burdened, and I will give you rest. ”  According to the Gospel, these are Jesus' most comforting words of invita

イエス様の弟子として生きる覚悟-PREPARE TO LIVE AS DISCIPLES OF JESUS

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  イエス様の弟子として生きる覚悟 マタイ 10.37-42 皆さん、私達は洗礼によってイエス様と結ばれ、そしてその死を授けられました。それはイエス様の御復活のように、私達も新しい命を生きるためです。 今日の福音書の中でイエス様は神の国の宣教者の弟子として生きなさいと命じられ、そしていつもイエス様と結ばれ、神様に対して生きていく覚悟を私達に求めています。 イエス様の弟子になるということは簡単なことではありません。洗礼を受けても全てを神様に委ねて生きる覚悟を持つことは大変難しものです。私達は当時の弟子達が与えられた様々な苦しみ、困難、また迫害を一つ一つ受け止めて最後までイエス様と結ばれて生き抜いたことを思い出しながら生きていかなければなりません。 私達も生活の中で、「イエス様の生き方は私達の生き方であり、イエス様の使命は私達の使命である」という考えを基本にして、生活しましょう。ぜひ自分中心ではなく他人を思いやる気持ちを持ってイエス様の弟子としての覚悟を持ちましょう。 ところで、先日私は 2 人の神学生とメルボルンの街を散歩しました。その散歩の途中、私達はとても素晴らしい音楽を耳にしまた。そこには、一人の日本人の男性がギターを弾き、同時にハーモニカを吹いて演奏していました。 彼は堂々と一心不乱に演奏をしていました。あっという間に多くの人が彼の周りに集まってきて、体を動かしながら彼の演奏を楽しんでいました。私も自然に体も心も弾んでとても感動しました。一人の日本人がメルボルンの街角で、多くの人達を感動させているのを見ていると、彼の生きる力を感じる共に勇気をもらいました。 まだまだメルボルンでの学生生活に慣れたとは言えませんが、この日本人の演奏を聞いて、自分も頑張ろうと思いました。皆さんも毎日お忙しいと思いますが、たまには自分自身をリフレッシュさせる時間を持ってみてはいかがでしょうか。それでは皆さん、お元気でお過ごしください。 主の平和 St Paul’s Cathedral- the home church for Anglicans in Melbourne. PREPARE TO LIVE AS DISCIPLES OF JESUS Mat 10.37-42 My dear brothers and sisters in