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義の道を生きる-LIVE AND WALK IN THE PATH OF RIGHTEOUSNESS

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義の道を生きる マタイ 21.28-32 皆さん、今日の福音書でイエス様は先週の「ぶどう園と農夫」の話に引き続き神様の意志に対する義の道に沿った生き方について話してくださいました。 この例え話には 3 人の人物が登場しています。それは、父親、長男、そして次男です。 父親は 2 人の息子の所に行き、同じことを言いました。「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」。 父親の話を聞いて、兄は「いやです」と答えましたが、後で考え直して、ぶどう園で働きました。しかし弟は「お父さん、承知しました」と答えましたが、働きに出ませんでした。ここで分かるのは、 2 人の息子が対照的な性格であるということです。 この例え話の重要な点は、否定の「いや」から肯定の「はい」への転換というところにあります。兄のほうは否定から肯定への転換であり、弟のほうは肯定から否定への転換、そしてそれは嘘に繋がるということです。「考え直す」という点では、兄は積極的に素直に父の言葉に従いました。 私達の生活には「否定的なもの」がたくさんあります。この否定から肯定へと人生のギアを切り替えて生きること、これが「考え直す」ということなのではないでしょうか。 皆さん、イエス様に従うということは、ただイエス様の言葉を聞くだけでなく、神様の御心に沿って生きるということです。これは非常に重要なポイントです。単に「はい」または「いいえ」と答えるだけではありません。神様は私達全員に本当の義の道に沿った行動、生き方を求めておられます。 ところで、先週の日曜日、私はメルボルン大聖堂でメルボルン大司教様と司祭達、そして移民や難民の方達と共にミサに参加しました。ミサの司式はピーター大司教様でした。ミサの雰囲気はとても国際的で、それぞれの国に担当が割り振られました。聖歌隊は南スーダンのグループ、憐みの歌はアラビア語、第一朗読は中国語で、第二朗読はポルトガル語でした。共同祈願はシリア語、クロアチア語、タガログ語、インドネシア語、スペイン語、ベトナム語で捧げられました。奉納の歌はスワヒリ語コミュニティが担当しました。国は違っても、多様性の中で、人々が集まり、心を一つにしてミサを捧げることができたのは、とても感動的でした。愛と平和の中で生きるということは、なんと美しく、素晴らしいことだと私は思いました。 201

寛大な心は愛である-GENEROUS HEARTS ARE LOVE

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  寛大な心は愛である マタイ20.1-6 皆さん、今日の福音は、誰もが公正に扱われることを望むなら、相手に求める前に寛大な愛を与えなさいと求めています。 今日の福音書では、雇用主の寛大な愛についてです。当時、労働者達は不当な賃金や不公平な取り扱いを受けていました。ですがここに登場する雇用主は長い時間働いた労働者と短い時間しか働かない労働者に同じ賃金を払いました。異なる労働時間にもかかわらず、全ての労働者に 1 デナリンを支払ったのです。 当然、真面目に長い時間を働いた労働者達は、それを不公平だと思ったでしょう。そして短い時間を働いても同じお金をもらった労働者はラッキーだと思ったかもしれません。それは今を生きる私達にも同じ事が言えると思います。残念ながら私達は、常に自分を基準にして公平に扱われたいと思うからです。 神様は人間に対していつも寛大な愛を与えてくださいます。全てのキリスト者は神様の恵みと憐れみの中で生きているのです。私達はその神様の愛を信じるならば、他人と比べる愚かさを感じるはずです。そして、他人への嫉妬心を捨て、寛大さと思いやりを持つ事が出来るならば、私達は神様の子供として、神様の愛を他の人に広めることが出来るのではないでしょうか。 マザー・テレサはノーベル賞受賞時のスピーチで、助けを求めに来た男性について語りました。彼女はその男性に米をあげました。しかし彼はまたマザーの所に来て米を求めました。マザー・テレサは、男になぜまた来たのか尋ねました。すると男は答えました。「近所の人たちも米を持っていなかったので、全ての米を分け与えました。」 その男性は自分を後回しにして、全ての米を求めに応じて分け与えたのでした。この彼の行動こそが、神様が求めている真の寛大な愛です。 私は今、神言修道会の神学院に住んでいますが、時々、運転の出来ない神学生の為に手伝いなどします。勉強中だったりすると、中断するのが嫌だなぁと言う気持がよぎる時があります。しかし、私は助けを求められる時こそ、神様から求められていると感じるのです。時々、神学生達に運転の仕方を教えています。これはとても単純なことですが彼らにとって必ず将来役に立つと思いつつ、今日も彼等に運転を教えています。 皆さん、私達の生活の中で寛大な愛を持って生きていくことは、決して難しいことではありま

赦しに生きる-LIVE IN FORGIVENESS.

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赦しに生きる マタイ 18.21-35 今日の福音書でイエス様は弟子達に赦しについて話しをします。主の祈りの中の「私達の罪をお許しください。私達も人を許します」という願いの解説のような例え話です。 今日の福音書は、私達が日頃苦手だと思っている人についてあえて考え直すことを勧めています。「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」 このイエス様の言葉は、もし私達が、他人に対して恨みや怒りの感情を抱くなら、私達自身も大きな苦しみを経験するということです。なぜなら、恨みと怒りの感情は、治療することが難しい致命的な病気を心の中に持つことだからです。 神様は私達に計り知れない大きな赦しを与えてくださっていることを皆さんは感じているでしょうか。その神様の赦しに気づいたら、人間同士は赦し合うのが当然だ、と思うべきです。 主の祈りの中で、「罪を赦してください」という祈りでも、「私の」ではなく「私達の」と祈るよう教えられました。自分ひとりが罪を赦されて終わるのでなく、その赦しによって他の人と赦しあって生きるようにと教えておられるのです。主の祈りは、教会に与えられた共同体の祈りです。イエス様は教会が何よりも罪の赦しを願い求め、互いに罪を赦しあう人々の共同体となるために、この祈りを与えてくださったのです。そのことを、今日の福音から学んでいただきたいと思います。 私は今日の福音を通して、偉大な画家であるレオナルドダヴィンチの物語を思い出しました。「最後の晩餐」を描く時、ダヴィンチはしばらくの間、イエス様の顔を描くのを止めました。なぜならば、その時彼は親しい友人と喧嘩をしていたからです。その結果数週間、彼はイエス様の顔を描くことが出来ず、絵を仕上げることができませんでした。そこで彼は問題を解決するために喧嘩をした友人のところへ行って赦しを乞いました。 ダヴィンチは友人の全てを受け入れて赦そうと決心するまで、どのような心の葛藤があったのでしょうか。友人に対する怒りや憎しみ、そして祈りや神様との対話の中で、赦しの中で生きることを選択したのだと思います。そして、あの有名な”最後の晩餐“という作品が完成したのです。どうぞ皆さんも、私達は赦しの中で生きているということを再確認していただきたいと思います。 ところで、今週私は勉強の他に色々なことをやって忙しく、しばしばイラ

兄弟のように愛し助け合う-LOVE AND HELP EACH OTHER LIKE BROTHERS AND SISTERS

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  兄弟のように愛し助け合う マタイ 18.15-20 皆さん、今日の福音書でイエス様は私達に非常に明確なメッセージを残してくださいました。それは誰かが悪いことをしたからといって、それを他人に言いふらしてはいけないということです。代わりに、私達がやらなければならないことは、愛を込めて悪い事をした人に、その人の立場を理解しながら忠告することではないでしょうか。 イエス様は「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけの所で忠告しなさい」と弟子達に仰いました。ここから学ぶことは人の罪を多くの人と共に共感し裁くのではなく、その人が過ちを正す為に自分は何が出来るのかを考え、心の底から兄弟として愛することだと私は思います。悪い点も良い点も、全てを受け入れる事です。そして、良い時だけ喜びを分かち合うのではなく、お互いの罪を認め合い、正すことこそが、私達が求めている兄弟姉妹の愛のあり方なのではないでしょうか。 皆さん、どんなに親しい人でも、その人に忠告することはとても嫌なものです。自分が相手の立場になって考えるとなかなか出来ることではありません。ですが、兄弟姉妹としてお互いに理解しあい、思いやりをもって、忠告することは、本当の友情だと思います。私達はさらに良いキリスト者である為に、人の忠告を受け入れると同時に、こっそりと相手に忠告してあげる勇気を持つことが必要です。そして忠告をしてくれたことに対して感謝をするという勇気も必要です。これが本当の兄弟姉妹の愛のあり方です。 今週私は英語をもっと真剣に学ぶことに集中しました。正しい文法で、良い記事を書くことは難しいです。一生懸命勉強して書いたのですが、先生からいくつかの添削をされました。何回記事を書いても、先生の添削は減ることがありません。時々、自信が無くなり、投げ出したくなる時もあります。ですが、そういう時こそ、これは先生の愛のサービスだと思うことにしました。先生の添削のひとつひとつが、先生の私の成長に対する期待であり愛だと思うと、とても有り難く嬉しく思います。こういう私の経験も、今日の福音の適用ではないでしょうか。 ところで、先日 9 月 8 日は、聖母マリアの誕生や神言修道会の創立の祝日です。今年で神言修道会の創立から 148 年になります。神言会の宣教活動は「全世界に行って福音を述べ伝えなさい」とい

苦しみを喜びに変えて生きる-TRANSFORMING SUFFERING INTO THE JOY OF LIFE

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「 苦しみを喜びに変えて生きる 」 マタイ 16.21-27 皆さん、今日の福音書は、先週の続きで、イエス様は苦しみ、十字架、そして復活によって、人間を罪から救うために来られたという事を弟子達に話されました。もちろん、イエス様のこの言葉は弟子達に衝撃を与えました。ペトロはイエス様が仰ったことに対して「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」とイエス様に言いました。ここで、ペトロは、神の子としてのイエス様の言葉に矛盾があると思ったのでしょう。 おそらくペトロの心の中で、神の子としてイエス様は苦しむ必要がないと思ったのかもしれません。 イエス様はペトロに神様のご意志に従って生きる為に弟子達に絶対条件を示されました。イエス様は、「わたしについて来たい者は、自分を捨てて、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と弟子達に仰ったのです。 それは次の 3 つの条件です。 一つ目は、自分を捨てるということです。 自分を捨てるということは、自分の利益を忘れて完全に神様に自分を捧げることを意味します。イエス様の弟子であるということは、イエス様に命を捧げることをいとわないということです。二つ目は、自分の十字架を背負うということです。十字架は苦しみを象徴しています。 イエス様の弟子として、私達は自分の人生の十字架を背負わなければなりません。 三つ目は、イエス様に従うということです。イエス様に従うとは、イエス様の教えと模範に従うことを意味します。イエス様は弟子達に、善良で正しいことを言葉で行うように求められ、ご自分で実行されました。私達もイエス様が示されたことを実行しなければなりません。私達は愛と共に生き、イエスの教えに従いましょう。 私は 2003 年からインドネシアのアタンブアのラリアン初神学校で勉強しました。当時、私は自分が司祭になるかどうかまだ分かりませんでした。 2007 年にラリアン神学校を卒業した後、私は神言修道会に入ることを決めました。その時から様々な困難に直面する度に、そこから多くのことを学びました。例えば、神言修道会は、会員に対する判断基準が高いです。精神的な興味と勉強を同時に優先させなければなりません。試験で悪い点を取るわけにはいきませんし、神言修道会の規則にも従わなければなりません。もしこれらの条件を満たさなければ

キリストの教えを信じ続ける-BELIEVE IN GOD

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キリストの教えを信じ続ける マタイ 16.13-20 皆さん、今日の福音書はイエス様がご自分について弟子達と対話をする物語です。この対話はイエス様が私達を救うための計画を成就するためにエルサレムに向かう途中で行われました。イエス様は、自分がユダヤ人達から拒絶され、十字架につけられることを知っておられました。 そのような状況の中で、イエス様は弟子達に、本当のイエス様の教えと信じ続ける信仰の力を、心の底から求められたのだと思います。 多くの弟子達の中で、イエス様を預言者以上の存在として見ていたのはペトロでした。ペトロは、イエス様がメシアであり、生ける神の御子であることを悟りました。ペトロは、弟子達をイエス様の言葉通りに教えを守り、弟子達を完全な信仰へと導いたのです。 教会は聖人の集まりではなく、神様の教えに従って生きようとする者達の集まりです。最近、色々な理由で、多くの人が教会から離れていく傾向にありますが、教会はいつでも離れて行った人々の立ち返りを待ち、迎える準備をしています。「一匹の羊が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行きなさい」というイエス様の言葉通りに教会のドアはいつも開いています。もし、教会から離れることがあったとしても、一度洗礼を受けた人は、必ず立ち返り、信仰を取り戻して教会に戻って来る時が来ると私は信じています。 今日の福音は、私が 3 年間ぐらい、助任司祭として吉祥寺教会で働いていた時のことを思い起こさせました。私は祈りやミサを捧げる以外にも主任司祭や司祭達、信者の方々と共に様々な活動をしました。教会委員会などの会議に参加すること、教会の周りを掃除すること、高齢者のために御聖体をもって訪問もしました。特に主任司祭が不在の時は大変でした。毎日不安の中で手探り状態で奉仕したことを覚えています。ですが、その経験の中で、私はどこにいても神様の導きを求め続け、キリストの教えを信じました。これらの経験を通して、他の人々と共に働くことの大切さを学ぶことが出来たと思います。 ところで、皆さんは暑さの中で毎日大変お忙しいと思います。私も勉強のために大学に行きますが皆さんの祈りのおかげで元気です。難しい英語での生活ですが、希望と共に頑張っています。どうぞお元気にお過ごしいくださいね。いつもお祈りしています。 主の平和。 BELIEVE IN

カナンの女性の信仰からの学び-LEARNING FROM THE FAITH OF A CANAANITE WOMAN

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  カナンの女性の信仰からの学び マタイ 15.21-28 今日の福音書は、一人の女性の信仰についてです。興味深いのは、その女性の名前は福音書には記載されていません。その女性はカナンから来ました。 その当時、カナン人は異邦人と呼ばれていました。 当然のように、ユダヤ人はカナン人を「犬」と呼んだそうです。この呼び方は、人間として、失礼で汚れた、卑劣な表現だと私は思います。なぜなら、人を犬と呼ぶことは絶対に許されないからです。 福音書では、イエス様は女性に言いました。「私はイスラエルの家の失われた羊の所にしか遣わされていない」。興味深いことに、女性はしつこく何度も救いを乞います。「主よ、どうかお助けください」と叫びました。イエス様が「子供達のパンを取って子犬にやってはいけない」とお答えになると、「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と女性は言いました。その女性の言葉のやり取りの中で、イエス様は彼女の聡明さと信仰心に心を動かされて次のように答えました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように。」そして、イエス様は、彼女の娘の病気をいやされました。このカナンの女性はイエス様が主であることを心の底から信じる柔らかな心の持ち主であったのではないでしょうか。 今日の福音は、信仰は謙虚に神様を信じることが何よりも大切であるということを教えています。神様の前で、カナンの女性は自分が何にも値しない異教徒であることを恥じていたはずです。それにも関わらず、彼女は神様の慈悲をお願いしました。そして、イエス様は女性の信仰の偉大さに心を打たれたのです。その結果彼女の願いは叶えられました。 皆さん、私達の日常生活には多くの課題があります。私の場合、毎日、キャンパスに行って勉強し、英語で話しをしなければなりません。ある意味、毎日同じことの連続です。時々、嫌になって、全てを投げ出したくなることもあります。こんなことをしていて、 英語が上手になるのだろうかと疑問を持つこともあります。このような時こそ、私は、勉強を始めたころの自分に立ち返り、改めて神様の導きをお願いするようにしています。 私達は毎日、人生という旅の中で、神様の元に走り寄って、助けを乞うことがあります。私達が神様に忠実であるならば、神様は私達が求めるもの

マリア様の歌-MARY’S SONG OF PRAISE

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  「マリア様の歌」 ルカ 1.39-56 皆さん、今日の福音書では、マリア様が天使ガブリエルによって、聖霊が降り、神の子を産むと 告げられたことを伝えています。天使のお告げを素直に受け入れたマリア様は、後に洗礼者ヨハネの母になるエリザベトを訪ねました。年老いて身ごもったエリザベトとマリア様は 不思議な神様の業の中で、喜びに包まれながら、共に祝福に満ちた時を過ごしたと思います。 エリザベトは、マリア様と胎内のお子様を祝福しました。そしてそれに応えるように、マリア様は歌をお歌いになりました。この「マリアの歌」は、長い教会の歴史の中で、絶えることなく歌い続けられています。「私の魂は主をあがめる、私の霊は救い主である神を喜びたたえる」から始まります。そして後半では 救いを待ち望む全ての人への祈りへと続きます。大変素晴らしい讃美の歌です。 この歌の中でマリア様はご自分を「身分の低い者」と言われ、主を畏れています。ですがマリア様は、受胎告知に慌てることなく、神様を信頼され、神の御業を全て受け入れました。そして、マリア様は神様について声を大きく誉め讃えています。つまり、マリア様は神様を喜びながら、神様と結ばれているのだと思います。 全てを神様に委ねたマリア様は幸せになるという確信を持って、言われました。「今から後、いつの世の人も私を幸いな者と言うでしょう。」皆さんも、このマリア様の勇気と謙虚さを感じながら、ご一緒にマリアの歌を味わっていただきたいと思います。 私は神学校に通っていた頃、このマリア様の歌をよく知っていました。日々の生活の中でこの歌を歌いながらいつも謙遜であることにつとめること、常に 神様に感謝を捧げることを教えられました。この教えは今もこの歌と共に私の中で生きています。 私達は忙しい生活の中で、時々謙虚さを忘れて、自分を大きく見せようとすることがあります。ついつい人を羨ましく思い、勝手に自分だけが不幸だと思うことはありませんか。でも神様から頂いた恵は皆一人一人違います。それは特別な恵みなので、比べることはできません。誰でも皆、「自分が神様に救われた物語」を持っているように、マリア様も同じ思いを持って、この歌を歌われたのだと思います。 ところで、8月 15 日は太平洋戦争が終わってから 78 年目です。全世界で沢山の人々が犠牲になりま

神様の声に耳を傾ける-LISTENING TO GOD’S VOICE

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  神様の声に耳を傾ける マタイ 17.1-9 皆さん、今日の福音書はイエス様の変容の話についてです。イエス様は12人の弟子の中からペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を選び、山に登り祈っているところに、旧約聖書の預言者であるモーセとエリヤが現れました。すると、イエス様の顔が変わり、姿はこの世のものではない純白の輝きに包ました。イエス様はモーセとエリヤとご自分の最期の時のことについて語り、その中で、御父の深い愛、そして御父が託された使命を明らかにされました。 三人の弟子達は、イエス様たちの会話を全く理解出来なかったものの、神様の存在を目の前で感じて、畏敬の念で心がいっぱいになりました。そして、御父の「これは私の愛する子、私の心にかなう者。彼に聞け」という声が響きました。弟子達は御父の「彼に聞け」と言われた言葉に恐れながら耳を傾けました。 この出来事からの学びは、イエス様の声と呼びかけを聞くということです。神様と出会う者は新たに使命を与えられます。人間は新たに生まれ変わり、新しい使命と共に、自分の中の心の変化を感じることができるでしょう。それこそが変容です。神様との出会いや神様に与えられた使命を感じることこそが神様の声を聞くと言う意味であると私は思います。 私が司祭になろうと決心した時、祈りと黙想、聖書を読むことで、神様と向き合い、神様の御意志をよく理解出来るように努力しました。そして、私は神様と共に体験して与えられた実り、つまり「喜び」を 1 人でも多くの人に伝え、分かち合いたいと思って司祭になりました。神様に出会った弟子達も、イエス様の変容を目にして、信仰を固めて、後に来る幸せを信じ、その幸せを多くの人と分かち合いたいと思ったのではないでしょうか。 「イエス様の変容」という出来事は、凄いものを見た、というただの驚きではありません。それは私達が日々の生活の中で神様の声に耳を傾けながら生きていかなければならないという使命の一部であるということです。 慌ただしい日々を生きていく中で、私達はイエス様の声を信じ受け入れることが出来るならば、私達はいつか必ず幸せという恵みへと導かれます。イエス様が変容された様に、私達も毎日微笑みを忘れず、いい顔、いい心で生きていきましょう。 ところで、メルボルンは寒い日がまだ続いています。しかし、皆さんの祈りのおかげで