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愛について-ABOUT LOVE

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  「愛について」 マタイ 22.34-40 皆さん、今日の福音書でイエス様は私達に愛には二つの掟があることを示してくださいました。一つ目の掟は神様を愛することです。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。イエス様は神様を愛する手段として、人間の生活において最も重要な 3 つのことについて言及しています。それは、心、精神、そして思いです。これは、神様を愛することにおいて、心、精神、そして思いの間に調和がなければならないことを意味します。「神様を愛する」ということは、口先で愛を語ったり、気持ちで愛するということではなく、心から仕えることです。 二つ目の掟は、隣人を愛することです。「隣人を自分のように愛しなさい」。これは、私達に弱点があるように、他の人の弱点に対して忍耐を持って受け入れることを意味します。 皆さん、私達にとって愛とはどういう意味なのか改めて考えてみましょう。例えば、恋をしている二人に尋ねた場合、愛はいつまでも一緒に時間を過ごすことを意味するかもしれません。赤ちゃんを持つ両親だったら、愛は夜遅くても赤ちゃんの世話を喜んですることを意味します。そして子供の幸せのために犠牲を払うことをいとわないという行為です。先生にとって、愛は大きな犠牲を払ってでも学生の成長の為に指導することです。司祭にとって、愛は精神聖霊を尽くしてミサを捧げ、人々のために奉仕することです。要するに、愛は情熱をもって献身、そして犠牲を捧げることであると思います。 さて、皆さんも戦争のニュースを毎日聞くたびに、自分の無力さを感じていることと思います。神様を愛するという人達が、人々を迫害し、戦争を起こし、人々を殺害してきた歴史があります。また、私達の毎日の生活でも同じことが言えるでしょう。神様を愛すると言いながら、隣人を愛することが出来ない、兄弟姉妹を愛さないどころか、憎しみさえ持ってしまう。だから『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という戒めが必要なのです。 私達は愛を込めて、兄弟として他人の存在を尊重しなければなりません。言い換えれば、私達が本当の愛を持てば、血のつながりはなくても、他の人を私達の兄弟姉妹として見ることができるはずです。私は現在戦いの中で生きている人達も、憎しみだけで生きているのではないと思います。彼等も私達

行動を伴わない信仰は信仰ではない-FAITH WITHOUT WORKS IS ESSENTIALLY DEAD

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  「行動を伴わない信仰は信仰ではない」 マタイ  22.15-21 皆さん、今日の福音書では、ファリサイ派の人々とヘロデ派の人々が一緒にイエス様の所に行って、尋ねるところから始まります。「先生、私達は、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え誰をもはばからない方であることを知っています。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」。 彼らはイエス様に対して大変失礼な質問をしました。イエス様が皇帝に税金を納めるために「はい」と言った場合、ファリサイ派の人々はイエス様が本当のユダヤ人ではなかったと主張したはずです。イエス様が「いいえ」と答えた場合、ファリサイ派の人々はイエス様が反ローマの「挑発者」であり、罰に値すると吹聴したに違いありません。イエス様はどちらに答えても、もう一方を敵に回すことになります。 そこでイエス様は並外れた賢い答えをされました。イエス様は彼らに税金を納めるための金貨を見せるように命じ、お金に誰の像が刻まれているかとお尋ねになりました。彼らは「皇帝の像がきざまれています」と答えました。するとイエス様は「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とお答えになりました。 彼らはイエス様の答えに驚きました。 イエス様の答えは、社会生活において賢明で公正であれ、ということを私達に教えています。これは、私達が私生活と教会の生活をきちんと両立なければならないということを意味していると思います。先週の福音書で、全てのものは神様へ、ということを学びました。神様のものを神様へ、というのは、愛の関係以外のなにものでもありません。神様から多くの恵みをもらっているからこそ、私達は愛によって応えなければなりません。 それは私達が守るべき原則だからです。イエス様が、見事な返事をした内容に、私達は信仰の原則である愛を持って生活する必要性があることを改めて確認していただきたいと思います。 口先だけの信仰は信仰ではありません。御ミサの時だけの信仰は信仰ではないのです。生活の中でイエス様の御言葉や問いかけに愛を持って行動することが、本当の意味での信仰生活です。 ところで、数日前、モナッシュ・カレッジで英語を一緒に勉強している二人の日本人と回転寿司を食べました。メルボルンの回転寿司を食べるのは、私も彼

神様の招きに答える-ANSWERING GOD'S INVITATION

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  「神様の招きに答える」 マタイ 22.1-14 皆さん、今日の福音書は、これまでの「二人の息子」や「ぶどう園と農夫」の例え話と同様でこれも神殿の境内で、当時のユダヤ人の指導者やファリサイ派の人々を前にして語られた例え話です。前の 2 つの例え話と同じように神様の国への招きを受け入れなかった人々が批判されています。 イエス様は天の国を結婚の披露宴に例えています。結婚の披露宴には多くの人が招待されましたが招待された人の多くは来ませんでした。彼らはそれぞれの活動に夢中だった、またはそれ以上に優先することがあったのかもしれません。彼らは結局、招かれたことの素晴らしさやありがたさを本当には感じることが出来なかったのではないでしょうか。 それでは、今の私達は神様の招きをどう受け止めているでしょうか。神様が私達に差し出してくださる招きは、救いへの呼びかけです。それは、結婚の披露宴の招待のようなものです。そして神様からいただく招きは救いの恵みとなり、それは全ての人に開かれています。しかし、私達はしばしば自分達の仕事で忙しく、神様からの救いの招きに耳を傾けようとしない時があると思います。神様の招きは時として、面倒なことや苦労を伴うことが多いからです。 イエス様に従う為には誠実であることが求められます。残念ながら積極的に神様の声に耳を傾け、誠実な態度で実行することは簡単なことではありません。なぜなら、私達は多くの誘惑に心を惑わせ、自分中心に物事を運びたいと思うからです。それゆえに、イエス様は「多くの人が呼ばれるが、選ばれる人は少ない」とおっしゃったのです。どうぞ皆さん、イエス様の教えに従い、キリスト者として、そして選ばれた者として恥じない生き方を目指していただきたいと思います。 現在、イスラエルとハマスの間で戦争が起きています。パレスチナの人々は水やガス、食料などが無いなかで、逃げ回っています。これまで、イスラエルとパレスチナは何回も戦争を繰り返してきました。そして、その度に多くの人が亡くなり、和解することが出来ませんでした。彼らはユダヤ教とイスラム教との戦い、そして過去の過ちを繰り返しながら戦い続けています。 教皇フランシスコはこれまで何度も何度も私達に世界平和の為に祈るように求めました。皆さん、戦争は世界中で起きています。ウクライナ、ロシア、イスラエ

全ては神様のもの-EVERYTHING BELONGS TO THE LORD OUR GOD

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  全ては神様のもの マタイ 21.33-43 皆さん、今日の福音は、先週の「二人の息子」の例えに続いて語られた例えです。この例え話にはイエス様が示された次の人物が登場します。それは、一人の主人、農夫達、しもべ達、そして息子です。 実りの季節になったので、主人はしもべ達に収穫を受け取るために畑に送りました。しかし、雇人達は主人が遣わしたしもべ達を全て殺してしまいます。全ての収穫は自分たちのものだ、と主張したのです。次に、雇人達は主人が遣わした息子までも殺してしまいました。 これは、農夫達の残虐なふるまいが強調されて描かれています。農夫達の非道さは当時の外国の支配下にあったガリラヤ地方で外国の地主の元で搾取されながら、貧しい生活に耐えていた農民の辛さを物語っているのかもしれません。そしてこの農民達の行動は、イエス様を十字架の死に追いやった律法学者、長老、祭司達の中にも見ることができると思います。 ここに出てくる農民達も主人に雇われていますが、私達の人生も この世の全てのものも、結局は神様から借りてるだけのものであるということを思い起こさなければならないと思います。結局私達は全て神様から借りてるわけで、それを自分のものだと思うところに、私達の罪が生じてくるのかもしれません。 全ての物を借りてるからこそ、自分に与えられてる時間も、エネルギーも、人間関係も大切に謙虚に生きなければなりません。粗末にしてはいけないのです。自分のものだから大切にするのではなく神様のものだから大切にするのです。 ところで先週の土曜日、神言修道会の神学院でミッション・デイの活動がありました。この活動のテーマは、「あなたの光は他の人の前で輝かなければならない」でした。中国人、フィリピン人、ベトナム人、インドネシア人、オーストラリア人がこの活動に参加しました。私はモナシュ大学で一緒に勉強している一人のイラン人を誘いました。それぞれの宗教は違っても、神学院での活動に参加してくれたことが大事だと思いました。 このイベントはパラマタのヴィンセント・ロン・グエン司教様のセミナーから始まりました。この活動は、若い人達が神学院に行き、司祭になるために、召命を促進することも目的としています。神権への召命への招きに気づいた人は洗礼へと導かれます。ですが洗礼を受けることだけが神様と繋がって

義の道を生きる-LIVE AND WALK IN THE PATH OF RIGHTEOUSNESS

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義の道を生きる マタイ 21.28-32 皆さん、今日の福音書でイエス様は先週の「ぶどう園と農夫」の話に引き続き神様の意志に対する義の道に沿った生き方について話してくださいました。 この例え話には 3 人の人物が登場しています。それは、父親、長男、そして次男です。 父親は 2 人の息子の所に行き、同じことを言いました。「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」。 父親の話を聞いて、兄は「いやです」と答えましたが、後で考え直して、ぶどう園で働きました。しかし弟は「お父さん、承知しました」と答えましたが、働きに出ませんでした。ここで分かるのは、 2 人の息子が対照的な性格であるということです。 この例え話の重要な点は、否定の「いや」から肯定の「はい」への転換というところにあります。兄のほうは否定から肯定への転換であり、弟のほうは肯定から否定への転換、そしてそれは嘘に繋がるということです。「考え直す」という点では、兄は積極的に素直に父の言葉に従いました。 私達の生活には「否定的なもの」がたくさんあります。この否定から肯定へと人生のギアを切り替えて生きること、これが「考え直す」ということなのではないでしょうか。 皆さん、イエス様に従うということは、ただイエス様の言葉を聞くだけでなく、神様の御心に沿って生きるということです。これは非常に重要なポイントです。単に「はい」または「いいえ」と答えるだけではありません。神様は私達全員に本当の義の道に沿った行動、生き方を求めておられます。 ところで、先週の日曜日、私はメルボルン大聖堂でメルボルン大司教様と司祭達、そして移民や難民の方達と共にミサに参加しました。ミサの司式はピーター大司教様でした。ミサの雰囲気はとても国際的で、それぞれの国に担当が割り振られました。聖歌隊は南スーダンのグループ、憐みの歌はアラビア語、第一朗読は中国語で、第二朗読はポルトガル語でした。共同祈願はシリア語、クロアチア語、タガログ語、インドネシア語、スペイン語、ベトナム語で捧げられました。奉納の歌はスワヒリ語コミュニティが担当しました。国は違っても、多様性の中で、人々が集まり、心を一つにしてミサを捧げることができたのは、とても感動的でした。愛と平和の中で生きるということは、なんと美しく、素晴らしいことだと私は思いました。 201

寛大な心は愛である-GENEROUS HEARTS ARE LOVE

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  寛大な心は愛である マタイ20.1-6 皆さん、今日の福音は、誰もが公正に扱われることを望むなら、相手に求める前に寛大な愛を与えなさいと求めています。 今日の福音書では、雇用主の寛大な愛についてです。当時、労働者達は不当な賃金や不公平な取り扱いを受けていました。ですがここに登場する雇用主は長い時間働いた労働者と短い時間しか働かない労働者に同じ賃金を払いました。異なる労働時間にもかかわらず、全ての労働者に 1 デナリンを支払ったのです。 当然、真面目に長い時間を働いた労働者達は、それを不公平だと思ったでしょう。そして短い時間を働いても同じお金をもらった労働者はラッキーだと思ったかもしれません。それは今を生きる私達にも同じ事が言えると思います。残念ながら私達は、常に自分を基準にして公平に扱われたいと思うからです。 神様は人間に対していつも寛大な愛を与えてくださいます。全てのキリスト者は神様の恵みと憐れみの中で生きているのです。私達はその神様の愛を信じるならば、他人と比べる愚かさを感じるはずです。そして、他人への嫉妬心を捨て、寛大さと思いやりを持つ事が出来るならば、私達は神様の子供として、神様の愛を他の人に広めることが出来るのではないでしょうか。 マザー・テレサはノーベル賞受賞時のスピーチで、助けを求めに来た男性について語りました。彼女はその男性に米をあげました。しかし彼はまたマザーの所に来て米を求めました。マザー・テレサは、男になぜまた来たのか尋ねました。すると男は答えました。「近所の人たちも米を持っていなかったので、全ての米を分け与えました。」 その男性は自分を後回しにして、全ての米を求めに応じて分け与えたのでした。この彼の行動こそが、神様が求めている真の寛大な愛です。 私は今、神言修道会の神学院に住んでいますが、時々、運転の出来ない神学生の為に手伝いなどします。勉強中だったりすると、中断するのが嫌だなぁと言う気持がよぎる時があります。しかし、私は助けを求められる時こそ、神様から求められていると感じるのです。時々、神学生達に運転の仕方を教えています。これはとても単純なことですが彼らにとって必ず将来役に立つと思いつつ、今日も彼等に運転を教えています。 皆さん、私達の生活の中で寛大な愛を持って生きていくことは、決して難しいことではありま

赦しに生きる-LIVE IN FORGIVENESS.

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赦しに生きる マタイ 18.21-35 今日の福音書でイエス様は弟子達に赦しについて話しをします。主の祈りの中の「私達の罪をお許しください。私達も人を許します」という願いの解説のような例え話です。 今日の福音書は、私達が日頃苦手だと思っている人についてあえて考え直すことを勧めています。「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」 このイエス様の言葉は、もし私達が、他人に対して恨みや怒りの感情を抱くなら、私達自身も大きな苦しみを経験するということです。なぜなら、恨みと怒りの感情は、治療することが難しい致命的な病気を心の中に持つことだからです。 神様は私達に計り知れない大きな赦しを与えてくださっていることを皆さんは感じているでしょうか。その神様の赦しに気づいたら、人間同士は赦し合うのが当然だ、と思うべきです。 主の祈りの中で、「罪を赦してください」という祈りでも、「私の」ではなく「私達の」と祈るよう教えられました。自分ひとりが罪を赦されて終わるのでなく、その赦しによって他の人と赦しあって生きるようにと教えておられるのです。主の祈りは、教会に与えられた共同体の祈りです。イエス様は教会が何よりも罪の赦しを願い求め、互いに罪を赦しあう人々の共同体となるために、この祈りを与えてくださったのです。そのことを、今日の福音から学んでいただきたいと思います。 私は今日の福音を通して、偉大な画家であるレオナルドダヴィンチの物語を思い出しました。「最後の晩餐」を描く時、ダヴィンチはしばらくの間、イエス様の顔を描くのを止めました。なぜならば、その時彼は親しい友人と喧嘩をしていたからです。その結果数週間、彼はイエス様の顔を描くことが出来ず、絵を仕上げることができませんでした。そこで彼は問題を解決するために喧嘩をした友人のところへ行って赦しを乞いました。 ダヴィンチは友人の全てを受け入れて赦そうと決心するまで、どのような心の葛藤があったのでしょうか。友人に対する怒りや憎しみ、そして祈りや神様との対話の中で、赦しの中で生きることを選択したのだと思います。そして、あの有名な”最後の晩餐“という作品が完成したのです。どうぞ皆さんも、私達は赦しの中で生きているということを再確認していただきたいと思います。 ところで、今週私は勉強の他に色々なことをやって忙しく、しばしばイラ

兄弟のように愛し助け合う-LOVE AND HELP EACH OTHER LIKE BROTHERS AND SISTERS

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  兄弟のように愛し助け合う マタイ 18.15-20 皆さん、今日の福音書でイエス様は私達に非常に明確なメッセージを残してくださいました。それは誰かが悪いことをしたからといって、それを他人に言いふらしてはいけないということです。代わりに、私達がやらなければならないことは、愛を込めて悪い事をした人に、その人の立場を理解しながら忠告することではないでしょうか。 イエス様は「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけの所で忠告しなさい」と弟子達に仰いました。ここから学ぶことは人の罪を多くの人と共に共感し裁くのではなく、その人が過ちを正す為に自分は何が出来るのかを考え、心の底から兄弟として愛することだと私は思います。悪い点も良い点も、全てを受け入れる事です。そして、良い時だけ喜びを分かち合うのではなく、お互いの罪を認め合い、正すことこそが、私達が求めている兄弟姉妹の愛のあり方なのではないでしょうか。 皆さん、どんなに親しい人でも、その人に忠告することはとても嫌なものです。自分が相手の立場になって考えるとなかなか出来ることではありません。ですが、兄弟姉妹としてお互いに理解しあい、思いやりをもって、忠告することは、本当の友情だと思います。私達はさらに良いキリスト者である為に、人の忠告を受け入れると同時に、こっそりと相手に忠告してあげる勇気を持つことが必要です。そして忠告をしてくれたことに対して感謝をするという勇気も必要です。これが本当の兄弟姉妹の愛のあり方です。 今週私は英語をもっと真剣に学ぶことに集中しました。正しい文法で、良い記事を書くことは難しいです。一生懸命勉強して書いたのですが、先生からいくつかの添削をされました。何回記事を書いても、先生の添削は減ることがありません。時々、自信が無くなり、投げ出したくなる時もあります。ですが、そういう時こそ、これは先生の愛のサービスだと思うことにしました。先生の添削のひとつひとつが、先生の私の成長に対する期待であり愛だと思うと、とても有り難く嬉しく思います。こういう私の経験も、今日の福音の適用ではないでしょうか。 ところで、先日 9 月 8 日は、聖母マリアの誕生や神言修道会の創立の祝日です。今年で神言修道会の創立から 148 年になります。神言会の宣教活動は「全世界に行って福音を述べ伝えなさい」とい

苦しみを喜びに変えて生きる-TRANSFORMING SUFFERING INTO THE JOY OF LIFE

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「 苦しみを喜びに変えて生きる 」 マタイ 16.21-27 皆さん、今日の福音書は、先週の続きで、イエス様は苦しみ、十字架、そして復活によって、人間を罪から救うために来られたという事を弟子達に話されました。もちろん、イエス様のこの言葉は弟子達に衝撃を与えました。ペトロはイエス様が仰ったことに対して「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」とイエス様に言いました。ここで、ペトロは、神の子としてのイエス様の言葉に矛盾があると思ったのでしょう。 おそらくペトロの心の中で、神の子としてイエス様は苦しむ必要がないと思ったのかもしれません。 イエス様はペトロに神様のご意志に従って生きる為に弟子達に絶対条件を示されました。イエス様は、「わたしについて来たい者は、自分を捨てて、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と弟子達に仰ったのです。 それは次の 3 つの条件です。 一つ目は、自分を捨てるということです。 自分を捨てるということは、自分の利益を忘れて完全に神様に自分を捧げることを意味します。イエス様の弟子であるということは、イエス様に命を捧げることをいとわないということです。二つ目は、自分の十字架を背負うということです。十字架は苦しみを象徴しています。 イエス様の弟子として、私達は自分の人生の十字架を背負わなければなりません。 三つ目は、イエス様に従うということです。イエス様に従うとは、イエス様の教えと模範に従うことを意味します。イエス様は弟子達に、善良で正しいことを言葉で行うように求められ、ご自分で実行されました。私達もイエス様が示されたことを実行しなければなりません。私達は愛と共に生き、イエスの教えに従いましょう。 私は 2003 年からインドネシアのアタンブアのラリアン初神学校で勉強しました。当時、私は自分が司祭になるかどうかまだ分かりませんでした。 2007 年にラリアン神学校を卒業した後、私は神言修道会に入ることを決めました。その時から様々な困難に直面する度に、そこから多くのことを学びました。例えば、神言修道会は、会員に対する判断基準が高いです。精神的な興味と勉強を同時に優先させなければなりません。試験で悪い点を取るわけにはいきませんし、神言修道会の規則にも従わなければなりません。もしこれらの条件を満たさなければ