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クリスマス:愛と平和の分かち合い-CHRISTMAS: SHARING LOVE AND PEACE

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  クリスマス:愛と平和の分かち合い ヨハネ 1.1-18 皆さん、クリスマスおめでとうございます。今日の福音書は、ヨハネの福音書ですが、大変格調高い表現をもって、神様とイエス様との深い関係を表しています。特に、神の御子であるイエス様のことを「言葉」と呼び、「始めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。言葉は肉となって、私達の間に宿られた。」クリスマスとは神様が人間と出会い、共に生き始めたという、最大のイベントの始まりです。 毎年、キリスト者である私達は必ずクリスマスを祝います。私のインドネシアの地元では、多くの人が教会に行き、クリスマスツリーを飾り、贈り物を交換し、一緒に食事をし、盛大にお祝いをします。私は沢山の友人にメールやラインでクリスマスの挨拶を送ります。皆さんにも、それぞれのクリスマスの過ごし方があると思いますが、改めてクリスマスの本当の意味を思い出していただきたいと思います。 イエス様の誕生は、貧しい人達や苦しんでいる人達に喜びと希望、そして生きる勇気を与えてくれます。貧しければ貧しいほど、イエス様は、彼らにとって特別な希望の星であったに違いありません。 現在、世界中に戦争や自然災害、そして病や貧困に苦しんでいる人々がいます。このクリスマスを彼等がどのように迎えるのかを想像してください。一人でも多くの人たちが愛と平和の分かち合いによって心が癒されますように祈りましょう。 オーストラリアでは 11 月頃からクリスマスソングが流れ始めます。ほとんどの人達は集まって食事をしたり、プレゼントをあげるだけの習慣になっています。これはこれで楽しいイベントですが、私達キリスト者は本当のクリスマスの意味を持って祝います。 2000 年以上の時を経て、私達も、神様の恵みに与ることができるよう感謝を込めて祝いましょう。 人のことを思いやる、人の幸せを考える、人を喜ばせる、そのようなクリスマスの心を、この時期だけでなく、一年中持ち続けて頂きたいと思います。 オーストラリアは今夏です。私は雪のない国でクリスマスを迎えます。日本やインドネシア、そして全世界に散らばるキリスト者の皆さん、心暖まるクリスマスをお迎えください。 主の平和   CHRISTMAS: SHARING LOVE AND PEACE John 1.1-

星のように輝いて生きる-LIVE HUMBLY AND SHINE LIKE THE LIGHT OF THE ADVENT CANDLES

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「星のように輝いて生きる」 ヨハネ 1.6-8.19-28 皆さん、今日私達は待降節第 3 主日を迎えます。祭壇の前には、 3 つの待降節の蝋燭が点灯しています。燃える蝋燭が主の到来を歓迎する準備を象徴しています。同時に、私達の生活も神様の前でより鮮明に映し出されます。 今日の福音書で、洗礼者ヨハネは正直な心で彼が救主でもなく、エリヤでもなく、将来の預言者でもないと言いました。そして、彼は「主の道をまっすぐにせよ」と荒れ野で叫びました。彼の叫びによって、ユダヤの地方とエルサレムの住民は皆、罪を告白し、ヨルダン川で洗礼を受けたのでした。 洗礼者ヨハネは、イエス様の到来を確信したにも関わらず、決して自慢しませんでした。洗礼者ヨハネの謙遜は、彼がただの神様の使者である思ったに違いありません。それは洗礼者ヨハネに与えられた重要なミッションだったのではないでしょうか。 皆さん、今日の福音書では私達に 2 つのことを教えていると思います。一つ目は、待降節の蝋燭の光は私達がキリストの光が私達の生活の中にあることをあえて世界に証言しなければなりません。私達がキリストの光の中で生きるならば、私達はキリストの光の証人にならなければなりません。私達の心の内が神様の前にさらけ出される時です。最も大事なことです。どうぞ、神様の言葉を読んだり瞑想したり、教会のミサで祈ったり、教会の活動に参加したりしながら自分の一年の心の有り様を見直し悔い改めるところがあれば、素直に赦しを求めて頂きたいと思います。 二つ目は、私達は常に謙虚でなければならないということです。信者としてどのように振る舞うかについて自分自身を反省しなければなりません。私は、日々の活動においても、常に謙虚な姿勢で、他者からの提案を受け入れ、学び続ける姿勢を持つことが必要だと思っています。例えば、学生として、授業で学んだことに関する先生からのフィードバックを素直に受け入れています。それが私の成長必ず促すと信じています。 私達も洗礼者ヨハネのように謙虚さを持って振る舞えるように、私達の心を正しましょう。私達も光り輝く星のように生きていきましょう。 主の平和   LIVE HUMBLY AND SHINE LIKE THE LIGHT OF THE ADVENT CANDLES My dear brothers and sisters in

神様を迎える道を整える-PREPARE THE WAY TO WELCOME OUR LORD JESUS CHRIST

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  「神様 を迎える 道を整える」 マルコ 1.1-8 今日の福音書では、洗礼者ヨハネが預言者イザヤの呼びかけを繰り返し、救い主イエスを歓迎します。洗礼者ヨハネは「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫びました。ここで、洗礼者ヨハネの役割は、人間がイエス様に信仰の道を示すことでした。洗礼者ヨハネは私達の生活の中に神様の存在を迎入れることで、私達の生活の道をまっすぐに正し信仰を深めるように薦めています。この姿勢はクリスマスの日に向けての準備となります。 皆さんの信仰の道、すなわち神様へ続いている道は澄んだ心でまっすぐにつながっているでしょうか。敵意、憎しみ、プライドなどによってねじまげられた道になってはいませんか。 今日の福音朗読によって私はティモール島の民話を思い出しました。昔、天と地の距離は今よりずっと近かったと言われています。ある所に、一本の高い竹の木が天に届いていました。そして、天と地の間に一つの梯子がかかっていました。梯子は、神様が世界に降りてくる方法として、そして人間が天に昇る道として使用されました。神様は人間に、梯子を絶対傷つけてはならないと仰いました。しかし、一人の悪い人が梯子を壊してしまいました。その結果、その梯子は地面に落ち天は更に高く跳ね上がってしまいました。それ以来、ティモールの人達と神様を結ぶ道はなくなってしまったのです。 確かに、この民話はティモールの人達にとってとても大切な意味がありました。当初、神様と人間の関係は非常に緊密で良好であったことを示しています。この良好な関係は、天と地の近さと、神様と人間が出会う道となる梯子によって示されています。しかし、人間の欲望のために、人間と神様の美しい関係は悪くなってしまいました。 ティモールの民話では、梯子で人間と神様の関係を示していますが、一方、ユダヤ人の文化では、人間と神様の関係は道で象徴されています。預言者イザヤは「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、私達の神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷は全て身を起こし、山と丘は身を低くせよ」とユダヤ人達に教えられました。違う文化の中で、信仰への道は異なって表現されているのは興味深いと思います。 クリスマスの日に、私達の兄弟となる神の子イエス様のご誕生を歓迎したいと思います。クリスマスの日に光輝くイエス様を

目覚めて待つ-STAY AWAKE AND WAIT

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「 目覚めて待つ 」 マルコ 13.33-37 皆さん、今日、私達は待降節の最初の日曜日を迎えています。そして、教会の新しい典礼年が始まります。待降節の前半は、終末におけるキリストの再臨に私たちの心の目を向けさせます。 歴史は、人間の数限りない神へのそむきと、それにもかかわらずたえず人に回心を呼びかける神様の慈しみとで織りなされています。待降節はこの人間の罪の闇と、いつも人間を受け入れてくれる神様の愛の暖かさのコントラストが最もはっきりと現われる時です。 今日の福音書のテーマは「目覚めて待つ」ことです。イエス様は「いつも気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなた方は分からないからである。」と仰いました。 イエス様は度々「目を覚ましていなさい。」と言われますが、イエスが言われる「目を覚ましていなさい」ということは、いつも準備をし、周りに気を配りながら救い主を待つということではないでしょうか。 イエス様の御教えは待つことに忠実でいなさいということです。待降節とはキリストがベツレヘムの馬小屋で生まれる日であるクリスマスを待ち、見守るように求められる時です。でも本当に大切なことは、自分を神様の前に心や魂の全てを差し出して祈る時です。 私は昨年まで吉祥寺教会でクリスマスの馬小屋を作ったり、教会の前でイルミネーションを作ったりしてクリスマスを準備してミサのために心を整えていました。ですが今年は神様と向き合いながら心の準備に重点を置いてクリスマスを迎えたいと思います。皆さんも今年のクリスマスに向けて、自分なりの準備をしてみてはいかがでしょうか。神様の御前に心を整えてから祈りましょう。そして、全ての心配事や嬉しいこと、感謝すること、悲しいことを神様に伝えてください。 クリスマスは神様が人となられたことを喜び祝う日です。神様は私達と同じ弱い人間となってくださいました。そして、同じ苦しみ、悲しみを共にしてくださいます。どうぞ待つことや悔い改めの意味を再確認しながら、イエス様の御降誕の準備期間を過ごしていただきたいと思います。 皆さん、今週もお元気にお過ごしください。 主の平和   STAY AWAKE AND WAIT My dear brothers and sisters in Christ. Today we

小さい者を最優先に考える-DOING SMALL THINGS WITH A GREAT LOVE

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小さい者を最優先 に考える マタイ 25.31-46 皆さん、今日、私達は全教会と共に王であるキリストの祝日を祝います。イエス様は世界のあらゆる力よりも優れておられる唯一のお方です。 今日の福音書の中では、イエス様が強調していることは二つあると思います。まず、神の国に入るためには、私達は喜んで最も小さい者達、つまり社会的弱者を大事にしなければならないということです。彼らは社会から忘れ去られてしまう人、いつも人の助けが必要な人、空腹な人、病気の人、牢屋の中にいる人かもしれません。 次に、貧しい人や避難民を助けることは、イエス様ご自身に尽くすことと同じことであるということです。ヨハネ 15 章 12 節「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合う。」つまり、困難に苦しむ人々の人生の内に、イエス様がおられるのです。 私達の周りには様々な苦労をしているお友達が、たくさんいます。私達は苦しんでいる人々の心に寄り添いながら、愛を持って支えてあげることを求められています。確かに、愛を表すのに犠牲が必要な時もあります。イエス様が私達のために犠牲を払って十字架にかけられて愛を示されたように、私達も犠牲を払ってでも、行動を通して、最も小さい者達、困っている人達に愛を捧げましょう。 今日の福音を読むと、モナシュ大学に初めて行った時のことを思い出しました。サザンクロス駅前で、ホームレスの人達がお金を求めていました。多くの人が通り過ぎますが、彼らを気にかける人はなかなかいませんでした。神様が彼らを必ず気遣われ、いつか救いがある様にと祈りました。同時に祈ることしかできない自分が少々恥ずかしくもありましたが、それが今自分にできる最大限のことだと思い直して、更に祈りました。 私達と同じように先の見えない不安の中で生きている人々が、希望の光を待ちわびながら、世界中で祈っています。特に、難民や戦争の中で生きる人々、食糧不足に苦しむ人々など、私達の助けを切実に必要としています。今こそ、お互いに助け合い、励まし合いながら、前に進み続けましょう。そして私達を見守ってくださるイエス様がどんなに苦しい時にも共におられることを、毎日、思い出してほしいと思います。明るい未来が必ず来ることを信じて祈りましょう。 皆さん、今週もお元気にお過ごしください 主の平和 D

神様に与えられた才能に責任を持って生きる-BE RESPONSIBLE FOR THE GIFTS THAT GOD HAS BESTOWED UPON US

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  神様に与えられた才能に責任を持って生きる マタイ 25.14-30 今日の福音書の中でイエス様は私達に興味深い例え話をなさいました。それは、ある主人が旅行に出かける時、しもべたちを呼んで、自分の財産を一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けました。 主人は「それぞれの力に応じて」しもべたちに財産を預けました。主人はしもべたちが預かった財産をどのようにして最大限に管理できるかを確かめたかったのだと思います。しもべたちに預けられたタラントンの金額の違いは、しもべたちがその財産を管理する能力の象徴だったのかもしれません。 福音書の中で、五タラントンを預かった者と二タラントンを預かった者は財産を上手にそれぞれが 100 %の利益を上げました。一方、一タラントンを預かった者はそのお金を増やすことなど考えませんでした。彼は穴を掘り土の中に一タラントンを隠しただけでした。 今日の福音書の例え話からの教えは神様が私達一人一人に異なる才能をお与えくださったということです。それは才能、専門知識、能力、資産であるかもしれません。しかし、与えられた才能の目的は皆同じです。つまり、神様の栄光と他の人の幸せのために、私達の生活の中で様々な才能を自分なりに最大限に開かせることが私達に求められているのです。神様が私達に託してくださった才能に感謝し、キリスト者としての使命、責任を持って生きていきましょう。 私はギターやピアノを弾くのが好きです。音楽は私に新たな活力を与えてくれるだけでなく、他の人達にも喜びを与えることが出来ると思います。吉祥寺で説教の後に歌ったことは良い思い出です。それは、神様の栄光を讃える為でもあり、そして人々の幸せのために、神様が私に託された才能だと思います。 皆さんも色々な才能を持っていると思いますが、最も大切な才能は信仰だと思います。信仰を持っているならば、神様がさらに 私達の信仰を強めて、辛いことがあっても前に歩んでいく力を与えてくださいます。自分の良さを、自分の恵みを、生かしていく、あるいはそれに向かって、それをさらに生かしていける、そのような恵みを求めながら祈りましょう。 皆さん、今週もお元気にお過ごしください。 主の平和   BE RESPONSIBLE FOR THE GIFTS TH

常に心を神様に向けて生きる-TURN YOUR HEART TO GOD

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  常に心を神に向けて生きる マタイ 25.1-13 今日の福音書ではイエス様は弟子達に天の国の存在に応じた人間の態度について語っています。天の国は、十人の乙女がそれぞれのともし火を持って、花婿を迎えに出て行くことに例えられました。さらに、この例え話の中でイエス様は 3 つの登場人物の性格を花婿、 5 人の賢い乙女、 5 人の愚かな乙女を通して示してくださいました。 この福音書のメッセージは婚姻の準備の為に油を入手していたかどうかは問題ではありません。問題なのは私達が信仰を持って神様の御心に従っているかどうか、つまりイエス様を救い主として信じているかどうかです。もしその信仰を持っているなら、それがたとえからし種ほどであっても、その人は必ず天の御国に行く事が約束されるのです。 この福音から学ぶ事は賢明である事です。私達の生活において、賢明な態度と行動は自分の人生の目標を達成するために必要不可欠だということだと思います。 イエス様は私達が永遠の命のために日常の生活の中で準備することを望んでいます。私達が目指すのは神の国ですが、この世界は神の国に行く準備をする場所でもあります。神の国に行くためには最も心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、神様を大切にし、そして隣人をも自分のように大切にすることです。皆さん、心が常に神様に向いているかを感じながら生活しましょう。  最後に、皆さん、ハマスとイスラエルの状況についてどう思いますか。残念ながら彼等の憎しみ、そして戦いの歴史は何千年も続いています。もし彼等が聖書を通して今日の福音を読むならば、彼らも神様と隣人を大切にしなければならないと思うはずです。そうでないのが残念でなりません。 和平を結ぶには各当事者が賢明かつ謙虚でなければなりません。これ以上パレスチナ難民が増えるのは見るに耐えません。イスラエルとハマスが戦って人の命を奪いビルを壊すことに何の意味があるのでしょうか。彼等にも信仰があるならば、今すぐにでも悔い改め、罪の赦しをいただき、神様の救いの恵みに拠りすがり、憎しみから慈しむへと心を向けて欲しいと思います。皆さん、ご一緒に今世界各地の戦場で苦しんでいる全ての人達に一日でも早く平和が来ますように祈りましょう。 主の平和   TURN YOUR HEART TO GOD My d

神様に仕える人になる-BECOME A FIGURE WHO SERVES GOD IN SERVICE TO OTHERS

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  神様に仕える人になる マタイ 23.1-12 皆さん、今日の福音でイエス様は謙遜の霊性について教えておられます。イエス様は「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、かえって皆に仕えることになるであろう」と仰いました。「仕える」という謙虚な態度を具体的に示されたのはイエス様です。 今日の箇所では次の 2 点に要約できます。「言うだけで実行しない」ことと「行いは人に見せるため」ということです。この助言の主な対象は最も傲慢で独善的であったファリサイ派の人々と律法学者に向けられたものでした。ファリサイ派の人々と律法学者達は教えるだけで、その教えのように生きていないことが問題でした。それはあくまでも「人に見せるため」のものだったのです。 彼らが神様とその愛の本当の意味を理解できなかったのだと思います。神様の愛の中に生かされるということは人の評価に執着するという生き方から、神様の栄光を求め、人に仕える歩みへと導かれていくという生き方に変わっていくことです。 「仕える者」「へりくだる者」となられたイエス様の受難の姿が私達の心に迫ってくるとき、私達も、父である神の前での兄弟姉妹として共に生きること、教師であるイエス様の前での弟子としての平等であることを心から喜ぶことができるようになりましょう。 さて、日本は秋真っ盛りで寒くなってきていますが、メルボルンはどんどん暖かく暑くなってきました。私は毎日英語を学んで、人類学の勉強の準備も始めています。時々大変だと思いますが神様の恵みを感じつつ、皆様の祈りのおかげで一歩一歩前に進んでいます。私は司祭として、そして学生として、「神様に仕える者」として、日々過ごしています。皆さんも毎日お忙しいとおもいますが、今週も皆様お元気でお過ごしください。 主の平和 BECOME A FIGURE WHO SERVES GOD IN SERVICE TO OTHERS   My dear brothers and sisters in Christ. In today's Gospel, Jesus teaches us about the spirituality of humility. In my opinion, the spirituality of humility is one aspect of

愛について-ABOUT LOVE

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  「愛について」 マタイ 22.34-40 皆さん、今日の福音書でイエス様は私達に愛には二つの掟があることを示してくださいました。一つ目の掟は神様を愛することです。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。イエス様は神様を愛する手段として、人間の生活において最も重要な 3 つのことについて言及しています。それは、心、精神、そして思いです。これは、神様を愛することにおいて、心、精神、そして思いの間に調和がなければならないことを意味します。「神様を愛する」ということは、口先で愛を語ったり、気持ちで愛するということではなく、心から仕えることです。 二つ目の掟は、隣人を愛することです。「隣人を自分のように愛しなさい」。これは、私達に弱点があるように、他の人の弱点に対して忍耐を持って受け入れることを意味します。 皆さん、私達にとって愛とはどういう意味なのか改めて考えてみましょう。例えば、恋をしている二人に尋ねた場合、愛はいつまでも一緒に時間を過ごすことを意味するかもしれません。赤ちゃんを持つ両親だったら、愛は夜遅くても赤ちゃんの世話を喜んですることを意味します。そして子供の幸せのために犠牲を払うことをいとわないという行為です。先生にとって、愛は大きな犠牲を払ってでも学生の成長の為に指導することです。司祭にとって、愛は精神聖霊を尽くしてミサを捧げ、人々のために奉仕することです。要するに、愛は情熱をもって献身、そして犠牲を捧げることであると思います。 さて、皆さんも戦争のニュースを毎日聞くたびに、自分の無力さを感じていることと思います。神様を愛するという人達が、人々を迫害し、戦争を起こし、人々を殺害してきた歴史があります。また、私達の毎日の生活でも同じことが言えるでしょう。神様を愛すると言いながら、隣人を愛することが出来ない、兄弟姉妹を愛さないどころか、憎しみさえ持ってしまう。だから『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という戒めが必要なのです。 私達は愛を込めて、兄弟として他人の存在を尊重しなければなりません。言い換えれば、私達が本当の愛を持てば、血のつながりはなくても、他の人を私達の兄弟姉妹として見ることができるはずです。私は現在戦いの中で生きている人達も、憎しみだけで生きているのではないと思います。彼等も私達

行動を伴わない信仰は信仰ではない-FAITH WITHOUT WORKS IS ESSENTIALLY DEAD

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  「行動を伴わない信仰は信仰ではない」 マタイ  22.15-21 皆さん、今日の福音書では、ファリサイ派の人々とヘロデ派の人々が一緒にイエス様の所に行って、尋ねるところから始まります。「先生、私達は、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え誰をもはばからない方であることを知っています。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」。 彼らはイエス様に対して大変失礼な質問をしました。イエス様が皇帝に税金を納めるために「はい」と言った場合、ファリサイ派の人々はイエス様が本当のユダヤ人ではなかったと主張したはずです。イエス様が「いいえ」と答えた場合、ファリサイ派の人々はイエス様が反ローマの「挑発者」であり、罰に値すると吹聴したに違いありません。イエス様はどちらに答えても、もう一方を敵に回すことになります。 そこでイエス様は並外れた賢い答えをされました。イエス様は彼らに税金を納めるための金貨を見せるように命じ、お金に誰の像が刻まれているかとお尋ねになりました。彼らは「皇帝の像がきざまれています」と答えました。するとイエス様は「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とお答えになりました。 彼らはイエス様の答えに驚きました。 イエス様の答えは、社会生活において賢明で公正であれ、ということを私達に教えています。これは、私達が私生活と教会の生活をきちんと両立なければならないということを意味していると思います。先週の福音書で、全てのものは神様へ、ということを学びました。神様のものを神様へ、というのは、愛の関係以外のなにものでもありません。神様から多くの恵みをもらっているからこそ、私達は愛によって応えなければなりません。 それは私達が守るべき原則だからです。イエス様が、見事な返事をした内容に、私達は信仰の原則である愛を持って生活する必要性があることを改めて確認していただきたいと思います。 口先だけの信仰は信仰ではありません。御ミサの時だけの信仰は信仰ではないのです。生活の中でイエス様の御言葉や問いかけに愛を持って行動することが、本当の意味での信仰生活です。 ところで、数日前、モナッシュ・カレッジで英語を一緒に勉強している二人の日本人と回転寿司を食べました。メルボルンの回転寿司を食べるのは、私も彼

神様の招きに答える-ANSWERING GOD'S INVITATION

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  「神様の招きに答える」 マタイ 22.1-14 皆さん、今日の福音書は、これまでの「二人の息子」や「ぶどう園と農夫」の例え話と同様でこれも神殿の境内で、当時のユダヤ人の指導者やファリサイ派の人々を前にして語られた例え話です。前の 2 つの例え話と同じように神様の国への招きを受け入れなかった人々が批判されています。 イエス様は天の国を結婚の披露宴に例えています。結婚の披露宴には多くの人が招待されましたが招待された人の多くは来ませんでした。彼らはそれぞれの活動に夢中だった、またはそれ以上に優先することがあったのかもしれません。彼らは結局、招かれたことの素晴らしさやありがたさを本当には感じることが出来なかったのではないでしょうか。 それでは、今の私達は神様の招きをどう受け止めているでしょうか。神様が私達に差し出してくださる招きは、救いへの呼びかけです。それは、結婚の披露宴の招待のようなものです。そして神様からいただく招きは救いの恵みとなり、それは全ての人に開かれています。しかし、私達はしばしば自分達の仕事で忙しく、神様からの救いの招きに耳を傾けようとしない時があると思います。神様の招きは時として、面倒なことや苦労を伴うことが多いからです。 イエス様に従う為には誠実であることが求められます。残念ながら積極的に神様の声に耳を傾け、誠実な態度で実行することは簡単なことではありません。なぜなら、私達は多くの誘惑に心を惑わせ、自分中心に物事を運びたいと思うからです。それゆえに、イエス様は「多くの人が呼ばれるが、選ばれる人は少ない」とおっしゃったのです。どうぞ皆さん、イエス様の教えに従い、キリスト者として、そして選ばれた者として恥じない生き方を目指していただきたいと思います。 現在、イスラエルとハマスの間で戦争が起きています。パレスチナの人々は水やガス、食料などが無いなかで、逃げ回っています。これまで、イスラエルとパレスチナは何回も戦争を繰り返してきました。そして、その度に多くの人が亡くなり、和解することが出来ませんでした。彼らはユダヤ教とイスラム教との戦い、そして過去の過ちを繰り返しながら戦い続けています。 教皇フランシスコはこれまで何度も何度も私達に世界平和の為に祈るように求めました。皆さん、戦争は世界中で起きています。ウクライナ、ロシア、イスラエ