Posts

平和の使者になりましょう

Image
  「平和の使者になりましょう」 ルカ 10.1 - 12 、 17 - 20 皆さん、今日の福音書は、イエス様がエルサレムに向かう決意を固められた後、 72 人の弟子達を広く世界に派遣されたお話です。彼らの使命は、神の国の到来を、世の人々に宣言し、その印として人々の病を癒すという壮大なものでした。 ここで当時の状況を想像してみてください。 「 旅には何も持って行ってはならない。財布も袋も履物も持ってはならない」 という制約の中で、 弟子達は二人一組になって、ガラテヤの村や、そしてローマへと、世界宣教活動の旅を始めました。この時、弟子達は宣教成果を報告しなければならないという責任もありました。当時の伝道者たちの生活は、成果を求められつつ、とても厳しくつらいものであったことが分かります。この厳しい旅の中で、彼等は小さな喜びの一つ一つを、大きく喜び、奇跡的な幸運に巡り合うたびに、 「主の名の持つ威力」 を感じながら、信仰を深めていったのではないでしょうか。雪の降る中、極暑の中、粗末な布をまとい、必死に宣教活動に努める弟子達のことを思うと、私は彼らの伝道活動に対して心の底から感動し、尊敬します。   どうして彼らは、過酷な宣教生活を続けることが出来たのでしょうか。それは弟子達が、自分の伝道活動こそが、イエス様の果たすことが出来なかった働きの延長である、と心から信じたからだと思います。派遣された弟子達は、何もない状況でありながらも、あらゆる手を尽くして、困っている人々の心の動きを理解しながら、助けたのだと思います。奇跡とは必ずしも病気を治すことだけではありません。苦しんでいた人が、ほんの少しの笑顔を見せた時、それも小さな奇跡なのではないでしょうか。 皆さん、今、私達が持つべきものは、社会的地位やお金ではありません。持つべきものはただ一つ、「平和」です。「平和という奇跡」です。表面はみすぼらしく見えても、特別な富を持たなくても、全てを持っているイエス様のように「平安」を人々に与えることができます。世界中で戦争が起こり、一憶人以上の難民が全てを捨てて逃げまどっています。一日に一人でも多くの人が、彼等の生活に「平和の奇跡」を見出すことが出来るように私達は行動を起こしましょう。祈ることや、募金でもいいです。ボランティア活動もいいです。「世界平和」の実現のために、

7月上旬の詩-CATATAN AWAL JULI

Image
  7 月上旬の詩 友よ 紙飛行機のように 全てを手放して 大空を飛んでみよう   夢以外は何も要らない 平和を求めて飛び続ける 高く飛べば飛ぶほど神秘の愛を感じる   愛には限界がない 平和にも限界がない   世界平和を願いながら いつか君も一緒に大空へ飛び立とう 宇宙の果てまで飛んで行こう   (吉祥寺、 2022 年 7 月 1 日) CATATAN AWAL JULI   Kawan, Seperti pesawat dari kertas ini Lepaskan semua beban Juga kerinduan   Terbanglah tinggi membawa impian Menembus batas yang kau suka Berharap kau mendarat di lapangan kedamaian   Belajarlah melapangkan Belajarlah melepaskan   Sebab tiada yang lebih mesra Selain panggilan cinta bermuatan rindu Yang meluncur mulus dari hati-Nya nan tulus   (Tokyo-Kichijoji, 1 Juli 2022)

わたしに従いなさい

Image
  「わたしに従いなさい」 ルカ 9.51 - 62   今日の福音書では、イエス様が エルサレムへと向かう決意を固められたところから始まります。 ルカ福音書によれば、エルサレムへと向かうイエス様の旅は、十字架に向かう旅であると同時に、「天」に向かう旅でした。その旅の中でイエス様は、従う人々に対して他者への寛大さと、自分自身への厳しさ ( 覚悟 ) を求められました。 イエス様がエルサレムに向かわれたのは、民族や国家を超えた「神の国」を実現するためです。人間が神の国の一員として迎えられる為に、どうあるべきかを弟子達や従う者達に教えられたのだと思います。そして、人間が神様との結びつきを回復させて、神の国の一員に迎え入れられるようにする準備をしてくださったのではないでしょうか。 例えば、エルサレムへの旅の途中で、サマリア人はイエス様や弟子達を歓迎しませんでした。これは当時の歴史的な背景から当然のことでしたが、 イエス様は腹を立てた弟子のヤコブとヨハネに向かって、 敵対する者たちに対して怒ったり、敵意に敵意をもって返すことを戒められました。これはキリスト者にとって、とても大事な教えです。敵対する者に対する怒りを抑えること、相手を滅ぼすことによって問題を解決しようとする思いを、捨てることこそが、主イエスの弟子として、信仰者としてのあり方だと私は思います。 さらにイエス様は、旅の同行者達を諭しました。 「どんな状況にあっても、心を乱す事なく、神の国を伝え広めなさい。」 私達は日々悩みと共に生きています。その悩みの大部分は、私達がもっともっとと多くのものを求めるからです。残念ながら私達の欲望には限界がありません。この事からも分かるように、「神の国」に迎えていただく為には、イエス様は私達に覚悟を求めているのではないでしょうか。「主に従って生きる」信仰生活は、大変厳しいものです。決して日々の欲望との戦いにとりつかれてはいけません。冷静に物事を考え、行動を通して「主イエスに従う」ことが求められていると思います。聖書はイエス様そのものです。その全ての教えを学び、その教えに従って行動する事が必要です。 口先だけで何百回「主イエスに従う」と言っても、「神の国」に招かれるわけではありません。どうぞご自分の信仰生活を学びと行動によって本当の「信仰の証」としていただきたい

イエスのみ心

Image
  「イエスのみ心」 ルカ 15.3 - 7 皆さん、今日は、全教会と共に私達は「イエスのみ心の祭日」を祝います。この祭日はかつては「聖なる心・聖心」と書いて、「み心」と読んでいました。イエス様の聖心は槍で貫かれ、命を奪われましたが、この出来事によって、イエス様は 2000 年の時を超えた今も、永遠の愛を私達に教えてくださいます。 今日の福音書では、見失った一匹の羊を探し回り、やっと見つけると喜んでその羊を担いで家に帰るというお話です。今日は迷子になった 羊について考えてみたいと思います。 迷い子になった羊は、本来、羊飼いの元にいるべきですが、いつの間にか離れてしまいました。この羊は、どれほど心細かったのか想像がつきますが、これは私達の信仰生活にも置き換えて考える事ができます。 羊である私達はいつも羊飼いであるイエス様のお導き、そして信頼の交わりの中で、人間としてあるべき場所で正しく生きようとします。 しかし、どんなに正しく生きようとしても、神様に背を向け、迷い始める時があります。それは自分中心とするエゴイズムから生まれる罪です。残念ながら、エゴに浸っている時は、自分の事だけに目がいって、全体の状況を見ることは出来ません。ですが、どんなに時間がかかったとしても、その罪に気がつく事ができた時、神様はその改心を共に喜び、折れた心を癒やしてくださいます。皆さん一人一人は神様にとって特別な存在です。ご自分がどれだけ神様にとって大切な羊であるのかという事を感じてください。 イエス様の永遠の愛に対して、私達も最大限の愛で答えようとする目的を持って、信仰生活を過ごしていきましょう。 ところで、昨日アフガニスタンで大きな地震がありました。 1000 人以上の人が亡くなり、多くの人が家を失ったようです。なぜアフガニスタンの人々に不幸な出来事が立て続けに起こるのでしょうか。力のない人達、小さき人々はどうしたら幸せになれるのでしょうか。残念ながら私にできることは祈る事だけです。どうぞご一緒に心を合わせて、世界中で救いを求めている全ての人達の為に、イエス様のみ心に委ねながら祈りましょう。 主の平和 吉祥寺、 2022 年 6 月 24 日

「航海」ーPERJALANAN HIDUP

Image
「航海」 友よ 我々の人生は船のようなもの 広い海を渡る 嵐の日、凪の日   何があっても大海を進む 君は今どの海を漂っているのだろうか 桟橋にたどり着くまで   (山下公園、 2022 年 6 月 20 日) PERJALANAN HIDUP :Badai mana lagi yang sanggup remukkan hati? Kawan, Hidup kita ibarat kapal Hari-hari yang kita lalui adalah pencarian Menerjang lautan luas Teruslah melintas Menelusuri samudera luas Meski gelombang dan badai menggoncang Hingga tiba di tepian dermaga : angin laut pun terus berhembus di Yamashita Park (Yokohama-Yamashita Park, 20 Juni 2022)

あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい

Image
  「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい」 ルカ 9.11b-17 皆さん、今日はキリストの聖体の祭日です。聖体というと最後の晩さんの記念である聖木曜日を思い起こします。聖体拝領はイエス・キリストが私達を養う食べ物になってくださったという、大変不思議な神秘ですが、ご聖体は弟子たちによって配られ、神の恵みを全ての人と分かち合いました。今日の福音の内容を黙想しながら、聖木曜日と比較しながら、その意義を考えてみましょう。 今日の福音書はイエス様がパンと魚を増やして人々に与えた、という奇跡の出来事についてです。イエス様が「パンを取り、賛美の祈りを唱えて裂いて弟子たちに渡した」というところは最後の晩さんでの場面と同じです。違っているのは弟子たちに配らせたということと、パンの残りが十二の籠にいっぱいになったということです。 最後の晩さんでは、「これはわたしの体である」「わたしの血である」と言ってパンとぶどう酒を弟子たちに分け与えることで、弟子たちはイエス様と一致する恵みをいただきました。私達もご聖体をいただくことによってイエス様が私達の内に来られることを体験することができます。綺麗な心、純真な心を持ってこそ、ご聖体の秘跡の恵みをいただくことができるのだと思います。 今日の奇跡のお話では、大勢の人々がお腹をすかせていました。イエス様が弟子達に「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と仰って、弟子たちにパンを配らせました。イエス様は弟子たちに、命のパンを託され、イエス様のことばを伝える=福音宣教者としての使命をお与えになったのではないでしょうか。イエス様は、弟子たちに、昼も夜も、絶えず叫び求める民に答えるために、相手のもとに出向いて一緒に悲しみや苦しみを、分かち合って生きるようにうながしたのです。 皆さん、聖体の秘跡は神との一致を表わします。しかし、自分達だけが満たされて、それで終わりということではありません。飢餓でお腹をすかしている人々、愛に飢えている人々、寝るところを毎日探している人、たくさんの人々がそれぞれのパンを待っています。それが現実です。 イエス様からパンを配る使命を、弟子たちが与えられたように弟子たちのように、私達にも使命があるはずです。この厳しい現実の中で、パンや魚は人にあげるとなくなります。しかし、人にあげてもなくならないものがあります。そ

主の祈りについて

Image
  「主の祈りについて」 マタイ 6.7 - 15 皆さん、今日の福音は「主の祈り」についてですが、一つの物語を通して皆さんと分かち合いたいと思います。この物語は皆さんもご存じだと思いますが、第二次大戦中、青山学院大学のある教授が、戦争批判の平和的発言を繰り返したことから、検挙され、投獄されました。彼は暗くて冷え切った独房に入れられました。虚しさと不安、そして空腹の中にありましたが、教会で覚えた 「主の祈り」 を唱えることによって、全ての苦しみを耐えることが出来たそうです。彼は無意識に「主の祈り」が唇から涙と共にこぼれてきたと語っていました。この物語からも、「主の祈り」 は私達を最後まで支えてくださるということを、学ぶことが出来ると思います。 「主の祈り」 は、イエス様が弟子たちに教えられた祈りです。この祈りの中に含まれる内容は、とても短いですが、完全なものです。祈りは人間側のものであって、祈りは鍛錬によって築き上げられるものです。ただ単に私たちが暗唱して神に繰り返すという祈りではありません。これは、私たちがどう祈るべきかの模範なのです。 主の祈りのことばを理解しながら祈りましょう。祈りにおいて、神は、私達が特別な言葉を使うよりも、神と交わり、心から神に話すことを望まれておられると思います。 「主の祈り」 の中に含まれる内容は、 「山上の説教」の中にも述べられています。どうぞ、改めて、 敵を愛すること,報い,裁きについての具体的なイエス様の教えを確認してください。 困難にある時、感謝をしたいとき、苦しみや悲しみの中にある時、喜びにあふれている時、様々な時に「主の祈り」を唱えるようにイエス様は私達を導いておられます。 ところで、この 2 年間コロナや戦争、 飢餓や温暖化の影響で沢山の人々が涙を流しました。その涙を集めたら、絶望の海 ( うみ ) が出来たかもしれません。その絶望の海で今この時も人々が命を失っていることを想像して頂きたいと思います。どうぞ皆さん、憐れみや、慰めを求める多くの人々に思いを寄せてください。聖霊で満たされているこの教会で、ご一緒に心を合わせて世界平和のために祈り、心から 「主の祈り」を唱えていただきたいと思います。   主の平和   (カトリック吉祥寺教会、 2022 年 6 月 16 日)

CATATAN SEORANG SAHABAT

Image
HARI PENTAHIRAN _18 sahabat_ Tidak ada darah yang ditumpahkan hari ini. Bau minyak urapan menembus dada para peziarah yang sudah lupa menghitung jarak  antara kenangan dan mimpi masa kanak-kanak ayat-ayat suci melompat dari mimbar pengkhotbah, menampar para peziarah muda, mengingatkan dunia mereka tidak lagi sebatas tembok-tembok biara di atas balkon, solis melantunkan litani para kudus darah para peziarah berdesir. Mereka membungkuk, memberi sembah kepada Roh Ilahi Yang tiba-tiba saja berhembus kencang dari langit-langit kapela. Membisikkan kata-kata yang pernah didengar Daud saat menanggalkan  Pakaian perang Saul di hadapan Goliath. Sekali lagi mereka membungkuk, lebih lama, lebih dalam. “Amin, amin, amin”. Umat yang hadir berseru nyaring. semakin kencang, melampaui suara sangkakala kemenangan atas Filistin. Tapi, perang belum berakhir, perayaan belum usai. Di luar kapela kaum yang tidak mengenakan pakaian pesta sedang menanti remah-remah dari kaki meja perjamuan. (Tahbisan Diakon di

父なる神様、子なるイエス様と聖霊の愛の関係

Image
  「父なる神様、子なるイエス様と聖霊の愛の関係」 ヨハネ 16.12 - 15 皆さん、世界ではコロナウィルスや戦争、飢餓や温暖化の影響で沢山の人が涙を流しながら、不安と共に生きています。私達が今ここで出来ることは、自分の弱さを認めつつ、神様の助けを祈り求めることです。誰もが「善とされる平和」に向かって歩み続けることができます様に神様の恵みを祈りながら、今日の説教を始めたいと思います。             ​ 今日、私達は三位一体の主日を迎えました。「三位一体」を理解することは難しいようですが、この主日はむしろ、イエス様の生涯、受難、死、復活、昇天、聖霊降臨をとおして示された神様の大きな救いの業を振り返り、その神様と私達のつながりを深く味わっていただきたいと思います。     私は大学時代に、三位一体の概念を理解しようとした聖アウグスティヌスの物語を聞きました。「ある日、アウグスティヌスが海辺を散歩しながら、三位一体の教理について思い巡らしていると、一人の子どもが砂浜を掘って穴を作り、海の水を汲んできては繰り返しその穴の中に入れていました。なぜそんなことをしているのかと尋ねると、その子は、海の水を全部この穴の中に入れようとしているのだと答えました。そんなことは無理に決まっているとアウグスティヌスは子どもに言うと、その子は、三位一体の神秘を人間の頭で理解しようとすることも同じことだと答えました。そして気がついた時には、その子どもの姿は消えていました。その少年は天使だったのです。」 この話は、三位一体は偉大な神秘であり、人間の頭脳では理解し尽くすことができないという、キリスト教の信仰の根本をよく教えてくれていると思います。 父なる神様、子なるイエス様、そして聖霊が、いつも私達と共にいて、関わり、支えて導いてくださいます。こうして私達は非常に深く、永遠に、無限の愛の絆で神様と結ばれているのです。イエス様はどんなに辛い時にも一緒にいてくれる、どんなに悲しい時にも希望の光を与えてくださいます。 皆さん、そのイエス様に倣い、困っている人々には労りの言葉、そして救いの手を差し伸べてみてはいかがでしょうか。私達も人々と共に支え合い、助け合うことこそ、三位一体の教えです。 皆さんも神様の前で心を開いて、「真理の霊」である聖霊の働きを受け入れ、神様

「ゴルゴダへの道」

Image
汗が滴る 夜の鼓動すら一瞬止まる 濃い霧の中 静寂の中に悲しみだけが広がっていく 「父よ できることなら この杯を私から過ぎ去らせてください しかし、私の願い通りではなく 御心のままに」 汗と血 私の体は嵐の中で立ち往生している 父よ あなたは私と共にいらっしゃいますか。 霧を晴らしてくださいませんか。 助けてください 体中が痛いのです 目を開けると 更なる痛みが体を突き抜ける 多くの叫び声が波のように響き渡る 「彼を十字架につけろ、十字架につけろ!」 あぁ …… 父よ 私の心にはオリーブの葉が私の悲しみを歌っています あなたにも届いてますか。 旅の終わりに 私は、私の全てをあなたに捧げます 雷と稲妻が天を切り裂く 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」 ー Eloi 、 Eloi 、 Lama Sabakhtani ー 「なぜあなたは私を見捨てたのですか?」 父よ .... もう終わりです  どうぞあなたの愛で 私を抱きしめてください 永遠の命と共に (吉祥寺、2022年6月11日)

DEKAP DAKU YA BAPA

Image
  DEKAP DAKU YA BAPA :Pada malam hingga senja di ambang rapuh, tentang perjalanan Anak Manusia Masih terasa sampai di sini PeluhKu bercucuran Detak malam pun sesaat berhenti Sewaktu bergulat               Bapa......               Sekiranya Aku masih boleh meminta               Sebelum hari tahu ke mana Aku tiba               “Ambillah cawan ini dari padaKu               Namun bukanlah kehendakKu               kehendakMU terjadi” Kelam mencekam Pekat ditelan kabut Di luar, hariMu tahu Jalan ini jalan duka Langkah selanjutnya Peluh dan Darah Menapak di segala jejak               Aku tertatih               Diseret letih               Di antara sayatan perih Tubuhku terperosok di jalanan berbadai Jejak langkah setapak Membekas darah Hingga terkapar tak berdaya   Bapa..... Adakah Dikau iringi Daku Menyingkap kabut di perjalanan?   TubuhKu pedih Terpelanting pada jalanan berbatu Juga perih Terentang pada jalanan berduri Deng