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私達は神様と繋がっている-OUR RELATIONSHIP WITH JESUS

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  私達は神様と繋がっている ヨハネ 15.1-8 皆さん、今日はぶどうの話から始めたいと思います。キリスト教では、ぶどうは神様の命や恵み、祝福の象徴です。私は吉祥寺にいた頃、何度かぶどうを買って食べました。メルボルンでも、時々神学院の食堂にぶどうが用意され、他の司祭達や神学生達と一緒に食べることがあります。ぶどうは本当においしいです。ぶどう酒は貴重な飲み物であり、その芳醇な味わいは人々に喜びを与えます。私はここでぶどうを食べたりワインを飲んだりする度に吉祥寺教会の司祭団と一緒に過ごした日々を懐かしく思います。本当に楽しい日々でした。 さて、今日の福音書の中でイエス様は「私は真のぶどうの木、あなたがたはその枝である。私に繋がっていなさい。私もあなたがたに繋がっている」と弟子達に仰いました。つまり、私達はイエス様という豊かな木につながる枝であり、イエス様の中に流れる豊かな水・養分をいただいて私達の葉が繁り、花が咲き、実をつけます。私達はイエス様から神様の命や愛、恵み、祝福を受け、今この時を生きているのです。 それほどイエス様の愛は強くて深いのです。イエス様の深い恵みの中で私達は生かされていることを感じていただきたいと思います。辛い時、悲しい時、苦しい時、試練の中にある時、絶望の淵にある時、誘惑の中にある時、いかなる時も私達はイエス様から離れず、繋がっていることを感じながら生きていきましょう。 ところで、 2023 年 4 月 27 日に私は東京を離れメルボルンへ行く準備をするためにインドネシアへ帰りました。その時からちょうど 1 年になることをついさっき思い出しました。羽田空港まで送ってくださったビジュ神父様、森神父様、フォン神父様に改めて感謝します。また、皆様のお祈りのおかげで、今まで健康でいられたことも確かです。これまでの皆様のご支援、本当にありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします。それでは皆さん、今週もお元気にお過ごしください。 主の平和 OUR RELATIONSHIP WITH JESUS      Everyone, today I want to share a story about grapes. Maybe you've eaten grapes and drank wine.  In Chri

良い羊として生きる-LIVE LIKE A GOOD SHEEP

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  「良い羊として生きる」 ヨハネ 10.11-18 皆さん、 4 月に入り日本は春の季節に入りましたね。皆さんはお花見をしましたか?お元気でお過ごしでしょうか?私は元気で毎日勉強に励んでいます。面白いことに、私の英語の先生であるトムは大阪に 10 年間住んでいました。時々、授業中に彼と日本語で話すことがあります。そんな時、私は日本語で話しながらとても嬉しくなります。春になると井の頭公園の桜や荒田神父様と私が吉祥寺教会の前に植えた桜の木を思い出します。そして日本食が懐かしくなります。 さて、今日の福音書で人間は羊として描かれ、神様は羊飼いとして描かれています。「私は良い羊飼いである」という表現の中で、イエス様は良い羊飼いは羊のために喜んで犠牲を払う、つまり役に立つと言われました。次に、良い羊飼いというのは、群れから離れた羊を探して、また愛を持って育てるのだと私達に教えくれました。 イエス様は、例え私達が罪を犯したとしても、あるいは、たとえ教会から遠ざかって祈りを怠ったとしても、私達を神の子として、全てを許してくださり、また受け入れてくださいます。それゆえに、私達は神様のご意志に従って、素直に罪を認めて、心を改めて生きるように努力しなければいけないと思います。 私は今学生として、また司祭として日々学んでいます。忙しい中で、時々、自分が従順な羊として生きているのかを問いかけることがあります。自分の与えられたミッションを責任を持って成し遂げる為に、私は神様を信じて今やらなければいけないことを、一生懸命にやろうと思います。 私がメルボルンに来て、ほぼ一年ぐらいになりますが私達はいつも祈りの中で会うことができます。どうぞ、皆さんお元気にお過ごしください。 主の平和   LIVE LIKE A GOOD SHEEP Hi everyone, since April it has been spring in Japan and autumn in Australia. How are you doing? Have you all gone to see the cherry blossoms? When spring comes, I think of the cherry blossoms in Inokashira Park and

あなたがたに平和があるように-PEACE BE WITH YOU

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  「あなたがたに平和があるように」 ルカ 24.35-48 主のご復活おめでとうございます。皆さん、お元気ですか。私はメルボルンで、毎日元気で、忙しく過ごしています。勉強のことだけではなく、時々宣教者として、私はインドネシア人の信者コミュニティの為に奉仕をしています。 今日の福音は、復活されたイエス様が弟子達の前に姿を現したお話です。イエス様が弟子達に最初に語られた言葉は「平和」でした。手には釘を打たれた痕が、わき腹には槍で突かれた痕がありました。なぜイエス様は、弟子達に自らの傷痕を見せられたのでしょうか?イエス様ははりつけの傷跡を弟子達に見せることで弟子達を勇気づけ、さらに信仰の力を強めようと思われたのかもしれません。 私はイエス様の傷跡にイエス様の赦しのメッセージが込められていると思っています。復活されたイエス様のお身体の傷は、「あなた方のために傷つくことを厭わないよ」という愛のメッセージです。悲しみにくれていた弟子達にイエス様から近づいて励まし、優しく包み込んでくださったのです。特に疑い深いトーマスは、自分の手でイエス様の傷跡に触れることによって、よみがえられたイエス様を信じるようになりました。 このイエス様の復活によって、私達は復活を喜ぶと同時に、自らを悔い改め、苦しみの中で喘いでいる人々に希望と力を取り戻すために手を差し伸べる勇気を学びました。私達は皆、それぞれの悩みや困難、苦しみの中で生きています。しかし、イエス様はどの様な苦しみも喜びを持って受け入れなさいと教えてくださいました。 イエス様の御復活によって、復活祭は愛と平和を共有する日であることを思い出させてくれます。忘れられてよい人は誰もいません。無視されてよい人は誰もいません。神様が私達を愛しておられるように、私達は互いに愛し合い、平和に暮らし、毎日を生きなければなりません。これこそが復活の精神を生きるということであると思います。 残念ながらイエス様が求めている平和はまだまだ見えてきません。戦争の犠牲者は増え続けています。このような状況がいつまで続くのでしょうか。どうぞ皆さんご一緒に一日も早く戦争や争い、災害、感染症の無い平和な日が来るためにご一緒に祈りましょう。 主の平和   PEACE BE WITH YOU My dear brothers and

互いに思いやり助け合う-CARING FOR AND HELPING EACH OTHER

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  互いに思いやり助け合う マルコ 1.40-45 今日の福音は先週に引き続きイエス様が一人の重い皮膚病患者を清めたことについて語られています。当時は、重い皮膚病になると、家族や社会から疎外されました。感染することを恐れることは当然でしたが、モーセの律法で、重い皮膚病は汚れていると考えられていたからです。 さらに、これは神の呪いであると理解されて、皆に忌み嫌われたようです。そのため、重い皮膚病は、通常のように癒されるのではなく、清められる事を求められました。 皆さん、当時の人が重い皮膚病によって、どれだけ苦しんだか想像できますか。愛する人から離れて全てを失い、失望のどん底の中で彼らは亡くなっていったのではないかと思います。 私は今日の福音を読んでいると、 8 年前に私が大学院で論文を書いていた時の事を思い出しました。その時、私はインドネシアのフローレス・マウメレでエイズ (HIV/AIDS) 患者と一緒に 1 年ぐらい過ごしました。彼らは、公の生活から排除されて、大きな精神的苦痛と共に生きていました。ある人は、彼らを生きている死体に例えました。肉体的には生きているが社会生活では死んでいると考えられていたからです。問題はエイズ患者達が私達と同じ人間ではない、と思われていた事です。私は彼らの悲しみや苦しみ、そして絶望感を理解しようとしましたが、自分の無力さを心の底から感じました。その時の私には手を差し伸べて助けることと、祈ることしかできなかったことを覚えています。この経験の全ては、今の自分にとってとても役に立っています。 皆さん、イエス様は絶望している皮膚病患者を拒絶せず、代わりに、深く憐れんで患者に触れました。重い皮膚病患者が「御心ならば、私を清くすることがおできになります」と願うと、イエス様は手を差し伸べてその人に触れ「よろしい。清くなれ」と仰いました。すぐに皮膚病は治り、その人は喜びました。これは、どんな状況であれ、イエス様が私達をとても愛し、助けてくださる事を意味しています。 この福音から学ぶことは二つあると思います。まず、私達が謙虚に救いを求めると、イエス様は必ず救いの手を差し伸べてくださる事を、信じる事です。もう一つは、私達もイエス様のように、思いやりの心を持って、私達の助けを求める人の声を聞いて寄り添う事です。なぜなら、私達は血のつ

癒しと祈りについて-ABOUT HEALING AND PRAYER

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  癒しと祈りについて マルコ 1.29-39 皆さん、今日の福音書では先週に続き、巡り歩いて、病気をいやしたり、悪霊を追い出したりして宣教するイエス様の姿と、人里離れた所で一人祈るイエス様の姿が印象的です。 イエス様の宣教とは、神様の国の到来を告げ知らせることでした。それは単に言葉によるだけではなく、「悪霊を追い出す」という表現で象徴されているような、神の国の到来を現実のものとして体験できるしるしを伴うものでした。 イエス様は一つの場所に決してとどまることなく、宣教するためにあらゆる場所へ出向いていきました。イエス様の祈りは、その宣教活動の中において、場所を選ばず、昼夜を問わず、あらゆる形で祈りを続けました。ですが、イエス様は治癒を求めて来る人々に、疑問を持ったであろうと思います。なぜならば、人々が求めるのは病気の治癒のみであり、神の国ではありませんでした。「これで良いのだろうか」、「人々は奇跡だけを求めて信仰を求めようとはしない」、イエス様は迷って、祈られたと思われます。 私達はイエスが癒しと宣教の間に、一旦退かれて、祈りと黙想の時を持たれたことの意味を考える必要があります。イエス様は悪霊追放の働きに備えるだけではなく、根本的なところで神様の意思を問い、自らの使命を確認するための祈りが必要だったのではないでしょうか。 私が吉祥教会にいる時、時々病気でミサに出席できない人のところに御聖体を持って行っていました。その男性は毎回私の来訪を大変喜んでくださりました。実際私は彼の病気を治す力もなく、祈りを共に捧げただけでしたが、彼にとって心の癒しになったであろうと私は信じています。 私はキャンパスで勉強する以外にも、インドネシアのコミュニティでミサ等の奉仕活動をしています。信仰に関する全ての活動を、私は喜びをもって行っています。これらの行いは私の心の癒しと祈りであり、同じように信者の方達にも心の癒しと祈りを感じて欲しいと願っています。 ところで、自動車の自動運転や、電子マネーや仮想通貨など、世の中がどんどん進化し、時代は変わっていきます。しかし、福音が人を介して伝わることは変わりません。神様から受けている恵みに気づき、周りの人に奉仕し、さらに他の人を動かす影響力のある人が現代に求められていると思います。私達も各自の生活の場に神様から派遣され

イエス様の福音宣教-OPEN YOUR HEART TO BE MOULDED BY THE POWER OF GOD'S LOVE

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  イエス様の福音宣教 マルコ 1.21-28 皆さん、今日の福音はイエス様の宣教活動の幕開けとなるカファルナウムの会堂での出来事が紹介されています。人々はイエス様の教えに大変驚きました。その教えは、律法学者のように事実を説明するのではなく、イエス様の御言葉が事実となっていくという人々に感動と驚きを与えたからです。 イエス様にとって「初めて」公の場で教えを語ったのですが、それまでのイエス様はナザレの田舎町で素朴な両親、ヨゼフとマリアと一緒に、ひっそりと暮らしていました。決して人々に期待されるような存在者ではなかったのです。 多くの人々が驚く中で、 特にイエス様の新しい教えの元に集まってきた病人や悪霊に取り憑かれた者達でした。彼らはイエス様の御言葉に心を癒し、イエス様の教えに従ってついていこうと思ったに違いありません。 今日の福音は宣教における基本的な方向性が示しています。イエス様の苦しんでいる人達を待つのではなく、自分の方から出向いて行こうという態度こそが宣教の本質であると思います。 イエス様の宣教の最初の言葉は「悔い改めて福音を信じなさい。」でした。このイエス様の御言葉を信じる前に私達は悔い改めるという努力をしなければなりません。悔い改めるという行為は決して簡単なことではありません。イエス様の御言葉を信じることよりも難しく、心の痛みを伴うこともあると思います。自分の弱点や罪に目を向けるのは、とても嫌なことです。しかし、イエス様は私達の全てを受け止めてくださいます。 皆さん、私達キリスト者は、神様に見つけていただき、憐れみの心を授けられ、そして導かれています。それ故に、イエス様の教えと私達の行いは完全に一致しなければいけません。私達を縛り付ける考え、習慣、病気、対立などから解放されるためにもイエス様の教えに従って、心を柔らかくして生きていきましょう。 今日の福音について黙想した時、私は次の詩篇の言葉を思い出しました。「主は憐れみ深く、恵みに富み忍耐強く、慈しみは大きい。永久に責めることなくとこしえに怒り続けられることはない。主は私達を罪に応じてあしらわれることなく私達の悪に従って報いられることもない ( 詩編 103.8-10) 」。 神様は全ての人を慈しみ、救済の手を差し伸べてくださいます。私は 憐れみ深い神様の「無限の愛」と「憐れむ

イエス様の弟子になり-BECOMING JESUS' DISCIPLE

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  イエス様の弟子になり マルコ1 .14-20 皆さん、今日の福音書の中でイエス様は多くの人に福音を告知しました。イエス様が神の国の福音を告げ知らせる活動を始めたとき、最初にしたことは、弟子を呼ぶということでした。イエス様は、「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。その御言葉は神の国で人と人との出会い、そして、その人達との関わりの中で本当の信仰が始まるという意味であると思います。 「福音」は「よい知らせ」であり、喜びに満ちた知らせです。フランシスコ教皇は使徒的勧告『福音の喜び』の中でそのことを神の国の到来であると強調しています。神様は遠くから人間を眺めているような方ではありません。神様のほうから私達に近づいてきて、救いの業を行おうとしておられるのです。それはまさに救いのメッセージそのものではないでしょうか。 私達にとって福音とは何でしょうか。それは日々、私達がイエス様と共に生きることです。それが福音の喜びです。祈りをとおして、御言葉をとおして、秘跡をとおして、このイエス様との交わりを深めていくことです。 多忙な日々の中で、私達がイエス様の忠実な弟子となり、他の人々に良い知らせを伝えることができるように心がけましょう。私はキャンパスで勉強する以外にも、インドネシアのコミュニティでミサ等の奉仕活動をしています。信仰に関する全ての活動を、私は喜びをもって行っています。 私達がイエス様と共にいる喜びを深く味わい、イエス様と共に生き、福音の喜びを周囲の人々と分かち合うことができるように努力しましょう。自分の全てを神様に向け直し、この神の国の到来のメッセージに信頼を置いて、そこに自分をゆだねてみましょう。それが、私達キリスト者として、そしてイエス様の弟子としての生き方だと思います。日本は寒い日が続きますが、どうぞ皆さんお元気でお過ごしください。 主の平和   BECOMING JESUS' DISCIPLE   My dear brothers and sisters. In today's Gospel, Jesus begins to proclaim the good news of the kingdom of God to many people. At that time, the

愛を持ってイエス様を証する-BEING GOD'S WITNESS IN OUR LIVES WITH LOVE

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  愛を持ってイエス様を証する ヨハネ 1.35-42 皆さん、お元気ですか。どの様なお正月を過ごされましたか。私はお正月をプレストン教会の司祭達や神学生達と一緒でしたが、 1 月 2 日からはモナシュ大学での勉強が始まり忙しく過ごしました。どうぞ今年もよろしくお願い致します。 今日の福音書は洗礼者ヨハネがイエス様について証言するお話です。洗礼者ヨハネはイエス様を見た時「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と多くの人々に伝えました。 洗礼者ヨハネにその時何が起こったのか、私達には分かりません。ただ、私達にも分かることが二つあります。それは、この洗礼を通して、イエス様が神様から特別な使命を与えられて世に来られたことです。そして、洗礼者ヨハネにとっても、この体験こそがイエス様こそメシア=神の子であることを確信する決定的な動機になったことです。 このブログを読んでくださっている皆さんも洗礼を受けていると思いますが、洗礼は信仰の完成ではありません。水の洗礼を受けても、私達が完全になるわけではないし、罪を犯さなくなるわけでもありません。それは信仰の始まり、救いの第一歩となるだけです。皆さん、どうぞ罪人になるような感情を持たずに、愛を持って生きてください。 一人一人が聖霊の香りを放つ神の子として、罪ではなく、愛を持って生きていけますように祈りましょう。 ところで、1月15日は、聖アーノルド・ヤンセンの記念日です。聖アーノルド・ヤンセンは神言会、聖霊会、そして日本にはありませんが永久礼拝の聖霊会と、三つの修道会を創立したドイツ人司祭です。 聖アーノルド・ヤンセンは、聖霊の導きに完全な信頼を置いていました。神の御旨であると確信することは必ず聖霊の助力によって達成されるという堅い信仰があったようです。 私達は心を合わせて聖アーノルド・ヤンセンの祈りを唱えましょう。御言葉の光と聖霊の恵みによって、罪の暗闇と不信仰の夜は消えうせ、イエスの御心が全ての人の心のうちに生きますように、アーメン。 皆様にとって 2024 年が良い年になりますように願っています。 主の平和     BEING GOD'S WITNESS IN OUR LIVES WITH LOVE John 1.35-42 My dear brothers and

クリスマス:愛と平和の分かち合い-CHRISTMAS: SHARING LOVE AND PEACE

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  クリスマス:愛と平和の分かち合い ヨハネ 1.1-18 皆さん、クリスマスおめでとうございます。今日の福音書は、ヨハネの福音書ですが、大変格調高い表現をもって、神様とイエス様との深い関係を表しています。特に、神の御子であるイエス様のことを「言葉」と呼び、「始めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。言葉は肉となって、私達の間に宿られた。」クリスマスとは神様が人間と出会い、共に生き始めたという、最大のイベントの始まりです。 毎年、キリスト者である私達は必ずクリスマスを祝います。私のインドネシアの地元では、多くの人が教会に行き、クリスマスツリーを飾り、贈り物を交換し、一緒に食事をし、盛大にお祝いをします。私は沢山の友人にメールやラインでクリスマスの挨拶を送ります。皆さんにも、それぞれのクリスマスの過ごし方があると思いますが、改めてクリスマスの本当の意味を思い出していただきたいと思います。 イエス様の誕生は、貧しい人達や苦しんでいる人達に喜びと希望、そして生きる勇気を与えてくれます。貧しければ貧しいほど、イエス様は、彼らにとって特別な希望の星であったに違いありません。 現在、世界中に戦争や自然災害、そして病や貧困に苦しんでいる人々がいます。このクリスマスを彼等がどのように迎えるのかを想像してください。一人でも多くの人たちが愛と平和の分かち合いによって心が癒されますように祈りましょう。 オーストラリアでは 11 月頃からクリスマスソングが流れ始めます。ほとんどの人達は集まって食事をしたり、プレゼントをあげるだけの習慣になっています。これはこれで楽しいイベントですが、私達キリスト者は本当のクリスマスの意味を持って祝います。 2000 年以上の時を経て、私達も、神様の恵みに与ることができるよう感謝を込めて祝いましょう。 人のことを思いやる、人の幸せを考える、人を喜ばせる、そのようなクリスマスの心を、この時期だけでなく、一年中持ち続けて頂きたいと思います。 オーストラリアは今夏です。私は雪のない国でクリスマスを迎えます。日本やインドネシア、そして全世界に散らばるキリスト者の皆さん、心暖まるクリスマスをお迎えください。 主の平和   CHRISTMAS: SHARING LOVE AND PEACE John 1.1-

星のように輝いて生きる-LIVE HUMBLY AND SHINE LIKE THE LIGHT OF THE ADVENT CANDLES

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「星のように輝いて生きる」 ヨハネ 1.6-8.19-28 皆さん、今日私達は待降節第 3 主日を迎えます。祭壇の前には、 3 つの待降節の蝋燭が点灯しています。燃える蝋燭が主の到来を歓迎する準備を象徴しています。同時に、私達の生活も神様の前でより鮮明に映し出されます。 今日の福音書で、洗礼者ヨハネは正直な心で彼が救主でもなく、エリヤでもなく、将来の預言者でもないと言いました。そして、彼は「主の道をまっすぐにせよ」と荒れ野で叫びました。彼の叫びによって、ユダヤの地方とエルサレムの住民は皆、罪を告白し、ヨルダン川で洗礼を受けたのでした。 洗礼者ヨハネは、イエス様の到来を確信したにも関わらず、決して自慢しませんでした。洗礼者ヨハネの謙遜は、彼がただの神様の使者である思ったに違いありません。それは洗礼者ヨハネに与えられた重要なミッションだったのではないでしょうか。 皆さん、今日の福音書では私達に 2 つのことを教えていると思います。一つ目は、待降節の蝋燭の光は私達がキリストの光が私達の生活の中にあることをあえて世界に証言しなければなりません。私達がキリストの光の中で生きるならば、私達はキリストの光の証人にならなければなりません。私達の心の内が神様の前にさらけ出される時です。最も大事なことです。どうぞ、神様の言葉を読んだり瞑想したり、教会のミサで祈ったり、教会の活動に参加したりしながら自分の一年の心の有り様を見直し悔い改めるところがあれば、素直に赦しを求めて頂きたいと思います。 二つ目は、私達は常に謙虚でなければならないということです。信者としてどのように振る舞うかについて自分自身を反省しなければなりません。私は、日々の活動においても、常に謙虚な姿勢で、他者からの提案を受け入れ、学び続ける姿勢を持つことが必要だと思っています。例えば、学生として、授業で学んだことに関する先生からのフィードバックを素直に受け入れています。それが私の成長必ず促すと信じています。 私達も洗礼者ヨハネのように謙虚さを持って振る舞えるように、私達の心を正しましょう。私達も光り輝く星のように生きていきましょう。 主の平和   LIVE HUMBLY AND SHINE LIKE THE LIGHT OF THE ADVENT CANDLES My dear brothers and sisters in

神様を迎える道を整える-PREPARE THE WAY TO WELCOME OUR LORD JESUS CHRIST

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  「神様 を迎える 道を整える」 マルコ 1.1-8 今日の福音書では、洗礼者ヨハネが預言者イザヤの呼びかけを繰り返し、救い主イエスを歓迎します。洗礼者ヨハネは「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫びました。ここで、洗礼者ヨハネの役割は、人間がイエス様に信仰の道を示すことでした。洗礼者ヨハネは私達の生活の中に神様の存在を迎入れることで、私達の生活の道をまっすぐに正し信仰を深めるように薦めています。この姿勢はクリスマスの日に向けての準備となります。 皆さんの信仰の道、すなわち神様へ続いている道は澄んだ心でまっすぐにつながっているでしょうか。敵意、憎しみ、プライドなどによってねじまげられた道になってはいませんか。 今日の福音朗読によって私はティモール島の民話を思い出しました。昔、天と地の距離は今よりずっと近かったと言われています。ある所に、一本の高い竹の木が天に届いていました。そして、天と地の間に一つの梯子がかかっていました。梯子は、神様が世界に降りてくる方法として、そして人間が天に昇る道として使用されました。神様は人間に、梯子を絶対傷つけてはならないと仰いました。しかし、一人の悪い人が梯子を壊してしまいました。その結果、その梯子は地面に落ち天は更に高く跳ね上がってしまいました。それ以来、ティモールの人達と神様を結ぶ道はなくなってしまったのです。 確かに、この民話はティモールの人達にとってとても大切な意味がありました。当初、神様と人間の関係は非常に緊密で良好であったことを示しています。この良好な関係は、天と地の近さと、神様と人間が出会う道となる梯子によって示されています。しかし、人間の欲望のために、人間と神様の美しい関係は悪くなってしまいました。 ティモールの民話では、梯子で人間と神様の関係を示していますが、一方、ユダヤ人の文化では、人間と神様の関係は道で象徴されています。預言者イザヤは「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、私達の神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷は全て身を起こし、山と丘は身を低くせよ」とユダヤ人達に教えられました。違う文化の中で、信仰への道は異なって表現されているのは興味深いと思います。 クリスマスの日に、私達の兄弟となる神の子イエス様のご誕生を歓迎したいと思います。クリスマスの日に光輝くイエス様を