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「金持ちとラザロ」

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  「金持ちとラザロ」 ルカ16.19-31 皆さん、今日の福音書は「金持ちとラザロの物語」についてです。「人が死んだらどうなるか」は、多くの人々の関心事です。しかし、誰にも分りません。今日の物語は、死後の世界を描く貴重な個所です。イエス様が例え話をなさる中で、登場人物に名前を付けているのは、実はここだけです。何か特別なメッセージが示されているように思われます。 ラザロとは「エリアザル」の短縮形、「神様の助けを必要とする人」という意味です。ラザロは何も無いがゆえに神様を頼りにして、そのラザロの願いに神様は答えられ、彼を「助けられました」。ところが、金持ちは富を頼りにして、その結果、神様の救いから洩れてしまいました。もし金持ちが生前のラザロを気に掛け、食卓に招いていたならば、彼もラザロの内に神様がおられることを知り、何かを為すことができたかもしれません。 この物語は私達に因果応報を教えたものではありません。「今は貧しい人も来世では豊かになるから、現世の苦しみを耐えなさい」と言っているのでもありません。また、「金持ちは金持ちゆえに地獄で苦しむ」ということでもありません。問題はこの金持ちは富を自分のためだけに用いたことです。神様から与えられた富を自分のためだけに使ったこと、イエス様は、これらの行為は良いことではなく、 責任を問われることだと言われたのです。ここでの金持ちの罪とは「何かをした」ことではなく、「何もしなかった」ことです。 今日の福音を読みながら、私は6年前に 論文を書いていた時の事を思い出しました。その時、一人の先輩司祭と私はインドネシアのフローレス島のマウメレでエイズ (HIV/AIDS) 患者と 1 年間ほど毎週の土曜日を一緒に過ごしました。彼らは、通常の生活から排除されて、大きな精神的苦痛と共に生きていました。ある人は、彼らを生きる死体と言いました。肉体的には生きているが、社会的には死んでいると考えられていたからです。エイズ患者達は私達と同じ人間ではない、と思われていました。彼らはまさしく、今日の福音のラザロそのものでした。 ある時、その先輩が私に「アンディ、あと一年であなたは司祭になります。『良い司祭とは、信者が直面している問題をよく聞くことができなければならない。人を愛するとは相手に関心を持つこと、相手が困っていればそれを自分の問

富の正しい用い方

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  「富の正しい用い方」 ルカ 16.1 - 13 皆さん、今日の福音書は「不正な管理人」の例え話です。「富に対する態度」について 、お金の建設的な使い方などについて考えてみたいと思います。 この管理人のした事は決して褒められることではありません。それは不正です。まず、彼は主人の財産を自分の喜びや楽しみのために使い込んでいました。しかし、彼はそのことが発覚していよいよ首になろうという危機の中で、自分に預けられている富の用い方を変えました。主人に借りのある人の借金を減額して助けてやることで、自分を迎え入れてくれる友達を作るというずるい考えを思いついたのでした。それもまた、明らかに不正なことです。しかし、興味深いことに、管理人は残された僅かの時間と機会を有効に使って、次の人生のための備えをした賢さ、それを主人は褒めたのでした。 イエス様は管理人の行った詐欺的行為そのもの、不正そのものを褒めたり、勧めたりしているのではありません。誉められた点は「抜け目なく行ったこと」です。「抜け目なさ」とは洞察力、思慮深さ、賢さを意味しています。 管理人は知恵の限りを尽くし、必死に次々と手を打って「行動して」備えをした賢さで、ほめられたのです。 さらに、イエス様は富の在り方についても教えてくださいました。 富は、神様と隣人との交わりを築くための手段として与えられているということです。自分が喜び楽しむためだけに富を用いるなら、富は人を支配し、自分の思いを遂げるための手段となります。そういう生き方をすることによって私達は人との交わりを失い、孤独に陥いるかもしれません。放蕩息子が全財産を使い果たした時、食べ物をくれる人は誰もいなかった、という先週の福音の話がそれを表しています。 私達は神様から様々なもの「お金、財産、時間、賜物・能力、人脈、所有物、そして福音」を預けられました。私達は神様が造られた世界を正しく管理する管理者なのです。だからこそ、私達は神様から預けられた全ての物を管理しなければならないと思います。 今日の福音を読んでいると、マザー・テレサのことを思い出しました。マザー・テレサは若い頃からインドを拠点に貧しい人たちへの奉仕活動を献身的に行い、ノーベル平和賞を 受賞しました。 その時、マザー・テレサは「私はノーベル平和賞にふさわしい者ではありません。けれど世界中の貧しい人々に代わって

憐れみ深い神から学ぶ

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  「憐れみ深い神から学ぶ」 ルカ、 15.1-32 皆さん、今日の福音書の中でイエス様は、悔い改めた「徴税人と罪人達」を「迷い出た羊、見失った銀貨、放蕩息子」に例えられて、「見失ったものを見つけ出した者の喜び」という憐れむ心を教えられました。 イエス様は例え話の結論として「悔い改める一人の罪人は、悔い改める必要のない九十九人の正しい人よりも大きな喜びが天にある。」と仰って、限りない憐みの心をお示しになりました。そして、ファリサイ派や律法学者たちに対し、「徴税人や罪人が救われるのは、神にとって羊飼いが見失った羊を捜しあてたような喜びである。」と言われ、さらに身分の差無くして一緒に喜ぶことを求められました。 これらの例え話から、私達はイエス様の御心の本質を知ることが出来ます。イエス様は、「一匹の羊、一枚の銀貨、一人の息子」を見捨てず、見つかるまで捜し求められる方であり、小さな喜びでも皆一緒に喜びを分かち合われました。イエス様は罪人が滅ぶのではなく、生きることを望まれたのです。イエス様は罪によって自分から離れ、ボロボロになり、滅びかけようとしている人を、探し、待ち続け、見つけて連れ戻すことを喜びとする方なのです。 イエス様は弟子達に「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである(ルカ 5 : 32 )」と仰いました。常に弱き者、小さき者、悔い改めた者たちを勇気づけ、愛してくださる方であることを、皆さんにも感じていただきたいと思います。 私達も自分を「 99 匹の羊」や「九枚の銀貨」、「兄」と感じる部分がだれの中にもあるかもしれません。あるいは、「迷子の 1 匹」、「無くした一枚の銀貨」、「一人の息子」と感じることもあるでしょう。私達も皆、日々、様々な立場を経験しています。このコロナ禍だからこそ、更なる憐れみの心と愛を持って日々過ごしていただきたいと思います。 私達キリスト者は、神様に見つけていただき、憐れみの心を授けられ、そして導かれて、今この教会に集まっています。この神様の恵みに感謝して、共に喜びを分かち合いましょう。  今日の福音について黙想した時、私は次の詩篇の言葉を思い出しました。「主は憐れみ深く、恵みに富み忍耐強く、慈しみは大きい。永久に責めることなくとこしえに怒り続けられることはない。主は私達

「自分の持ち物を一切捨てないならば、 あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」

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  「自分の持ち物を一切捨てないならば、 あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」 (ルカ 14.25-33 ) 皆さん、今日の福音の中で、イエス様は「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人として私の弟子ではありえない」と仰っしゃいました。イエス様は弟子達に弟子たる者の心構えと幸せについて示されました。イエス様が私達に「弟子」として求める覚悟について考えてみたいと思います。 私は以前、聖アントニオの生き方について読んだことがあります。聖アントニオはある時、「全てを捨てて私に従え」というイエス様の御言葉に導かれて、文字通り全てを捨てて砂漠へ行きました。すると彼のもとには彼の聖徳を慕って、多くの人々が訪ねてきました。ある時は、重大な問題を耳にし解決するために、彼はわざわざ砂漠から出向いて問題を解決したこともありました。聖アントニオは、人々に仕えることによって、逆に世に身をさらしていたとも言えます。彼にとっての「出家」とは「身を世に捨てる」ことだったのだと思います。 私達はカトリック信者として、洗礼によってすでに「世を出る」恵みを受けています。「世を出る」とは、聖アントニオのように世から距離を置きながら、逆にキリスト者として身を世にさらす生き方です。つまり私達は「出家者」、「世にあって世を出た」人と言えます。「世を出る」生き方は司祭や修道者などの特別な生き方ではありません。もちろん、厳しさも苦しみもあります。人から誤解されたり、拒絶されたりすることもあるでしょう。しかし、自分の選んだ生き方ならば、私達は、どんな人にも、どんな事にも振り回されることがないはずです。皆さん、 物事に執着したり、縛られたりするのではなく、全てを神様に委ねて生きてはみてはいかがでしょうか。 マザー・テレサの『日々の言葉』という本の中に次のような言葉があります。「よく電線を見ますよね。細かったり太かったり、新しいのや古いの、安いのや高そうなの。でも、電流が流れていない限り、電線は役に立たず、明かりはともらないのです。電線はあなたや私、そして電流は神様です。私達は、私達の中に電流を流すことも、それを拒んで、暗闇が広がるのを許すことも出来るのです」。私はこの言葉を読むたびに、これからのキリスト者としての信仰のあり方、そして信仰の無限の力を感じます。 ところで、今月は「全ての

高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる

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  「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」 ルカ 14.1 , 7 - 14 皆さん、今日の福音書は神様の前に立った時、私達が、「謙虚であるか」という問いかけについてです。ある安息日、イエス様はファリサイ派の議員に招待されました。その時、イエス様は招待された人々の行動を観察して面白いことに気付きました。人々はどの席についたらいいのか迷っていたようです。その様子を見てイエス様は二つの例え話を通して、「謙虚さ」を教えてくださいました。 一つは「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。招待を受けたら、むしろ末席に座りなさい。」という教えです。イエス様は「誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という御言葉で「謙虚さ」を示されました。 もう一つは「昼食や夕食を提供する時には、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」という教えです。ここで、イエス様は、お返しすることが出来ない人々にこそ、報いを求めず食事に招くように言われました。報いて下さるのは神様だからです。つまり、愛の業は、天に宝を積むということです。 イエス様が求められた「謙虚さ」を示された「誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という言葉は、誰の心にも響く美しい御言葉です。神様の前には学識も富も権力も重要なものではありません。神様が大切にしておられるのは愛と謙虚さなのです。 残念ながら、私達は知らず知らずのうちに謙虚さよりも 貪欲、傲慢、人への要求、不満や愚痴を抱えて生きています。イエス様は私達がそのような態度を入れ替え、愛や謙虚さのある態度で生きなさい、そして、自分の必要以上の欲望から解放され 人々と正しい関係を築いていくことを求めておられます。兄弟姉妹と共に幸せを分かち合い、支え合いましょう。謙虚な心でこそ、自分の務めを、神の恵みの中で果たしていけるのではないかと思います。 ところで、毎日温暖化、 洪水被害、飢餓問題などの ニュースが流れます。 地球の至る所で災害が起きています。特にパキスタンでは大洪水で 3 分の 1 国土が失われました。多くの人々が全てを失い希望も無くして泣いている状況です。今日の福音を通して、私達が愛をもって、沈黙のうちに、苦しんでいる人達の心の痛みが少しでも癒される為に、祈りましょう。 主の平和   呟き 自分を偉い者

狭い戸口から入るように努めなさい

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  「狭い戸口から入るように努めなさい」 皆さん、今日の福音はルカ 13.22-30 です。エルサレムに近づくにつれ、イエス様は十字架に向かう決意を固くします。イエス様の教えは次第に熱を帯び、弟子達に対しても主に従う覚悟をより強く求められました。 イエス様が教えを説いている時、ある人が質問しました。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」。この質問に対して、イエス様は神の国を家に例え、その家に入るには 「狭い戸口」 からしか入ることができず、やがてその戸口は主人によって閉められてしまうと言われました。 なぜ、この人はこのような質問をしたのでしょうか。まず、すばらしいイエス様の教えに心打たれながらも、イエス様の言葉を信じることができなかったのかもしれません。次に、ユダヤ人は神の民だから救われるが、異邦人は救われない、あるいは、ユダヤ人の中でもファリサイ派のような熱心な者しか救われないのかという思いがあったのかもしれません。 皆さんにとって 「狭い戸口」 とはどういう意味でしょうか。様々な受け取り方があると思いますが、私は「狭い戸口」とはイエス様ご自身を表しているようにと思います。それは私達の救いがイエス様の内にのみにある、という狭い戸口です。イエス様は「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことはできない」と弟子達に仰いました。私達が迷うことなく、イエス様の御言葉を心の底から信じ、イエス様の後ろを歩んでいけば、必ず神の国へとたどり着くことができます。 皆さん、イエス様の仰った 「狭い戸口」 から入る為には信仰は必要です。イエス様の「狭い戸口」が表すものは信仰です。信仰とは神様と自分との関わり、関係です。神様との良い関係は、祈る時間を持つことや生活の中で常に神様に委ねること、神様の言葉を理解すること、そして他の人に良いことをする、自分の成長のために努力をするという行為があって成立するものだと思います。 人生の最高の幸福とは、イエス様と共に生きることです。皆さん、今日の福音を通して、心を強め、勇気を持って「狭い戸口」から入って、人生の嵐を乗り越えられるよう、信仰生活を続けていきましょう。 ところで、コロナウイルスや戦争、温暖化の影響で、多くの人が悲鳴をあげています。教会の活動においても、多くの活動が妨げられてい

平和について 

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平和について   (ルカ 12 . 49 - 53 ) 皆さん、今日のイエス様の御言葉は、私達には少々難しく、戸惑うかもしれません。イエス様は「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」そして、「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」と仰いました。 この言葉は、私達が持っているイエス様のイメージとは、ずいぶんかけ離れた言葉のように聞こえます。今日は、イエス様の仰った「火」、「分裂」と「平和」に注目してお話ししたいと思います。 まず、イエス様が意味した「火」とは、聖霊であり、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制をもたらす神の霊です。また、「火」は神の裁きを表しています。特に、今日の福音では最後の審判の場面を意識して書かれているように感じます。私達が神の裁きの火で滅ぼされる前にイエス様が火のように燃え盛る愛で私達を救ってくださる様子が目に浮かびます。 次に、「分裂」について考えてみたいと思います。私達が思っているキリスト教は、「分裂」ではなく、「平和」が重要な教えであり、「平和の宗教」と呼ばれます。それにもかかわらず、今日の福音書でイエス様はそれと反対のことを仰います。一体これはどういうことかと疑問を感じます。 ですが、「分裂」は私達の生活の一部であることも事実です。例えばイエス様に従って行こうとした時に、身近な人達から、あるいは家族から 誤解され、対立が生じることもあります。日常生活の中でも、ちょっとした誤解から「分裂」がおきます。分裂はキリスト教の中だけで起きているわけではありません。 この「分裂」から学ぶことは、私達はどうやって「分裂」の状態の中から「各自の言葉」で自分の意見を述べ、異なる他者と共に生きることができるかということです。戦争がない状態が平和なのではありません。敵とも共存することが平和なのではないでしょうか。 「分裂」とは自分の魂を成長させる大きなチャンスでもあります。「分裂」という経験を通して私達は日常生活の中で許し、互いに尊重し、平和に生きることを学ぶことができます。 イエス様の示される平和は、相手を信じ、相手との関わりを築く呼びかけを続け、いたわってより良く生きることをめざすという意味を含んでいると思います。 私達はイエス様が投

「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」

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  「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」 ルカ 12.32 - 48 皆さん、今日の福音書の中で、イエス様が天にあって、この地上におられない時、教会がイエス様の再来を待っている時、私達がどのように歩んでいくべきかをイエス様は語っておられます。 そのために、イエス様が用いられている例えは、婚宴に出かけている一人の主人と、留守を守る僕(しもべ)たちのお話についてです。主人は、留守の間の家の管理を、「管理人」に任せます。問題は、この主人が、婚宴の席から、いつ戻ってくるか、管理人にも、ましてその下にいる僕たちにもまったく分からないということです。それがこの話の一つのポイントです。 留守をあずかる僕たちの在り方、その姿勢について、イエス様は次のように教えています。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」。「腰に帯を締め」という言葉は、気を引き締めて、それに備えることを命じる言葉として聖書でよく使われます。私はイエス様が、十字架の死を間近にした時、腰に手ぬぐいをまとい、弟子達の足を洗ったというシーンを思い出します。イエス様は弟子達の足を洗うことで、心の一番奥にある汚れた部分である罪を赦し、心を清めてくだっさのではないでしょうか。 「ともし火をともす」と言う言葉の「ともし火」は、人に光が見えるように燭台の上に置きなさいというイエス様の教えを表しています。「主人が見ていない時でもご奉仕する準備をしていなさい。夜であっても準備しておきなさい。」ということを意味していると思います。ここでいう夜は、心が弱っている時や信仰的に渇いている時かもしれません。そのような時にこそ、安心して、全てをイエス様に委ねて、恐れや不安を取り去り、喜びと希望に満たされた心にしていただきましょう。 皆さん、私達は日常生活の中で、神様から沢山の物事の管理を任されています。ある人は多くの富を持つことを任され、ある人は多くの知識を持つことを任され、ある人は他の能力を任されています。 しかし、私達はキリスト者として、皆同じ責任を負っています。私達一人一人が神様から与えられた全ての物事や出来事に責任を持つべきだと思います。 私達は時折、心や体が弱っていて、奉仕する気力が湧き上がってこない時もあります。現在、新型コロナウィルス感染症や戦争によって、毎日多くの兄弟姉妹が命を失っています。私

足ることを知る

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  「足ることを知る」 ルカ 12 . 13 - 21 皆さん、今日の福音書は「愚かな金持ちの話」についてです。ある時、群衆の一人がイエス様に「先生、私の兄弟に、遺産を分けてくれるようにおっしゃってください」と頼みました。その人は遺産相続のことで兄弟と争っていたのかもしれません。その男にイエス様は「誰が私をあなたがたの裁判や調停人に任命したのか。どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」と仰いました。 ここで、イエス様は、私達にとって財産とは何か、大切なものは何かを教えてくださいました。人が沢山の財産を持っているからといって、その人が本当に祝福されたとか、幸せな人生を送るというわけではありません。私達はどんな富を持っていても、心が満たされない時があります。それは「もっと欲しい。もっともっと欲しい。」と思う心です。富に心を奪われるとさらに富を求めて、心を病む人もいます。私達は信仰において「足ることを知る」ということを学びました。もしお金や名誉、様々な誘惑に心を乱されそうになった時には、イエス様の御言葉「足ることを知る」を思い出していただきたいと思います。 さらにイエス様は、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」と言われました。神様の前に豊かになるということは、信仰において豊かになるということです。信仰の豊かな人は、神様の恵みの中に生かされていることをよく知っている人、自分の富からも自由になることが出来る人なのだと思います。 さらに言えば自分の富を助けを求めている人達に使うことはもっと素晴らしいことだと思います。世界の中で困っている人達が沢山います。 私達も出来る事を行い、祈りの中で一人でも多くの人の幸せを願いましょう。愛は一方通行ではありません。深い心のつながりこそ、最高の富なのではないでしょうか。 残念ながら、コロナ感染者数は増加し続けています。イエス様は私達の生活の全ての恐れ、心配、苦しみをよく理解していらっしゃいます。いつでも、どこでも、イエス様の元に行き、数々の欲から解放されて、沈黙のうちに、静かに祈って神様のメッセージをしっかりと受け取りましょう 。 主の平和

日本での4年間の思い出-PADA SEBUAH KENANGAN

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  日本での 4 年間の思い出 人生は旅のようなものであり、色々な思い出を作ってくれます。 2018 年 7 月 26 日にインドネシアを出発して、 2018 年 7 月 27 日に日本に到着しました。つまり、今日で日本に来てちょうど 4 年間になります。 初めて日本の土を踏んだ時、不安と希望で胸が一杯になりました。私は当時の事を今でもはっきりと覚えています。私が日本に着くと、 3 人の先輩、 Frans Moruk 神父、 Inzen Elam 神父、そして現在ポーランドの宣教者である Rio Poa 神父が迎えに来てくれました。先輩たちの顔を見た時、安心しました。 その後、私は日本語を YWCA ( Young Woman ’ s Christian Association )で 2 週間、南山大学で 4 学期+サマープログラム)勉強しました。それに加えて、名古屋で 2 ヶ月間と北海道で 10 日間ホームステイプログラムに参加しました。 日本では全て日本語を話さなければなりませんが、私の日本語の知識はゼロで、挨拶さえできませんでした。ある朝、ザビエルハウスの庭を散歩しながらた神様に問いかけました。   「主よ、日本で私に何を望みますか?」 今、最もよく覚えているのは、 YWCA での初めての日本語の宿題です。 当時、「マンゴー 2 個+マンゴー 3 個の合計は?」という質問がありましたが、文章の意味が全く分かりませんでした。やっと答えが分かった時、今まで勉強した哲学とか神学は、簡単な日本語の質問に答えるために、全く役に立たないということに、気がつきました。 2 年間、名古屋に住んだ後、 2020 年5月 30 日、私は吉祥寺カトリック教会に派遣されました。 ちょうどコロナウイルスのパンデミックが始まった時でした。日曜日だけではなく、毎日多くの人は教会にお祈りをしに来ました。カトリック信者だけではなく、信者ではない一般の人達も教会で祈ってました。それは私の故郷では見たことのない状況です。私はその光景を見てカトリック信者ではなくても、あの人達も素晴らしい信仰を持っていると感じました。 色々な経験を経て、日本に 4 年間滞在できたことに、私は感謝します。沢山の人達との思い出も出来ました。この 4 年間に自分なりの成功も失敗もありましたが、その全ては、神様の祝福と愛と切

主の祈りについて

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「主の祈りについて」 ルカ 11 . 1 - 13 皆さん、今日の福音は「主の祈り」についてです。当時のユダヤ教のグループには、それぞれのグループの特徴を表す典型的な祈りがあったようです。弟子達は、ヨハネに教えられたという祈りの言葉を教えて欲しいとイエス様に願いました。 イエス様は、弟子達に「主の祈り」を教えられた後で、不思議な例え話をされます。それは、真夜中に隣人の家族をたたき起こしてでもパンをせがむ「あつかましさ」を描きながら、何かを祈る、または願う時は、主に向って祈るべきことを、求め続けなさい、捜し続けなさい、叩き続けなさいと表現しました。ドアを叩き続けた結果、パンを借りることができたのは、神様が喜んで答えてくだっさということなのかもしれません。 「主の祈り」について 最も大事な事は、私達がこの祈りをどのような思いで祈っているか、この祈りがどのように私達を支え、導いていてくれるかということです。 イエス様が望んでおられることは,私達が絶えず悪に抵抗し,義にかなった生活を送るよう努めながら,神様の助けを祈り求めることです。私達は時々、神様への祈願(お願い)を「祈り」と考えますが、祈願は祈りではなく、祈願は祈りの一部です。 「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見つかる。門をたたきなさい、そうすれば開かれる。」 この御言葉も大変有名な言葉ですが、残念ながら「必ず願いが叶う方法」は存在するとも、しないとも言えません。一つだけ確かなのは、努力無くして成就はないということです。神様へご自分の要求を押し付けるような祈りではなく、最大限の努力をした上で、「御心の通りにしてください」という祈りをする必要があります。 たとえどの様な悪い結果だとしても、そこから学びを得て反省をする。そして「良い選択」として、それを素直に受け入れるという行動が求められます。「祈っても自分の思い通りにはならなかったけれど、何かが変わった」「気づきがあった」という体験もあるかもしれません。もし祈りの中で、少しでも自分の中の小さな変化に気がついた時、たとえそれが自分の思うものとは違っても、結局一番「良い物」が与えられたということなのかもしれません。  どうぞ皆さんも祈りを通して、ご自分の「心の成長」に気づいていただきたいと思います。「主の祈り」で大切なこと

人生、サッカーとリオネル・メッシについてーTENTANG HIDUP, SEPAK BOLA DAN LIONEL MESSI

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人生、サッカーとリオネル・メッシについて 時々私はサッカーを見ていると、それが芸術の様だと感じる時があります。特にメッシの様な有名なプレーヤーを見ると、そう思います。   ある時はミュージシャンのようにドリブルをします。そして常にチームメイトをサポートします。彼の熱心で、情熱的な表情は彼の心や魂を映し出します。彼ほどサッカーを愛している人はいないかもしれません。 彼は試合中に多くのテクニックを使います。常に相手の弱点を分析し、   相手を乗り越える方法を考えながらゴールします。それが彼は他のプレイヤーと違う理由です。本当に素晴らしいサッカー選手です。 私はメッシの試合を見るといつも学ぶことがあります。メッシの観察力、分析力、行動力です。私もメッシのように、どんな困難な時にも挫けず、自分の目標に向けて努力し続けていきたいと思います。   (吉祥寺 - 東京、 2022 年 7 月 21 日) TENTANG HIDUP, SEPAK BOLA DAN LIONEL MESSI : Sebuah Catatan setelah menonton pertandingan antara Paris Saint Germain (PSG)  Vs  Kawasaki Frontale di Stadion Nasional Jepang, 20 Juli 2022   Acapkali, anda mesti menikmati sepak bola sebagai sebuah seni. Apalagi menonton sihir pemain bola sekelas Messi. Tentang Messi,  tak ada lagi kata diskusi. Tak ada seorang pun yang selevel dengannya. Sampai kapan pun saya akan terus menjagokannya. Lionel Messi ibarat seorang musisi yang selalu memainkan nada yang tepat dalam situasi yang tepat. Kemampuannya dalam menggiring bola, memanjakan reka

良い方を選ぶ

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良い方を選ぶ ルカ 10 . 38 - 42 皆さん、今日の福音はイエス様がマルタの家に迎えられたときの出来事についてです。マルタは食事の準備で大忙しですが、妹のマリアはイエス様の話をただ聞いているだけです。手伝わないマリアにいらだちを覚えたマルタは、イエス様に訴えました。 もし皆さんがこのような状況にあったら、どう思うでしょうか?マリアはマルタを手伝うべきだとか、マルタは、もっと簡単なおもてなしをして、一緒にイエス様の話を聞けばいい、などと思うかもしれません。 イエス様はマルタに向けて、このように諭しました。 「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。   しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」 。 このイエス様の御言葉は、皆さんが今生きていく上で 、何を大切にしているのですか、という問いかけでもあります。 その答えによって皆さんの人生観や、生き方が大きく変わります。その価値観次第で、私達は同じような環境の中にいても、幸せに生きられるか、不幸だと感じるかという事まで変わってくるものです。 私は小神学生の時、寮で生活をしていました。聖堂では毎朝、同級生、先輩、後輩、司祭、先生達と一緒に祈りやミサを行いました。一日の労働、講義を終えた後も、聖堂でまた、皆が集まり、祈りや聖書の輪読会が行われます。時々、辛い試練の日々の繰り返しの中で、自分勝手な感情や疑問が生まれたこともありました。ですが、聖書を読むたびに、自分の乱れた心を正し、祈りを通してイエス様と共にいる喜びを感じることができます。 私達は、日々の忙しい生活の中で、マルタのように、思い通りにいかない状況下で苛立ちを感じたり、押しつけがましい要求をしてしまったりすることがあります。 ですが、そんな私達にイエス様は、すべきことは“ただ一つ”、私達に柔軟な生き方や考え方へと転換しなさい、という教えをくださったのです。     確かにある人は、他の人よりもよく気が付いて、要領よく物事をこなすことができるかもしれません。でも、全ての人が同じことを出来るわけではありません。ある人は他の人と異なる事を立派に成し遂げる能力を持っていることもあります。つまり、私達の問題は、ついつい自分を基準にして他の人たちを比べてしまう事です。もし私達が、自分と同じようではな