Posts

イエス様との出会い

Image
  「イエス様との出会い」 ルカ 19.1 - 10 皆さん、今日の福音書はザアカイとイエス様の出会いの物語についてです。イエス様がエルサレムへと続くエリコの町を通られた時、ザアカイに会いました。ザーカイは徴税人の頭で、ユダヤを支配していたローマと徴税請負契約を結び、通行税や関税を徴収する仕事をしていたので、とてもお金持ちでした。彼にとってお金や地位は大変な誇りでした。ですが、彼は異邦人のために働くことで、ユダヤ人同胞からは 「汚れた者、罪人」 と軽蔑され、またしばしば利益を増やすために不正な課税を行い、過酷に取り立てていたため、人々から大変嫌われていました。 ある時、背の低いザアカイはイエス様が来られるという噂を聞きつけイチジク桑の木に駆け登って待っていると、群集の中にイエス様のお姿を見つけました。すると突然、イエス様がザアカイに声をかけました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。ザアカイはイエス様の招きに応じ、イエス様を「罪からの救い主」として迎え入れました。 皆さん、ザアカイは、なぜ必死にイエス様を捜したのでしょうか。それはザアカイ自身が、どんなにお金があっても、多くの人に嫌われていたことを恥ずかしく、寂しかったからかもしれません。ですが、ザアカイの希望以上に、イエス様は、ザアカイを捜され、近づかれました。 ザアカイはイエス様に会ったことで、自分の本当の姿、罪に気づくことが出来、悔い改めることができたのではないでしょうか。 ここで大事なことは、 ザアカイが悔い改めたから、イエス様が来られ、救いを下さったというのではありません。イエス様がザアカイを呼びかけられたということです。 イエス様はこの出会いによって、ザアカイに新しい命を与えました。 この出会いをきっかけに、ザアカイの人生の基準はイエス様になったのです。彼はイエ様の生き方に従って生き始めることが出来ました。 この物語を通して、イエス様は私達に無限の愛を示してくださいます。 「急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」 。もし私達が、ザアカイのようにイエス様を素直に受け入れることができるなら、私達も人生の基準がイエス様となり、人生の方向が変わるのではないでしょうか。イエス様と出会い、神様に立ち返ることによって、神様との交わりが

神様、罪人の私を憐れんでください

Image
「神様、罪人の私を憐れんでください」 ルカ 18.9-14   皆さん、今日は先週の「やもめと裁判官の例え話」に引き続き、 祈りについての教え が継続しています。特に 、神様にお祈りする時に、どのような心で祈ったらいいのか を教えるためにされたお話です。今日の例え話には二人の人物が登場します。それはファリサイ派の人と徴税人です。 二人は神殿にお祈りに行きます。一人はファリサイ派の人で 皆から尊敬されていた立派な人でした。一方、徴税人は皆から嫌われていた評判の悪い人でした。 ファリサイ派の人は、自分が良い人間であること、そして自分の隣にいる徴税人のような悪い人間でないことを神様に感謝しました。彼は自分の正しさ善さを並べたてて、 「神様、…感謝します」 と言いましたが、これはうぬぼれです。この祈りは、自分に向かっての独り言に過ぎないということだと思います。 一方、徴税人は 「神様、罪人の私を憐れんでください」 としか祈りませんでした。この人は神殿に来て遠くに立ち、目を上げようともせず、胸を打ちながら祈ります。それは、この人が自分の罪を心の底から悲しむしかないという彼の内面をあらわしています。結局、神様が喜んだのは、自分の自慢をしたファリサイ派の人の祈りではなく、徴税人の祈りでした。 なぜならば、ファリサイ派の人の「うぬぼれ」の根拠は他人との比較だったからです。普通の人よりも自分はちゃんとやっている、この徴税人なんかとは比べ物にならないほど正しい人間だということです。しかし、 人と比較して神様の前に自分を誇っても何の意味も無い ということは、皆さんもご存知だと思います。そのような考え方は神様との関わりを妨げてしまうだけです。自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している時、人との関係も絶たれてしまいます。 人間は互いに助け合い、支えあって生きる者であるはずです 。 皆さん、今日の福音の教えのように、自分の弱さや孤独、失敗や不安を真摯に神様に告白することができた時、神様は必ずあなたの横に立って力づけてくださいます。なぜならイエス様ご自身が、同じように御父の存在に力づけられて生き抜いたからです。 今日私は皆さんにお願いがあります。世の中には、私達より困っている人、食べる物のない人、戦争の中で苦しんでいる人が沢山います。今この時も、沢山の

絶えることなく祈る 

Image
  絶えることなく祈る  ( ルカ 18.1 - 8 ) 皆さん、今日の福音は、 「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」 という教えです。「やもめと裁判官」の例えが取り上げられていますが、旧約聖書の中では、やもめは自分を守ってくれる人がいない社会的弱者の代表でした。彼女は彼女を困らせる相手を裁いてもらうために、裁判官のもとにひんぱんに通っていました。誰かが彼女から亡き夫の財産を不正に奪おうとする、というような状況があったのかもしれません。彼女が求めた「裁き」には「悪を断罪する」という面だけでなく「善悪をはっきりさせ、弱い人を守る」という意味があります。彼女は正しさを求めるために訴えなくては生きていけないという現実があったのではないかと想像します。 福音書の中で、この裁判官は、「神を畏れず人を人とも思わず」として描かれています。強い者にこびへつらい、弱いものを踏みつけるような態度を取っていたのでしょう。やもめの正当な訴えもなかなか取り合ってもらえませんでした。しかし、彼女はそのような現実の中で絶えず求め続けたのです。その結果、裁判官は彼女のために裁判をしました。ここでイエス様は、祈りについて、やもめが自分の権利を弁護するよう裁判官に絶え間なく祈り、要求することの大切さを、お示しくださいました。 今日のイエス様の例え話を読み、私は詩編 22 編を思い出しました。この詩編の冒頭にある言葉 「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。」 この言葉は、イエス様が十字架の上で、言われた言葉として有名です。まさに死が迫っている時にも、イエス様は終末を感じながら、祈られました。イエス様御自身が、気を落とさずに絶えず祈ることがどういうことなのかということを、弟子達、そして私達にお示しになったのだと思います。 日々の生活の中で、私達は何か本当に困ったことが起きる度に必ず祈ります。例えば、時々「私は祈った。一週間祈った。二週間祈った。一ヶ月祈った。三ヶ月祈った。半年祈った。一年祈った。しかし事態は少しも変わらない。事態が良くならないばかりか、ますます悪くなり、深刻化していきます。神様は私の祈りなんか聞いてくれていないのではないか。そもそも神様に私の祈りは届いていないのではないか。」更には、「神様などいないのではないか。」そんな思いが心に湧き上

「あなたの信仰があなたを救った」

Image
「あなたの信仰があなたを救った」 ルカ 17.11-19 皆さん、今日の福音は「重い皮膚病を患っている十人の人」がイエス様に出会う物語です。「重い皮膚病」の語源は「打たれた」ですが、この病気にかかると、神殿に入ることが許されず、町の中に住むことも許されませんでした。人に出会いそうな時には「私は汚れた者です」と遠くから大声で呼びかけなければならないのが決まりでした。 当時の重い皮膚病にかかった人達は神様の前からも、人々の前からも閉め出されるという立場にありました。彼らは共同体から追放される環境の中で、サマリア人、あるいはユダヤ人であっても、苦しむ者同士として支え合い、助け合いながら生活していたのかもしれません。 イエス様が通りかかった時、重い皮膚病の人達は遠くから「イエス様、先生、どうか、私達を憐れんでください。」と声を張り上げて呼びかけました。それに対して、イエス様は「祭司達のところに行って、体を見せなさい。」と言いました。この 10 人はその言葉に従って、祭司達の所に向かいました。彼らはイエス様の言葉を信じて、従ったのです。すると、祭司達の所へ行く途中で重い皮膚病が癒されたのです。そこで、癒されたことに気づいた一人のサマリア人は、イエス様の元に戻って、大声で神様を賛美しました。イエス様は彼に「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と仰いました。 このサマリア人は、他のユダヤ人と思われる人々と別れて、なぜ、わざわざ戻ってきて、イエス様に感謝と賛美をささげる気持ちになったのでしょうか。彼は自分に起こった重い皮膚病の癒しの奇跡にイエス様の働きを見て、心から感動して、イエス様の前にひれ伏すほどに感謝するために戻ってきたのです。  皆さん、「あなたの信仰があなたを救った」とは「私の信仰が私を救った」ということですが、「私を救う私の信仰」とは、どんな信仰なのか、考えてみましょう。信仰という言葉について日本語では、「自分が神様を信じる生活」と、とらえられることがあるように思いますが、本当の信仰とは、このサマリア人が自分に起こったことに神様の働きを見て、神様の愛を感じると言う事だと思います。 自分の人生の全てを神様に委ねて、生きていく事が信仰だということを、この一人のサマリア人の行動の中から学ぶことができるように思います。私達は苦しい

神様に従う人は信仰によって生きる

Image
https://youtu.be/uep0DZOkibs 神様に従う人は信仰によって生きる 「ルカ 17.5-10 」 皆さん、今日のメッセージは「神様に従う人は信仰によって生きる」です。私達にとって「神様を信じる」ということは、神様の存在を信じるという意味だけではありません。それは、「神様に全てを委ねて生きる」ということです。神様に全てを委ねると言っても、そのためには努力が必要です。私達は完全な者ではないからこそ、神様の助けを必要とし、そして祈り願うのではないでしょうか。 第一朗読では、当時の社会の不正に対する神様の答えが示されています。現代社会にも様々な苦しみや苦痛があります。なぜ神様はそういう試練をお与えになるのか、という疑問を感じる人は多くいることでしょう。そのような災いに対する神様の答えは、「神に従い人は信仰によって生きる」という明確なものでした。 第二朗読ではテモテは、与えられた神様の賜物を守り、勇気を持って生かすように励まされました。なぜならば、彼が授けられたのは、臆病の霊ではなく、「力と愛と思慮分別の霊」だったからです。福音宣教の為にテモテは神様の証人となり、当時のあらゆる困難に直面することを恐れませんでした。 今日の福音では、弟子達が「私達の信仰を増してください。」と願いましたが、それに対してイエス様は、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」と仰いました。それは、「小さな信仰を大きくしたい」という欲を捨てて、ただひたすらイエス様の御言葉を信じ実行するという信仰を持ちなさいと言う意味であると思います。そういう努力の積み重ねが、真の信仰であり、その信仰をもっていれば、私達はどのような苦しみをも乗り越えることができます。 真の信仰を持つことが出来れば、イエス様の弟子達、また私達は揺るぎない信仰と共に生き、謙虚に「取るに足りない僕」の立場で、奉仕を楽しむ者となって生きることが出来るのではないでしょうか。 このような信仰こそが「生きる信仰」と呼ばれ、私達と神様との強い絆を作ります。信仰のおかげで、困難を乗り越え、神様の子供であるという意識を持って生き、信仰の喜びを味わうこともできるのです。信仰に支えられる人生の素晴らしさを、皆様にも感じてい

「金持ちとラザロ」

Image
  「金持ちとラザロ」 ルカ16.19-31 皆さん、今日の福音書は「金持ちとラザロの物語」についてです。「人が死んだらどうなるか」は、多くの人々の関心事です。しかし、誰にも分りません。今日の物語は、死後の世界を描く貴重な個所です。イエス様が例え話をなさる中で、登場人物に名前を付けているのは、実はここだけです。何か特別なメッセージが示されているように思われます。 ラザロとは「エリアザル」の短縮形、「神様の助けを必要とする人」という意味です。ラザロは何も無いがゆえに神様を頼りにして、そのラザロの願いに神様は答えられ、彼を「助けられました」。ところが、金持ちは富を頼りにして、その結果、神様の救いから洩れてしまいました。もし金持ちが生前のラザロを気に掛け、食卓に招いていたならば、彼もラザロの内に神様がおられることを知り、何かを為すことができたかもしれません。 この物語は私達に因果応報を教えたものではありません。「今は貧しい人も来世では豊かになるから、現世の苦しみを耐えなさい」と言っているのでもありません。また、「金持ちは金持ちゆえに地獄で苦しむ」ということでもありません。問題はこの金持ちは富を自分のためだけに用いたことです。神様から与えられた富を自分のためだけに使ったこと、イエス様は、これらの行為は良いことではなく、 責任を問われることだと言われたのです。ここでの金持ちの罪とは「何かをした」ことではなく、「何もしなかった」ことです。 今日の福音を読みながら、私は6年前に 論文を書いていた時の事を思い出しました。その時、一人の先輩司祭と私はインドネシアのフローレス島のマウメレでエイズ (HIV/AIDS) 患者と 1 年間ほど毎週の土曜日を一緒に過ごしました。彼らは、通常の生活から排除されて、大きな精神的苦痛と共に生きていました。ある人は、彼らを生きる死体と言いました。肉体的には生きているが、社会的には死んでいると考えられていたからです。エイズ患者達は私達と同じ人間ではない、と思われていました。彼らはまさしく、今日の福音のラザロそのものでした。 ある時、その先輩が私に「アンディ、あと一年であなたは司祭になります。『良い司祭とは、信者が直面している問題をよく聞くことができなければならない。人を愛するとは相手に関心を持つこと、相手が困っていればそれを自分の問

富の正しい用い方

Image
  「富の正しい用い方」 ルカ 16.1 - 13 皆さん、今日の福音書は「不正な管理人」の例え話です。「富に対する態度」について 、お金の建設的な使い方などについて考えてみたいと思います。 この管理人のした事は決して褒められることではありません。それは不正です。まず、彼は主人の財産を自分の喜びや楽しみのために使い込んでいました。しかし、彼はそのことが発覚していよいよ首になろうという危機の中で、自分に預けられている富の用い方を変えました。主人に借りのある人の借金を減額して助けてやることで、自分を迎え入れてくれる友達を作るというずるい考えを思いついたのでした。それもまた、明らかに不正なことです。しかし、興味深いことに、管理人は残された僅かの時間と機会を有効に使って、次の人生のための備えをした賢さ、それを主人は褒めたのでした。 イエス様は管理人の行った詐欺的行為そのもの、不正そのものを褒めたり、勧めたりしているのではありません。誉められた点は「抜け目なく行ったこと」です。「抜け目なさ」とは洞察力、思慮深さ、賢さを意味しています。 管理人は知恵の限りを尽くし、必死に次々と手を打って「行動して」備えをした賢さで、ほめられたのです。 さらに、イエス様は富の在り方についても教えてくださいました。 富は、神様と隣人との交わりを築くための手段として与えられているということです。自分が喜び楽しむためだけに富を用いるなら、富は人を支配し、自分の思いを遂げるための手段となります。そういう生き方をすることによって私達は人との交わりを失い、孤独に陥いるかもしれません。放蕩息子が全財産を使い果たした時、食べ物をくれる人は誰もいなかった、という先週の福音の話がそれを表しています。 私達は神様から様々なもの「お金、財産、時間、賜物・能力、人脈、所有物、そして福音」を預けられました。私達は神様が造られた世界を正しく管理する管理者なのです。だからこそ、私達は神様から預けられた全ての物を管理しなければならないと思います。 今日の福音を読んでいると、マザー・テレサのことを思い出しました。マザー・テレサは若い頃からインドを拠点に貧しい人たちへの奉仕活動を献身的に行い、ノーベル平和賞を 受賞しました。 その時、マザー・テレサは「私はノーベル平和賞にふさわしい者ではありません。けれど世界中の貧しい人々に代わって

憐れみ深い神から学ぶ

Image
  「憐れみ深い神から学ぶ」 ルカ、 15.1-32 皆さん、今日の福音書の中でイエス様は、悔い改めた「徴税人と罪人達」を「迷い出た羊、見失った銀貨、放蕩息子」に例えられて、「見失ったものを見つけ出した者の喜び」という憐れむ心を教えられました。 イエス様は例え話の結論として「悔い改める一人の罪人は、悔い改める必要のない九十九人の正しい人よりも大きな喜びが天にある。」と仰って、限りない憐みの心をお示しになりました。そして、ファリサイ派や律法学者たちに対し、「徴税人や罪人が救われるのは、神にとって羊飼いが見失った羊を捜しあてたような喜びである。」と言われ、さらに身分の差無くして一緒に喜ぶことを求められました。 これらの例え話から、私達はイエス様の御心の本質を知ることが出来ます。イエス様は、「一匹の羊、一枚の銀貨、一人の息子」を見捨てず、見つかるまで捜し求められる方であり、小さな喜びでも皆一緒に喜びを分かち合われました。イエス様は罪人が滅ぶのではなく、生きることを望まれたのです。イエス様は罪によって自分から離れ、ボロボロになり、滅びかけようとしている人を、探し、待ち続け、見つけて連れ戻すことを喜びとする方なのです。 イエス様は弟子達に「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである(ルカ 5 : 32 )」と仰いました。常に弱き者、小さき者、悔い改めた者たちを勇気づけ、愛してくださる方であることを、皆さんにも感じていただきたいと思います。 私達も自分を「 99 匹の羊」や「九枚の銀貨」、「兄」と感じる部分がだれの中にもあるかもしれません。あるいは、「迷子の 1 匹」、「無くした一枚の銀貨」、「一人の息子」と感じることもあるでしょう。私達も皆、日々、様々な立場を経験しています。このコロナ禍だからこそ、更なる憐れみの心と愛を持って日々過ごしていただきたいと思います。 私達キリスト者は、神様に見つけていただき、憐れみの心を授けられ、そして導かれて、今この教会に集まっています。この神様の恵みに感謝して、共に喜びを分かち合いましょう。  今日の福音について黙想した時、私は次の詩篇の言葉を思い出しました。「主は憐れみ深く、恵みに富み忍耐強く、慈しみは大きい。永久に責めることなくとこしえに怒り続けられることはない。主は私達

「自分の持ち物を一切捨てないならば、 あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」

Image
  「自分の持ち物を一切捨てないならば、 あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」 (ルカ 14.25-33 ) 皆さん、今日の福音の中で、イエス様は「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人として私の弟子ではありえない」と仰っしゃいました。イエス様は弟子達に弟子たる者の心構えと幸せについて示されました。イエス様が私達に「弟子」として求める覚悟について考えてみたいと思います。 私は以前、聖アントニオの生き方について読んだことがあります。聖アントニオはある時、「全てを捨てて私に従え」というイエス様の御言葉に導かれて、文字通り全てを捨てて砂漠へ行きました。すると彼のもとには彼の聖徳を慕って、多くの人々が訪ねてきました。ある時は、重大な問題を耳にし解決するために、彼はわざわざ砂漠から出向いて問題を解決したこともありました。聖アントニオは、人々に仕えることによって、逆に世に身をさらしていたとも言えます。彼にとっての「出家」とは「身を世に捨てる」ことだったのだと思います。 私達はカトリック信者として、洗礼によってすでに「世を出る」恵みを受けています。「世を出る」とは、聖アントニオのように世から距離を置きながら、逆にキリスト者として身を世にさらす生き方です。つまり私達は「出家者」、「世にあって世を出た」人と言えます。「世を出る」生き方は司祭や修道者などの特別な生き方ではありません。もちろん、厳しさも苦しみもあります。人から誤解されたり、拒絶されたりすることもあるでしょう。しかし、自分の選んだ生き方ならば、私達は、どんな人にも、どんな事にも振り回されることがないはずです。皆さん、 物事に執着したり、縛られたりするのではなく、全てを神様に委ねて生きてはみてはいかがでしょうか。 マザー・テレサの『日々の言葉』という本の中に次のような言葉があります。「よく電線を見ますよね。細かったり太かったり、新しいのや古いの、安いのや高そうなの。でも、電流が流れていない限り、電線は役に立たず、明かりはともらないのです。電線はあなたや私、そして電流は神様です。私達は、私達の中に電流を流すことも、それを拒んで、暗闇が広がるのを許すことも出来るのです」。私はこの言葉を読むたびに、これからのキリスト者としての信仰のあり方、そして信仰の無限の力を感じます。 ところで、今月は「全ての

高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる

Image
  「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」 ルカ 14.1 , 7 - 14 皆さん、今日の福音書は神様の前に立った時、私達が、「謙虚であるか」という問いかけについてです。ある安息日、イエス様はファリサイ派の議員に招待されました。その時、イエス様は招待された人々の行動を観察して面白いことに気付きました。人々はどの席についたらいいのか迷っていたようです。その様子を見てイエス様は二つの例え話を通して、「謙虚さ」を教えてくださいました。 一つは「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。招待を受けたら、むしろ末席に座りなさい。」という教えです。イエス様は「誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という御言葉で「謙虚さ」を示されました。 もう一つは「昼食や夕食を提供する時には、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」という教えです。ここで、イエス様は、お返しすることが出来ない人々にこそ、報いを求めず食事に招くように言われました。報いて下さるのは神様だからです。つまり、愛の業は、天に宝を積むということです。 イエス様が求められた「謙虚さ」を示された「誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という言葉は、誰の心にも響く美しい御言葉です。神様の前には学識も富も権力も重要なものではありません。神様が大切にしておられるのは愛と謙虚さなのです。 残念ながら、私達は知らず知らずのうちに謙虚さよりも 貪欲、傲慢、人への要求、不満や愚痴を抱えて生きています。イエス様は私達がそのような態度を入れ替え、愛や謙虚さのある態度で生きなさい、そして、自分の必要以上の欲望から解放され 人々と正しい関係を築いていくことを求めておられます。兄弟姉妹と共に幸せを分かち合い、支え合いましょう。謙虚な心でこそ、自分の務めを、神の恵みの中で果たしていけるのではないかと思います。 ところで、毎日温暖化、 洪水被害、飢餓問題などの ニュースが流れます。 地球の至る所で災害が起きています。特にパキスタンでは大洪水で 3 分の 1 国土が失われました。多くの人々が全てを失い希望も無くして泣いている状況です。今日の福音を通して、私達が愛をもって、沈黙のうちに、苦しんでいる人達の心の痛みが少しでも癒される為に、祈りましょう。 主の平和   呟き 自分を偉い者

狭い戸口から入るように努めなさい

Image
  「狭い戸口から入るように努めなさい」 皆さん、今日の福音はルカ 13.22-30 です。エルサレムに近づくにつれ、イエス様は十字架に向かう決意を固くします。イエス様の教えは次第に熱を帯び、弟子達に対しても主に従う覚悟をより強く求められました。 イエス様が教えを説いている時、ある人が質問しました。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」。この質問に対して、イエス様は神の国を家に例え、その家に入るには 「狭い戸口」 からしか入ることができず、やがてその戸口は主人によって閉められてしまうと言われました。 なぜ、この人はこのような質問をしたのでしょうか。まず、すばらしいイエス様の教えに心打たれながらも、イエス様の言葉を信じることができなかったのかもしれません。次に、ユダヤ人は神の民だから救われるが、異邦人は救われない、あるいは、ユダヤ人の中でもファリサイ派のような熱心な者しか救われないのかという思いがあったのかもしれません。 皆さんにとって 「狭い戸口」 とはどういう意味でしょうか。様々な受け取り方があると思いますが、私は「狭い戸口」とはイエス様ご自身を表しているようにと思います。それは私達の救いがイエス様の内にのみにある、という狭い戸口です。イエス様は「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことはできない」と弟子達に仰いました。私達が迷うことなく、イエス様の御言葉を心の底から信じ、イエス様の後ろを歩んでいけば、必ず神の国へとたどり着くことができます。 皆さん、イエス様の仰った 「狭い戸口」 から入る為には信仰は必要です。イエス様の「狭い戸口」が表すものは信仰です。信仰とは神様と自分との関わり、関係です。神様との良い関係は、祈る時間を持つことや生活の中で常に神様に委ねること、神様の言葉を理解すること、そして他の人に良いことをする、自分の成長のために努力をするという行為があって成立するものだと思います。 人生の最高の幸福とは、イエス様と共に生きることです。皆さん、今日の福音を通して、心を強め、勇気を持って「狭い戸口」から入って、人生の嵐を乗り越えられるよう、信仰生活を続けていきましょう。 ところで、コロナウイルスや戦争、温暖化の影響で、多くの人が悲鳴をあげています。教会の活動においても、多くの活動が妨げられてい

平和について 

Image
平和について   (ルカ 12 . 49 - 53 ) 皆さん、今日のイエス様の御言葉は、私達には少々難しく、戸惑うかもしれません。イエス様は「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」そして、「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」と仰いました。 この言葉は、私達が持っているイエス様のイメージとは、ずいぶんかけ離れた言葉のように聞こえます。今日は、イエス様の仰った「火」、「分裂」と「平和」に注目してお話ししたいと思います。 まず、イエス様が意味した「火」とは、聖霊であり、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制をもたらす神の霊です。また、「火」は神の裁きを表しています。特に、今日の福音では最後の審判の場面を意識して書かれているように感じます。私達が神の裁きの火で滅ぼされる前にイエス様が火のように燃え盛る愛で私達を救ってくださる様子が目に浮かびます。 次に、「分裂」について考えてみたいと思います。私達が思っているキリスト教は、「分裂」ではなく、「平和」が重要な教えであり、「平和の宗教」と呼ばれます。それにもかかわらず、今日の福音書でイエス様はそれと反対のことを仰います。一体これはどういうことかと疑問を感じます。 ですが、「分裂」は私達の生活の一部であることも事実です。例えばイエス様に従って行こうとした時に、身近な人達から、あるいは家族から 誤解され、対立が生じることもあります。日常生活の中でも、ちょっとした誤解から「分裂」がおきます。分裂はキリスト教の中だけで起きているわけではありません。 この「分裂」から学ぶことは、私達はどうやって「分裂」の状態の中から「各自の言葉」で自分の意見を述べ、異なる他者と共に生きることができるかということです。戦争がない状態が平和なのではありません。敵とも共存することが平和なのではないでしょうか。 「分裂」とは自分の魂を成長させる大きなチャンスでもあります。「分裂」という経験を通して私達は日常生活の中で許し、互いに尊重し、平和に生きることを学ぶことができます。 イエス様の示される平和は、相手を信じ、相手との関わりを築く呼びかけを続け、いたわってより良く生きることをめざすという意味を含んでいると思います。 私達はイエス様が投

「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」

Image
  「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」 ルカ 12.32 - 48 皆さん、今日の福音書の中で、イエス様が天にあって、この地上におられない時、教会がイエス様の再来を待っている時、私達がどのように歩んでいくべきかをイエス様は語っておられます。 そのために、イエス様が用いられている例えは、婚宴に出かけている一人の主人と、留守を守る僕(しもべ)たちのお話についてです。主人は、留守の間の家の管理を、「管理人」に任せます。問題は、この主人が、婚宴の席から、いつ戻ってくるか、管理人にも、ましてその下にいる僕たちにもまったく分からないということです。それがこの話の一つのポイントです。 留守をあずかる僕たちの在り方、その姿勢について、イエス様は次のように教えています。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」。「腰に帯を締め」という言葉は、気を引き締めて、それに備えることを命じる言葉として聖書でよく使われます。私はイエス様が、十字架の死を間近にした時、腰に手ぬぐいをまとい、弟子達の足を洗ったというシーンを思い出します。イエス様は弟子達の足を洗うことで、心の一番奥にある汚れた部分である罪を赦し、心を清めてくだっさのではないでしょうか。 「ともし火をともす」と言う言葉の「ともし火」は、人に光が見えるように燭台の上に置きなさいというイエス様の教えを表しています。「主人が見ていない時でもご奉仕する準備をしていなさい。夜であっても準備しておきなさい。」ということを意味していると思います。ここでいう夜は、心が弱っている時や信仰的に渇いている時かもしれません。そのような時にこそ、安心して、全てをイエス様に委ねて、恐れや不安を取り去り、喜びと希望に満たされた心にしていただきましょう。 皆さん、私達は日常生活の中で、神様から沢山の物事の管理を任されています。ある人は多くの富を持つことを任され、ある人は多くの知識を持つことを任され、ある人は他の能力を任されています。 しかし、私達はキリスト者として、皆同じ責任を負っています。私達一人一人が神様から与えられた全ての物事や出来事に責任を持つべきだと思います。 私達は時折、心や体が弱っていて、奉仕する気力が湧き上がってこない時もあります。現在、新型コロナウィルス感染症や戦争によって、毎日多くの兄弟姉妹が命を失っています。私